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日本語版への序文
国家はどこにあるのか、また国家のアイデンティティとは何か、何であるべきなのか、という問題は、一九九〇年代初頭以来、台湾で最も論争され続けてきた二つの政治的課題である。それは、台湾の地位や歴史、民族といった政治的話題に対する議論のなかにも見出される。
周知のように台湾という島は、一九一二年に南京において建国され、現在、台湾のみを実効支配するようになった中華民国によって統治されている。この統治の是非については、一九四九年に北京で建国された中華人民共和国と、台湾の急進的な独立運動の双方によって、歴史、国際的地位、帰属意識という三つの基本的な問題を通して今なお議論されている。
第二次世界大戦終結時に中国本土を統治していた中華民国は、平和協定によってマッカーサーから、日本統治が正式に終結しなくても台湾を接収し、軍事的占領を行う権限を委任された。フォルモサ=美しい島と称えられた台湾は、一八九五年の日清戦争終結から五〇年の間日本の植民地だった。一八九五年より以前、二〇〇年間にわたり台湾を支配していた清王朝は、下関条約によってその島を日本に割譲した。一九四三年一二月、カイロでは、アメリカのルーズベルト大統領と蒋介石中華民国軍事委員会委員長、イギリスのチャーチル首相が、日本が降伏すれば日本によって「盗まれた領土」は中国へ返還されるべきだと話し合っていた。
密室の議論の中で、イギリスはカイロ宣言(しばしば公的な文書と誤解されるが)と呼ばれるプレス発表において台湾に言及することに反対したが、最終的には台湾本島と澎湖諸島への言及がなされた。それから二年後の一九四五年に蒋介石は、国民党による台湾の軍事的占領を正当なそして合法的な中国への返還と考え、ただちに中華民国の一つの省に台湾を編入した。しかし、まだ台湾の地位は明確にされておらず、中華民国の台湾統治に関する国際法上の正当性は承認されていなかった。一九四九年に共産党によって中華人民共和国が建国され、国民党は台湾へ撤退することを余儀なくされ、事態はより緊迫した。一九五二年に結ばれた日本と中華民国(事実上台湾を支配するだけだったが)の平和協定によって、それ以前に中国と日本の間で調印されたすべての協定は無効にされ、一八九五年の下関条約に対する非難を暗に含んだ台湾返還が最終的に遂行された。その平和協定は、協定に調印する「中国」──海峡を挟んで台湾を「解放」しようとしている「共匪」から、中国本土を奪回しようとしていた台湾の中華民国──に有利なものであった。
一方、中華人民共和国政権は、一九四九年に国民党政府が台湾へ移転するとすぐに、中華民国はもはや存在しないと宣言した。中華人民共和国こそ台湾という島のいわゆる「一九四五年返還」の本来の受取人であるとされ、台湾という島は「古代から中国の一部」と断言され、中華人民共和国の領土に編入されることになった。中国の内乱に板挟みにされ、台湾は政治的焦点となり、統治をめぐって争いの対象となった。これによって続く数十年の間、台湾のアイデンティティについては、国民党と共産党の政治闘争による干渉と地政学的重要性から、自由に発言することができなくなった。
二つの中国政府は、台湾の歴史と地位と帰属をめぐる言説を独占しようと試みた。国民党にとって、台湾が疑問の余地なく中国の一部であり「古代」からそうであったということを強調することは、彼らが亡命政権ではないことを示し、五〇年間の日本による統治の後に、彼らによる台湾島の「再中国化」を正当化するのに極めて重要なことだった。他方、共産党だが、有名なジャーナリスト、エドガー・スノーによる一九三〇年代のインタビューによれば、毛沢東は台湾の位置を正確には知らず、朝鮮半島と台湾を同じように捉えていたようだ。共産党は台湾が日本による統治から自由になり独立した国家になる日が来るだろうと繰返し述べていたにも拘らず、その歴史と中国性を巡っては国民党と似たような言説を台湾解放の新たな根拠としていった。
かくして、疑いようのない台湾の中国性と、「古代から」中国の一部である台湾島という神話が生まれた。しかし、台湾の歴史について少し紐解けば、このような神話を容易に暴くことができる。台湾はそんなにも昔からではなく、一六八四年五月にゆるやかに中華帝国に組み込まれたのである。これは康煕帝が、「扶明滅清」の反乱、すなわち鄭成功親子を排除した台湾を、最初の植民者であるオランダ人に売却しようと考えた数ヵ月後のことである。「台湾は、領地のとるに足りない部分である。それを獲得しても何の利益もない。それを獲得しなくても、どんな不利益も被らない」と康煕帝は書いている。とはいえ台湾は、ついに清に統合され植民地化された。しかし台湾は、清王朝による統治の最後の一〇年間を除いて、どんな政策からも恩恵を得ることはなかった。清王朝の二一二年間は、堕落、汚職、民族間対立、統治者に対する反乱の歴史であった。そして、日本による台湾統治開始から数十年後、第二次世界大戦終結前まで、海を越えた遠いその島に関心をよせる者は中国に誰一人としていなかった。台湾の「中国性」についての言説は、一九四五年から一九四九年の転換点に支配権の正当化のために創り出されたのである。
台湾の中国性を主張する際に、中国であるということが何を意味するかを問うことは巧みに避けられた。それを議論する者は、危険な目にあわされた。台湾の歴史、地位、アイデンティティについての反体制的な言説は許容されなかった。第二次世界大戦後、国民党によって統治された台湾の「国家建設」は、台湾で中国のナショナリティを再構築することであり、台湾人による国家建設という考えを根こそぎにすることだった。台湾のナショナリズムとは、国民党にとってはこの島を独立に導くことであり、中華民国の消滅を意味した。それはまさしく、国民党にとって死活問題であった。
反体制的な意見が台湾内で激しく弾圧されるにつれ台湾の独立運動は、外国──主に日本、アメリカ、ヨーロッパの国々で組織され始めた。台湾の地位とアイデンティティをめぐる体制側の見解は、知識人によって、台湾は今や新たな植民地政権(独裁的な政権)に統治されていると批判された。中華民国による台湾支配の合法性は疑わしく(中華人民共和国が台湾を統治しているとまでは言わないまでも)、台湾のアイデンティティはその後長い間、中国文化とは距離をおいたところで形作られてきた。
台湾では中国性という体制側の公式見解を実現すべく様々な政策が行われた。つまり、台湾人に、新しい言語である標準中国語(北京官話)を普及し、学ばせ、中国本土中心の教科書を広範囲で使用し、メディアを統制し、中国文化を普及させ、台湾の諸言語(南語、客家語、先住民の諸言語)の使用と土着の文化表現を厳しく制限した。このような政策は、台湾の人々の国民意識の形成過程と、その歴史、地位、アイデンティティ、帰属に関する彼らの言説に強い影響を与えずにはおかなかった。その結果、最初の台湾生まれの中華民国総統・李登輝(在任:一九八八─二〇〇〇)が民主化を一九九〇年代に始めたとき、大多数の人々は、四〇年の間彼らの意識形成に関ってきた、政治的な社会適応教育から自由になるのに時間がかかった。
社会が自由化していく中で、一九九〇年代の民主化は、次々と新しく生まれてくるアイデンティティに関る議論を容易にした。人々は激しく内省し、国家とはどこにあり自分たちは何者なのかという疑問に答えようとした。しかし、この新しい国家の定義は容易な作業ではなかった。つまり、もし李登輝総統が、外省人に優位につくられた国民党体制の政治的、軍事的影響を徹底的に弱体化しようとすれば、中国主体の国家を建設しようとする者たちは、あらゆる方法で政治的地位、国会での多数、印刷媒体や電子メディアへの影響力を保持しようとした。
李登輝のもとで、議論されなければならない問題は数多かった。学校の教科書は、台湾人としての自覚を促すために、台湾を中心とした観点から書かれたものに変えられた。たとえば、台湾は中国が現在のようになる前から、アジアにおける世界貿易の中核を担っていたのだということが示されねばならなかった。「中国人」であることと「台湾人」であることが何を意味するのかという問題が、台湾の知識人によって再び議論され始めた。事実上、それが議論の核心だった。民族的、文化的には中国人であり、同時に政治的に、また市民としては台湾人であるということは可能か。そのような議論は、自然と台湾の将来にも及んだ。自決権や台湾人の国家創設の他にも、現状維持、将来的な統一(民主化した後の中国との)なども選択肢の一つであった。
エスニシティと国家が必然的に疑問視された。台湾という国家の存在を主張することは可能だろうか。もし可能だとすれば、その年代をいつまで遡ることができるだろうか。もし可能ではないとすれば、それを作ることは正当なのだろうか。またどうやって作るのだろうか。国家建設の問題の中核は、国家または国民、あるいは両方を作り出す過程において台湾の外省人たちをどのように組み込むか、であった。彼らの同意を抜きにして、平和的に国家建設が実現することはないということははっきりしていた。
一九九〇年代末までに、台湾はすでにアイデンティティ形成を観察できる実験室となっていた。新しい台湾人アイデンティティが模索され創られ始めただけではなく、中国人ではないと言うための新しい方法が、人種と統治とを分け、エスニシティと市民性とを分けることを通じて考えられた。議論の成熟は、その急激な政治化と対応していた。国家と社会の台湾化を進める人々の動きは、必然的に「脱中国化」政策としてその他の人々から批判された。その動きを危惧する、これまで中国として国家を建設してきた者たちは、台湾化とは単に、体制下での理想化された中国文化への適応が推進された数十年にわたる同化政策に対する反応だということを忘れている。理想化された中国文化は、台湾のローカル文化とはほとんど無縁であり、中国各地から来た亡命者たちにとってもまたほぼ無縁なものであった。
国家の領土を決定することは簡単ではない。李登輝と、彼の後任者で以前は対立していた民進党の陳水扁(在任:二〇〇〇─二〇〇八)は、双方とも中華民国の総統である。台湾という国を二人が公然と認めたにもかかわらず、彼らは、台湾の「憲法の膠着状態」に束縛されていた。「国境線」の引き直しはなされておらず、国境は現在でも公式には中華民国のままであり、それは憲法上中国本土を含んでいる。国境線の変更は、中華民国の台湾への縮小化を公式化することを意味し、台湾と中国の統一支持派にとっては、政治的制約の中で変更されるにしてもいわゆる「台湾の独立」と同じことを意味する。非公式には、海域でも空域でも、軍事、行政、安全保障、そして経済上の境界線は、台湾が苦境におかれるたびに、個々に引かれてきた。そして、中国とされる部分も、非公式に示されてきたのである。中華民国によって行政管理された人口のうち、その六〇%を管轄する台湾省政府の機能は「一時中断」させられた。中国本土沖合の金門島と馬祖島の問題は、依然として複雑な課題だった。独立支持派には中国沿岸部に「食い込んだ」金門島と馬祖島は、防衛するにはあまりに負担が重く、台湾という国家にはそれらの島を含まないと考える者もいた。一般的には、台湾海峡における澎湖諸島などの島々と太平洋の小島は、台湾という国の出生にもともと付属していたものと見られている。島としての台湾は、「自然の境界」を持っているように見える。そのため、海峡の両側での両義性や解釈の違いは四〇〇年間問題にならなかった。しかし、島々は再び歴史家に取り上げられ、この地理的隔たりそれ自体が明らかに「島国」の政治的境界を具体化しているということが議論されている。
もしどんな国家も神話か建国の物語を必要とするなら、「二・二八事件」は、台湾にとってまさにそれに当たる歴史的事件だった。一九四七年の大虐殺は、土着の台湾人と中国本土に本拠地をおいた国民党との深い心理的隔絶を生み出し、実質的に台湾の政治状況に劇的な変化を引き起こした。それは、以前の植民者であった日本がやったことと比べてもひどい虐殺だったために、日本時代を懐かしむ人さえ出てきて、中国から来た国民党政権は台湾人からもう一つの植民者として見なされるようになった。しかしこの植民者は、民族的には外国の政体ではなかった。それは中国であり、一六二四年(中国人の絶え間ない移住が始まった)から一八九五年(中国が台湾を日本に割譲した)にかけて、もっとも台湾の文化とエスニシティに影響を与えてきた国であった。そして、一九四五年には台湾人はその国との再統合を喜び、その国は五〇年間離れていた「母国」であった。「二・二八事件」はまさに、建国の大虐殺であり、台湾の独立運動の出生証明であった。それは、「台湾の独立」を掲げる反「蒋介石派閥」として、海外ですぐに成長しはじめた。もちろん、フォルモサ台湾を支配していない中華人民共和国からの独立ではなく、中華民国からの独立であった。
「二・二八事件」は五〇年間、もっとも扱いにくい問題だった。国家アイデンティティが問題化される重要な動き(外省人と台湾人との単なる和解か、国家建設運動の始まりかという問いかけ)があり、この問題のタブー視は終わった。一九九五年に李登輝は、中華民国総統の立場で台湾の人々に対し初めて政府による公式の謝罪をし、二月二八日を新しい記念日と定めた。一九四九年の分離以前に本国中国で起こった出来事以外を記念するのは、中華民国の歴史上初めてのことであり、台湾人にとっては初の経験だった。市民社会のなかでは「二・二八事件」の記念日は、民主化が始まった当初から特別視され、大事にされてきた。二・二八平和記念日は、台湾国民の最初の記念日となったのである。
一方、台湾という国について語ることは、この問題に対する一致した見解がないために、国家の成立は不可能であるという議論にすぐに行き当たってしまう。しばしば外省人たちは、これらの動きを彼らに向けられたものと解釈した。また、台湾独立の一方的な宣言も、陳水扁総統が憲法を変更するのに十分な議会での多数票を獲得することができなかったため、政治的に実行困難なものだった。そして、地政学的制約がある。中国は、もしそのような変更がなされるなら、台湾を攻撃すると主張している。結果として台湾島の中華民国が、別の形の国家に置き換わることはなかった。その代わりに、二つの国家が一九九〇年代をかけて絡み合い始めた。つまり中華民国という中国人の国家のフェイドアウトと台湾人の国家の台頭である。こうして中華民国という公式名と憲法はそのままで、台湾人の国家という色彩が強まっていった。これは、憲法上の膠着状態が台湾のナショナリズムを抑制しているということを意味している。つまり、中華民国から台湾(共和国)への国名の合憲的変更は、政治的、地理的要因のために難しく、そうすることは、外省人と中国軍の脅威に対立する立場をとることでもある。結果として、議会には国家建設運動を支持する多数派がいるものの、独立には躊躇する台湾社会が形成された。
台湾の集合的記憶は、一九四五年から一九五〇年にかけての中国からの移民の最後の波を境に大きく分裂している。集合的記憶の分裂の原因は、エスニシティ構築における政治的な深層心理にその起源を見いだせる。国民党は、一九四九年に、共産党に対して心に傷を負った約一〇〇万人の民間人と軍人の亡命者を伴って海峡を渡った。これらの外省人のほとんどは、長い間、台湾特有のアイデンティティを否定し、台湾の「再中国化」という公式の政策を拠り所としていた。政府と外省人は双方とも、日本人に洗脳された「同胞の中国人」を信用しなかった。その一方で従来から台湾にいた住民は、彼らを、中国本土で今にも敗北しそうな独裁政権を支持する侵略者と見なすようになった。たしかに中華民国は緊急事態を表明し、厳しく市民の自由を制限した。それに対する台湾住民の憤りは、一九四七年「二・二八事件」の大虐殺の二年後に、国民党が台湾に移転した時にはすでに激しいものとなっていた。エスニシティや集合的記憶、アイデンティティ、「二・二八事件」を議論することはタブーとなり、両者の偏見は深まるばかりだった。
(以下略)
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