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はじめに
この本の意図
国際化とか国際交流という言葉をしきりに耳にするようになってすでに久しい。国際交流や国際化の前提となる異文化理解という言葉にしても同様である。ここで言う文化とは衣・食・住をはじめ有形・無形の生活慣習から、人びとのものの考え方、感じ方、価値観も含めて生活様式全般のことである。そうしたものとしての異文化を理解しようともせずに、自文化だけに固執していたのでは、異民族や異国民とまともに付合えないことは言うまでもない。異文化理解こそが国際交流や国際化の大前提である。
さてそこで、異文化理解はどのようにして可能か、どこまで解れば理解したことになるのか、そもそも異文化を理解するなどということができるものなのか、といった問題に行き当たることになる。こうした根源的な問いかけに答えることは必ずしも容易ではない。しかし実際問題として、鎖国時代に逆戻りするのでないかぎり、どこ迄できるかは判らないにしても異文化理解は避けて通れぬ問題であるし、その際最小限採るべき(或いは採ってはならぬ)態度・姿勢を弁えておくことは必要だろう。
この本では今から一世紀半もの昔、日本が鎖国を解いて開国に踏み切った前後の頃に日本を訪れた欧米人たちが、初めて見る日本人と日本文化をどう眺めどう把えたかを追うことを通して、異文化理解に際して最小限弁えておくべき態度なり姿勢なりを考えてみようと思う。
いまさら言うまでもあるまいが、鎖国時代の日本を正規に訪れることを許された欧米人は、長崎出島のオランダ商館員だけであった。たとえばシーボルトは、よく知られているようにドイツ人であり、このままでは日本の入国を許されない。彼はオランダ商館付きの医師として来日したのである。
ところが一八五四年(安政一)にアメリカのペリー提督の砲艦外交に迫られて日米和親条約が締結されると、以後イギリス、ロシア、オランダとの間に同様の条約が結ばれ、さらに一八五八年(安政五)にアメリカ総領事ハリスの執拗な交渉のすえに日米修好通商条約が調印されると、ヨーロッパ諸国もこれに倣うこととなった。明治改元までの間に日本と通商条約を結んだ国は、アメリカ、オランダ、イギリス、フランス、ロシア、ポルトガル、プロシア、スイス、ベルギー、イタリア、デンマークの十一ヶ国におよんでいる。
こうした情勢にともなって、さまざまな外国人が来日するようになったのは当然のことである。イギリスの初代駐日公使オールコックはその著書『大君の都』(一八六三年刊)の中に、一八六一年(文久一)末の横浜外国人居留地の国別人口数をつぎのように挙げている。
イギリス人 五五名
アメリカ人 三八名
オランダ人 二〇名
フランス人 一一名
ポルトガル人 二名
計 一二六名
こうした数値からも察せられるように、日本の開国とともに外交官や軍人など公務にたずさわる人びとをはじめ、東洋貿易の利を求めてとか異国探訪を志してとか、さまざまの目的でさまざまの欧米人が、しかもかなりの数、日本を訪れるようになった。彼らの中には、交通不便の時代であったにもかかわらず、意外にあちこち旅しているものもある。ごく短い訪問に終ったものもあるし、数年にわたって長期滞在したものもある。そして、滞在期間の長短にかかわりなく、彼らのうちの少なからぬ人びとが、旅行記や日記の類を遺しており、その刊行されたものも相当の数に達している。かたくなに鎖国に固執し続け、それだけ異邦人には神秘のとばりに包まれて見えた日本は、当時の欧米人にとってたまらなく好奇心をそそる存在だったのであろう。
この本で私は、そうした欧米人の旅行記や日記の類を手がかりにして、彼らの目に当時の日本文化がどのように映じたか、言いかえれば、彼らがどのように理解し、もしくは誤解したかを追ってみようと思う。そしてさきに述べたように、それを通じて異文化理解のありかたに迫りたいと考えている。
開国期といえば、政治・外交問題を中心に据えるのが史書の常であるが、この本はいうまでもなくそうした問題を扱うものではない。取りあげる日本文化も、欧米人との政治・外交上の交渉にあたった幕閣をはじめとする政治家や閣僚の類のそれではなく、庶民の生活文化である。であるから、たとえば日本の建築を問題とするばあいには、対象を庶民の住居にかぎり、武家の屋敷とか、あるいは神社、仏閣のような特殊な建物は問題の外に置く。衣服にしても食生活にしても、その他の風俗・習慣についても同様である。ときに武家や官僚について触れることがあるにしても、原則は右の通りにある。
とはいえ、当時の日本を訪れ記録した欧米人の著述はすこぶる多いし、また彼らが注目してとりあげている事柄も多岐にわたっている。この本で私が検討を試みたところはその一部でしかないことを、あらかじめおことわりしておく。
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