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はじめにより
本書は近代日本において行われた植民地博覧会を取り扱っている。植民地博覧会とは植民地で開催された博覧会、および植民地そのものを主題にした博覧会のことである。植民地で開催された博覧会であるゆえに、主催した植民地行政府の意向が直接的に反映されていて、いわば植民地統治の一環として行われたという性格を持ち合わせている。このため、植民地権力がむき出しに露呈された場面が数多く見られ、帝国主義の暗い部分を映し出していると言うことは可能である。
万国博覧会の光の部分が産業のめざましい発展を展示することなら、その傍らで、この植民地博覧会は暗い闇の部分もまた持ち合わせていたのである。博覧会が華やかさを増していく一九世紀から二〇世紀にかけては帝国主義の時代であって、西欧列強は世界各地に植民地を持ち、互いに覇を競っていた時代であった。博覧会もこのような世界情勢と無縁ではなく、植民地支配の実績を誇るために植民地各地の農産物、手工芸品、さらには植民地の住民の展示が万国博覧会の目的の一つに数え上げられていたことは、この時代の大きな特徴であった。その典型的な博覧会は、「一日間世界一周旅行」を謳い文句にして、一九三一年にパリで開催された「パリ万国植民地博覧会」であった。
パリ万国植民地博覧会にはマダガスカル、モロッコ、インドシナなど、フランスの多くの植民地からの出展が見られた。異国趣味を誘い、西洋文明を際立たせるため「見世物」として植民地の住民を会場内に配置し、西欧支配の秩序を合理化するために植民地世界をスペクタクルとして一望させること、これがパリ万国植民地博覧会の目的であった。もっとも、展示された植民地の姿は博覧会場では「異種混交(ハイブリッド)」が見られ、例えば、原型に似せて再現されたアンコールワットが異国趣味を呼び込む一方で、内部は現代的に設計された展示空間が広がっていた。こうした異種混交性にもかかわらず、観客を魅了させたのは会場内に連れてこられ歌舞を演じた植民地住民の存在であって、植民地住民を劣った「人種」として位置づけることで、西欧を頂点にした「人類進化」の歴史を語る筋書きができあがっていたのである[モルトン 二〇〇二:第六章]。
西欧を後追いする形で、明治期の日本でも博覧会開催の機運は高まっていた。すでに幕末期の日本も一八六七年のパリ万国博覧会に参加していたが、明治の時代に入ると、西欧の博覧会を模して日本国内でも博覧会が開催されるようになった。明治四(一八七一)年には日本初の博覧会、「京都博覧会」が開かれ、明治一〇年には「第一回内国勧業博覧会」が開催されている。初期の博覧会は珍品・奇品を陳列する物産会まがいの域を出なかったけれども、その後の国力の増大に連れ博覧会は回数を重ね、規模も大きくなっていった。ただし、最初に断っておくが、ここで言う博覧会とは広義の意味を持っていて、明治期に盛んに試みられた「共進会」など、類似の催しをも包括している。
日本での博覧会を一望した時、西欧諸国と著しく違った特色があるのに気づく。それは、植民地において博覧会を開催した経験をもっていたということである。明治以後、日本が帝国主義的野心を露にし、海外に新領土を求めた時、その植民地もまた博覧会と深い関係に置かれたということである。パリで万国植民地博覧会が開かれたと同じように、日本においても植民地そのものを対象にした博覧会が開催されたし、一般的な博覧会でも植民地からの出展が相次いだ。海外の植民地でも、例えば台湾総督府や朝鮮総督府が、日本本土で行われたのと同じ形式を踏まえて博覧会を組織し開催していたことは、歴史的事実であった。
明治三六年に大阪の天王寺公園で開催された第五回内国勧業博覧会は、華麗なポスターや絵葉書を含めた豊富な記録資料などが今の世に残っているため、全貌がよく見える。植民地の住民を見世物として大衆の眼前に晒したことで話題になった「学術人類館」が登場したのは、この博覧会においてであった。会場正門前に建てられた「学術人類館」には台湾などの植民地の住民が住み込み、見学者の好奇の視線を浴びていた。連日のように博覧会の光景は新聞で報道され、人々の関心を誘っていた。この博覧会の開催趣旨について、『大阪朝日新聞』はこう伝えている(「人類館」『大阪朝日新聞』明治三六年三月一日)。
内地に近き異人種を聚め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて北海道アイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、インド三名、瓜哇(ジャワ)一名、バルガリー(ベンガル)一名、都合二十一名の男女が各其国の住所に模したる一定の区画内に団欒しつつ、日常の起居動作を見するにあり。
この展示場に海外から呼び寄せられた「異人種」は、「日常の起居動作」を観察されていたわけであるから、まるで見世物扱いにされていたことになる。生身の住民を展示したということで、沖縄県からの抗議をはじめ種々の非難を浴びせられた学術人類館は、帝国日本が植民地へ向けた眼差しのありかをよく示している。
この展示を企画したのは、日本で最初に「人類学会(東京人類学会)」を立ち上げた東京帝大教授の坪井正五郎であった。坪井は学問の啓蒙を常日頃から唱えていた自然人類学者で、この内国勧業博覧会を利用することは人類学の啓蒙のためには格好の手段であると考えていた。坪井は学術人類館へ「人種地図」を出品している。その地図は「壁一間半、幅二間半、四十五度の傾斜に立て掛け、五十ヶ所の人種を選び、男女取り交ぜ、凡百体をば高六七寸の切り抜き人形として図上に立て列ね」たものであった[無署名A 一九〇三:二五一]。坪井が書いたこの人種地図の解説文は会場で配られていて、それによれば、「住民の容貌、体格、風俗習慣の一様で無い」ことを示すために作成されたのであった(第1図)。専門的学問内容を一般の人々に啓蒙することを生きがいにしていた坪井の取った態度を好意的に解釈すれば、人類の文化的、身体的多様性を世間に訴えるための企画ということなのであろう。この博覧会場では「学術人類館開設の趣意」という刷り物が配布されていた(第2図)。人類館の展示は欧米の方法を真似たもので、かつ博覧会の余興と位置づけられた内容ではあるが、底流には人類学を一般に広めようとする坪井の啓蒙への執着がうかがわれる。
だが、坪井の思惑とはかけ離れ、「学術人類館」はやはり見世物にすぎなかった。恐ろしいことには、この植民地住民の展示は大正期に行われた「拓殖博覧会」などにも受け継がれていき、戦前期の日本の博覧会の一つの特徴を形作っていた。一方で、日本が植民地を持ったということは、欧米の博覧会では起こらなかった決定的な出来事を作り出していった。それは、植民地で博覧会が開催されたという出来事である。満洲ではいささか事情が異なっていたにしても、台湾、朝鮮では総督府が主催になり、何度も博覧会を開催した歴史が残っている。その開催趣旨は、一つには日本国内の産業製品を陳列して、その発展ぶりを植民地住民に教えるという宣撫活動が目的であり、また別の目的としては博覧会を通して日本の植民地統治の成果を謳いあげることにあった。結局のところ、統治手段の一環として植民地での博覧会は開催されたのであった。
むろん、植民地での博覧会は日本本土で同時期に開かれた博覧会と無関係ではなかった。例えば、昭和一〇年代、日中戦争、さらに太平洋戦争が激しさを増していくと、時代の要請を受け、国家の繁栄を見せつける国威発揚の博覧会が日本各地で開催されるようになる。昭和一二年には旧・阪急西宮球場で「支那事変聖戦博覧会」が開かれ、昭和一四年には同じく西宮市で「大東亜建設博覧会」が開催された。この時に登場した日中戦争の武勇を賞賛する大パノラマ展示を見て、観覧者は興奮を覚えたようである。同じ時期、日本の国威発揚を狙う博覧会が朝鮮でも行われ、会場には多くの朝鮮人の熱気が充満していた。宗主国と植民地との双方でまったく同じ現象が生まれていた。博覧会での熱狂ぶりを見る限り、皇民化時代の日本と朝鮮の人々は、同じように時局に呑み込まれていたという意味で、同時代性を体験していたのである。
植民地博覧会は時流を敏感に反映する催しであり、植民地の特殊性も映し出していて、日本本土では見られない独自性を持っていた。とりわけ、台湾博覧会での加熱ぶりは如実に台湾の置かれた状況を映し出している。それとともに言えることは、植民地であった台湾、朝鮮と、植民地でありながら日中戦争の戦場と化していた満洲とはおのずから博覧会に対する地元民の態度は違っていた、ということである。あるいは、総督府の全面的な指導のもとで展開された朝鮮、台湾の博覧会と、大連市を主体にした博覧会とは比べてみること自体が理にあわないことなのかも知れない。とはいえ、近代日本が関わった植民地博覧会を通観する著作が今までにない以上、東アジア全域を視野に置いた本書の試みは決して無駄ではないと考える。本書は、こうした側面に留意し、日本の植民地で行われた博覧会の状況をつぶさに記述する試みである。
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