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はじめに
王 維
本書の主たる目的は、現地調査と文献研究に基づき、日本華僑の文化・社会のダイナミズムをエスニシティの視点から考察することにある。その際とくに祭祀と芸能に焦点を当てるが、それは、変動過程にあるエスニシティにおいて、それらが極めて重要な意味をもつからである。綾部恒雄も、アメリカ社会において「大社会のなかで社会化されつつも、民族集団の成員は彼らの祖先の文化との象徴的な関係を発展させているということである。こうした場合、民族的芸術や音楽などが民族的アイデンティティのシンボルになりやすいと言われる」[綾部 一九九三U一八]と述べ、エスニシティ再編・再生過程における芸能の重要性を指摘している。
「エスニック・グループ」及び「エスニシティ」の定義は研究者によって違いが大きいが、本書ではまず次のような定義と視点に準じたい。
「エスニック・グループとは『国民国家の枠組みの中で、他の同種の集団との相互行為的状況下にありながら、なお、固有の伝統文化と我々意識を共有している人々による集団』のことである。……民族という概念が静的であるとすれば、エスニック・グループという概念は動的であるといえる。エスニシティはこうしたエスニック・グループが表出する性格の総体を指している」[綾部 一九九三U一三]。
ただし、日本華僑を一つのエスニック・グループとする場合、前記の定義に完全にはおさまらない。まず一つには、華僑の場合、「他の同種の集団との相互行為的状況下」というより、上位社会(日本社会)との相互行為的状況がより重要である。さらに、「相互行為的状況」は、国民国家の枠組みの内部のみに限定されない。むしろ、出身国との相互行為や、出身国とホスト国(上位社会)との関係が与える影響が極めて大きい。そこで、定義の一部を「出身社会、上位社会及び他の同種の集団との相互行為的状況下」と置き換えたい。
エスニシティにおいて「帰属認識」を重視したF. Barthは、「エスニックな範疇の重要な特性は『客観的』差異の総体ではなく、その行為者自身が意味あると考えているもの」だとしている[Barth
1994(1969): 10-13]。
「『客観的』差異」については、日本華僑の場合も、住居、服装、生活様式など文化の日常的・外面的な側面において、上位社会(日本社会)の中で社会化し、「同化」する傾向が強い。言語についても、とくに長崎では中国語さえも話せない華僑が多くなっている。華僑たちは、日中戦争中や戦後の苦難と被差別のなかで、日本社会への適応を強いられ、また一方で、近代化を進める日本社会に積極的に順応してきたのである。しかし、一九七二年の日中国交回復を転換点として、近年、華僑社会の中に伝統文化復活の動きが、無意識的にも、また意識的な運動としても、顕著に見られるようになってきた。
日本華僑社会の場合、大規模な集団的移住がなかったため、中国の伝統的な宗族は、少なくとも形式的な組織としてはほとんど定着していない。しかし、例えば長崎華僑において、華僑同士は婚姻による関係の網目によって互いに強固に結ばれており、そのエスニック・グループとしての境界は維持されてきた。上位社会との交渉の中で、日常的・外面的な文化は「同化」の傾向を示してきたが、華僑社会が日本社会に単純に同化してきたのではなく、「華僑であること」(華僑としてのアイデンティティ)はエスニック・グループの境界内で潜在的に保持されてきたのである。
前記のような状況の中で、日本華僑が意識的に││F. Barthがいう「その行為者自身が意味あると考えているもの」として││「アイデンティティを示すために探し求め、誇示している弁別的特徴」は、とくに祭祀や芸能であり、華僑としての「基本的価値指向││それによって振る舞いが判定される、道徳や美徳の基準││」も、その中で無意識的に培われてきた。このように、華僑が文化の日常的側面において社会化・同化の傾向を示す一方で、文化の非日常的側面としての祭祀や芸能は、エスニシティの維持と復活・再編において、大きな役割をになうようになったのである。
本書の主目的はエスニシティ論そのものを論ずることではなく、すでに多くの研究者によって議論されてきたエスニシティ概念を用いながら、日本華僑の事例分析を通じて、その文化変容を整理し、再検討することである。ただ、従来のエスニシティ研究では、一つのエスニック・グループ内の差異にはそれほど注意が払われることなく、それが一枚岩であるような印象を受ける事例研究が少なくなかった。そこで本書では、長崎、神戸、横浜の三地域の華僑社会を比較し、諸地域の特質の解明を試み、また、各地域の華僑社会内部の変異についても配慮したい。日本華僑は大都市に集中しており、東京や大阪にも多くの華僑が居住しているが、この三地域をとくに取りあげるのは、そこに華僑社会のシンボルであり活動の中心でもある中華街が存在し、近年著しい伝統再編の動き(本書の中心的テーマ)がその中華街を中心に起こっているからである。
ここで、華僑の定義について検討しておきたい。
東南アジアを中心に、世界の各地に住む華僑の数は約二六〇〇万人にのぼるが[可児 一九九五U二三]、日本の華僑の人口はおよそ五万人といわれている[官 一九八二U二〇一]。しかし、研究者の間でも、華僑人口はその定義によって大きく異なる。R.
Cohenが指摘するような、研究者によるエスニック範疇化の問題が存在するからである[Cohen 1978: 381-382]。そこで、本論にはいる前に、まず「華僑」の定義に関する筆者の立場を述べておく必要がある。
戴國[は華僑と華人を明確に区別する必要性を強調し、華僑の厳密な定義として、「中国国籍を保持したまま海外に私的(中国の公務を帯びない)に、かつ長期的(一時的な旅行や商社の駐在員もしくは留学生、就学生、技術研修生などは含まれない)に居住する中国人だけを意味する」とし、帰化したものは華人と呼び替えることが妥当だとしている[戴 一九九一U二〇]。同様に、吉原和男は中国における法律上の区別を紹介している[吉原 一九九二U七七]。このような定義の明確化はテーマによっては重要である。しかし、エスニック・グループとしての華僑の文化を問題にする場合には、国籍を基準として区分することはあまり有効とは思われない。戴自身も「華僑・華人が関わる社会は、区分けしがたく重複しながら活動は営まれる。」[戴 一九九一U三一]と述べ、しばしば、「華僑・華人」と筆記し並列して使ったり、括弧付きの「華僑」を両者を含める用語として用いている。
西澤治彦は、華僑の定義において「中国人(漢人)たること、本国との関係の維持、及び本人の意識」を重視し、「本国との関係では、国籍よりも、社会・文化的な関係が重要であり、これは自分が中国人(漢人)であるという意識の問題とも関わっている」とし、さらに、アイデンティティの重層性について、「中国人(漢人)であるという意識は、さらに広東、福建、客家など各方言集団に下位区分され、各集団ごとに強い結束を保っている。これらはさらに、同郷集団や親族集団に下位区分される。海外における中国社会の維持に寄与している各種華僑団体も、彼等の社会がもつ、このような重層的な構造に対応している。このような重層的な構造は、個人の帰属意識にもみられ、対比されるその時の相手に応じて、各レベルで結束する。したがって、華僑という概念も、この意味では彼等の自己同定の一つのレベルにすぎないし、華僑の全てが、華僑意識のもとに常に一枚岩的に結束しているとは考えられない」としている[西澤 一九八五U二三七]。
華僑をエスニック・グループとしてとらえるためには、この西澤の指摘は重要である。日本の華僑のアイデンテイティに関していえば、日本の国籍を獲得しているか否かを問わず、多くの人が自分は華僑であると自己認識し、また同郷団体に所属している。日本の社会で、国籍や日常の生活様式において形式的に社会化しながら、意識としてはなお華僑としての、また同郷集団への帰属意識を保持しているのである。
ここでエスニック・グループとその部分集団についても規定しておきたい。王u興と瀬川昌久は、香港と台湾における、漢民族の移民の同郷集団をエスニック・グループとして扱っている[王・瀬川 一九八四U四〇七│四一七]が、本書では日本華僑社会をエスニック・グループ、同郷集団をサブ・エスニック・グループとして扱う。また、長崎、神戸、横浜の各華僑社会はエスニック・グループの一部としての地域集団とする。
華僑に関してさまざまな定義が可能であり、研究分野とテーマにより、それぞれ利点がある。しかしオールマイティな定義を厳密に規定することは困難であるだけでなく、有効とは思われない。
エスニック・グループには、集団内部からの境界と外部からの境界による「二重境界」が存在する[綾部 一九九三U一八]が、内部からの境界自体も、一つに確定されるわけではない。例えば、長崎華僑の場合、一般的に、帰化した華僑は、華僑総会には所属できないが、三山公幇(現在の長崎華僑唯一の同郷組織)には所属することができる。さらに、華僑在留が江戸時代に遡る長い歴史を持つ長崎の場合、「日本人」の中に華僑の出自を持つ者も少なくない。そして、華僑から受容した伝統文化が現在の長崎の重要な地域文化の一部となっている(それは本書のテーマの一つである)。このような、長崎の特殊な状況にも配慮する必要がある。
華僑という用語は個人を指す場合も集団を指す場合もある。華僑の定義はその両者で食い違うことが少なくない。その場合、集団としての華僑と個人としての華僑を同一に扱うために混乱が生ずるのである。そこで、本書では、華僑の定義を、集団としては「国籍を問わず、国外に私的かつ永続的に居住する中国人及びその子弟・子孫によって構成される、中国との関係を維持するエスニック・グループ」と規定しておき、個々のメンバーについては、エスニック・グループとしての華僑社会(集団)へ帰属意識をもつ人としてとらえておきたい。つまり、個人としては、国籍にかかわらず、中国人やその子弟で、華僑社会へ帰属する人(すなわち華僑)もいれば、そうでない人もいるわけである。本国との関係については、集団全体としての関係を考慮すればよく、個人的には関係を断っていても構わない。また、華僑成員は境界を移動することもあり、さらに、境界領域にいる人もあると考えたい。この定義には当然ながら、いわゆる「新華僑」も含まれる。しかし、本書は芸能と祭祀に焦点を当てるため、その中心的担い手であるいわゆる「旧華僑」を主たる研究対象とすることを断っておきたい。
華僑をエスニック・グループとしてとらえ、祭祀や芸能に焦点を当てることにより、華僑文化のダイナミズムを再検討することができ、また古くから中国文化と接してきた日本の地域社会の文化をも様々な視点から問い直すことが可能である。しかし、これまでの日本華僑に関する研究は経済と歴史に偏っていた。
本書のテーマと関連する先行研究は、@普度など伝統祭祀・芸能についての研究([越中 一九七五]、[田仲 一九八三]、[尾上 一九八三]、[團 一九九一]、[曽 一九八七・一九九五・二〇〇〇]、[吉原 一九九二]、など)、A中華街についての研究{[山下 一九九一・一九九三]、[横浜開港資料館 一九九四]、[菅原 一九九六]、[大橋 一九九六・一九九七]など)、B長崎華僑祭祀(歴史)に関連する研究([内田 一九四九]、[山本 一九八三]、[劉 一九九〇]、[黒木 一九九〇]など)、C長崎くんちに関する研究([蒲原 一九六八]、[越中 一九七八・一九八八・一九九一]、[田中 一九七八]、[森田 一九八〇]、など)、D長崎の明清楽についての研究([中村 一九四〇]、[浜 一九六六]、[小泉 一九七七]、[廣井 一九八一]、[中西・塚原 一九九〇]、[山野 一九九一]など)に分類することができる。
@については、普度祭祀のプロセス及び行事の変容についての詳細な研究がなされているが、その運営形態(とくに長崎の場合)についてはあまり述べられていない。Aについては、主に中華街の歴史、都市における中華街の意味、中華街の現状等について論じられているが、中華街における華僑及び日本人の組織形態や、祭祀行事成立の過程、及びその変遷、さらに芸能組織の実態などについての詳細は明らかにされていない。Bについては、主に歴史上(戦前まで)、華僑社会で行われた祭祀や運営について述べられているが、戦後や現代の華僑組織や運営については触れられていない。Cについては、森田は都市人類学の視点からくんちのプロセス、変容及び組織運営などについて述べている。ただし、くんちを華僑から受容された祭祀・芸能としては扱っていない。他は、くんちの歴史とくんちの形態について紹介したものである。Dについては、廣井は日本社会に広く伝わっていた「九連環」と明清楽との関係を論じ、山野は明清楽の概説と現状を論じ、他の文献は明清楽の由来と歴史を中心に論じている。
祭祀と芸能に焦点を絞っても、華僑文化とその変容過程は複雑かつ多様であるが、前記のようなこれまでの研究では、それらが総合的に整理されているわけではない。そこで本書では、まず華僑における祭祀と芸能の類型化を試みて整理し、その上で「伝統の再編」の過程について考察することにしたい。
また、エスニシティの変動に関して、エスニック・グループと上位社会との相互交渉を扱うだけでなく、従来のエスニシティ研究ではそれほど扱われなかった、異なるエスニック・グループの重なり(具体的には華僑と日本人によって構成される中華街コミュニティ)、エスニック・グループが上位社会(日本社会あるいは周辺の日本人地域社会)に及ぼす影響、エスニック・グループと出身社会(本国)との関係、上位社会(日本)と出身社会(中国)の関係などにも焦点を当てることにより、華僑のエスニシティ研究の視点を広げ、新たな問題提起を試みたい。
本書の構成は、第1部で長崎華僑を扱い、第2部で神戸華僑、第3部で横浜華僑をそれぞれ扱い、第4部で比較考察を行う。
第1部では、まず第一章は華僑社会の概要、すなわち江戸時代初期まで遡る華僑の歴史の概要、華僑の来日経緯と家族・親族関係等の事例分析、華僑組織の変化等について論じる。華僑社会の伝統文化の再興の背景には、近年、本国との民間レベルでの交流が盛んになり、華僑がその出身地との行き来を復活したこともあげられる。本国における、文化大革命以後の伝統文化の見直しの動きの影響も見落とすことができないのである。そこで、ここでは、出身地の福建省で改訂再版された宗族の族譜を保持する陳氏の事例をとくにとりあげる。第二章から第四章までは、長崎華僑社会の祭祀・芸能を時代背景に沿って取りあげてゆく。第二章では、長崎の日本人社会に受容され根付いた華僑の芸能と祭祀の事例として、明清楽、及び「長崎くんち」を中心とする年中行事を取りあげる。これは現在の華僑社会内部の問題ではないが、相互交渉を重視する視点からは重要と考えるからである。第三章では伝統的な芸能や祭祀として、普度(盂蘭盆)を中心に論ずる。第四章では新たに再編・創出された祭祀である灯籠祭とそれが長崎全体の祭として拡大された過程について論じる。
第2部と第3部では、長崎との比較のため、神戸華僑と横浜華僑の祭祀と芸能を取りあげる。第2部では神戸を取りあげるが、まず第一章で、神戸華僑の概要、第二章で祭祀・芸能の継承についてまとめ、第三章では神戸の南京町(中華街)の歴史及び南京町商店街振興組合の設立と春節祭の創出について取りあげ、阪神・淡路大震災とその復興過程における振興組合と春節祭創出の意義についても論じる。第3部は横浜を取りあげるが、第一章と第二章で、横浜華僑の概要と祭祀・芸能の継承についてまとめ、第三章では横浜華僑の中華街の歴史及び中華街発展会協同組合の設立、春節祭の創出等について論じる。
第4部は伝統とエスニシティの再編に関する考察部分である。まず第一章で日本華僑における芸能と祭祀の類型についてまとめ、次いで第二章では、長崎華僑社会における新たな祭の創出とエスニシティ再編について考察し、さらに長崎と比較しながら、神戸華僑社会と横浜華僑社会における新たな祭の創出とエスニシティ再編について、それぞれ考察する。第三章では、三地域の華僑社会における芸能と祭祀の類型及び伝統の再編とその背景についての比較分析を行い、エスニシティ再編に関する総合的な考察を試み、三地域の共通点とそれぞれの特質を探る。
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