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序語
川越泰博
明代洪武朝三一年間の歴史において、洪武二六年(一三九三)は、極めて騒然とした年であった。陬月(正月)が明けると、早々に世間を恐懼させた事件が起きたのである。錦衣衛指揮のnkなる人物が、
玉は景川侯曹震、鶴慶侯張翼、舳艫侯朱寿、東莞伯何栄及び吏部尚書yN、戸部侍郎傅友文等とともに変をなさんと謀り、将に帝の田に出るを伺い、事を挙げんとす(『明史』巻一三二、藍玉伝)。
という告発をしたのを機に、藍玉を中心に曹震・張翼・朱寿・何栄・yN・傅友文、それに会寧侯張温・普定侯陳桓・懐遠侯曹興など明朝の重臣たちが次々に捕縛されて下獄していったのである。かれらが逮捕されたのは、二月一五日における洪武帝の田(皇帝みずから田を耕して宗廟に祭る穀物を作る儀式)の機会を狙って事を挙げようとしたとの事由によるものであったが(宋端儀『立斎間録』巻一)、逮捕されたのは、これらの重臣たちに止まらず、かれらに繋がりのあるものたちも芋づる式に捕縛され、その数は厖大なものとなった。謀反の首謀者とされた涼国公藍玉に関して言えば、このとき逮捕されたのは、一族係累のみならず、その火者や佃戸などの使用人から知友まで広範囲に及んでいる。
このことは、洪武帝が、本事件に関して、その罪人取り調べの記録書、すなわち爰書をもとに編纂させ、洪武二六年(一三九三)五月に刊刻頒布させた『逆臣録』によって知ることができる。藍玉の獄で殺された人数は、普通一万五千人(『皇明詔令』巻三、宥胡藍党人詔、『明史』藍玉伝、『二十二史箚記』巻三二、胡藍之獄など)というのが一般的であるが、この他に、二万人(『明史紀事本末』巻一三、胡藍之獄)とか、胡藍二獄合わせて三万人(『国ケ』巻一〇、太祖洪武二六年〔一三九三〕八月の条に引く朱国禎の文言)とか伝えるものがあって、必ずしも一定していない。しかし、いずれにせよ、上に見たように、藍玉党(藍党)とみなされた曹震・張翼・朱寿・何栄・yN・傅友文・張温・陳桓・曹興など明朝の重臣たちは、その一族係累から使用人にいたるまで逮捕されたのであり、しかもそれら逮捕された人々に連座して族誅されたものをも含めると、その総数は、当然万を数えるものとなったものと思われる。
藍玉と曹震・張翼・朱寿・何栄・yN・傅友文等の高官が大量に誅殺されたのは、二月一〇日のことである。それから、ほぼ一ケ月を経た三月一七日には、会寧侯張温と中軍都督府都督僉事の蕭用が誅殺された。さらに、四月八日には瀋陽侯察罕が、六月一八日には、左軍都督府都督の馬俊が誅殺された。このように、錦衣衛指揮のnkの告発によって、藍玉らの処刑から始まった本事件の処理は、およそ四ケ月にしてようやくけりがついたのであった。この事件は、通常、藍玉の獄、もしくは藍玉党案と呼ばれているが、これは、洪武一三年(一三八〇)に起きた胡惟庸の獄とともに「胡・藍の獄」と併称されている。
周知のように、洪武帝の時代には、藍玉の獄も含めて、捏造・でっち上げともいうべき大小様々な疑獄事件が起きた。その中で五大疑獄事件というべきものは、洪武九年(一三七六)の空印の案、一三年(一三八〇)の胡惟庸の獄、一八年(一三八五)の郭桓の案、二三年(一三九〇)李善長の獄、そして二六年(一三九三)の藍玉の獄である。その中で、藍玉の獄が、胡惟庸の獄とともに、「胡・藍の獄」と併称されるのは、その規模が大きく、ともに洪武時代の他の疑獄事件を遥に凌駕する惨絶を極めたものであったからである。
上に列挙したように、藍玉の獄は、洪武時代の五大疑獄事件の最後に位置するものであったが、それでは、空印の案から藍玉の獄まで、なぜこうした疑獄事件が、つぎつぎに洪武中に起きたのか、換言すれば、洪武帝は、なぜこのような疑獄事件をつぎつぎに発動しなければならなかったのか、ということになるが、こうした五つの疑獄事件を統一的に捉えようとしたのは、檀上寛氏である。氏は言う。
五事件は相互連関的な意義を持ってはいるが、大きく分ければ胡惟庸の獄までの前二者と、残りの後三者とに二分できよう。胡惟庸の獄直後の官僚機構内部と郷村での改革は、一方が中書省の廃止と六部の昇格、他方が里甲制の設置に結実したことはよく知られている。ともに王朝支配確立の指標となる改革で、単に洪武朝のみならず、明代史上での画期的意義を持つ。その意味では、後三者の事件は補足的なものといえなくもない。胡惟庸の獄を境に二グループに分けた所以である。
そして、かかる疑獄事件の結果、空印の案では「行省」、胡惟庸の獄では「中書省」、郭桓の案では「六部」の革新的な機構改革・刷新が行われ、李善長の獄においては、「富民」の移徙政策が行われたという。
それでは、五大疑獄事件の最後に位置する二六年(一三九三)の藍玉の獄においては、結果として何が齎されたのであろうか。檀上氏は、
年少の皇太孫が後継者と決まったため、その将来を案じた朱元璋は、皇太子の死の翌二十六年に、新たに「藍玉の獄」という疑獄事件を起こして、生き残っている功臣・官僚達に弾圧を加えねばならなかった。
と言い、これまでの疑獄事件をくぐり抜けて、生き残っていた功臣・官僚達の一掃をはかったとされた。
確かに、これら五つの疑獄事件は、洪武帝の皇帝権強化のために展開されたものであり、一種の連環性を有するものであった。そのため、空印の案における「行省」、胡惟庸の獄における「中書省」、郭桓の案における「六部」のような機構改革・刷新、李善長の獄における「富民」の移徙政策のように、皇帝権強化策につながる諸改革が行われたのであり、洪武時代の疑獄事件は、檀上氏のように統一的に捉えるべきであろう。ただ、洪武二五年(一三九二)四月における皇太子標の死、同年九月における皇太孫の決定をうけて発動された藍玉の獄においては、「生き残っている功臣・官僚達」に弾圧を加えるという側面が強く、前四者のような改革・政策の実施という側面は全くなかったのであろうかとの疑問が抱かれる。なぜならば、前四者は、その疑獄事件の結果から見れば、明確な政治的意図と政策をもって発動された面が強く、これに対して、藍玉の獄が、「生き残っている功臣・官僚達」に対する弾圧であったとすれば、矛先が同じく建国の功臣に対するものであったとしても、前四者と藍玉の獄とでは、政策論的にはやや性格が異なるように思われるからである。檀上氏の理解にしたがえば、藍玉の獄においては、「生き残っている功臣・官僚達」に対する弾圧そのものが目的であって、何らかの政策の変更なり、改革を意図したものではなかったということになるであろう。
皇太子標の急死、それによって生じた同年九月における皇太孫の決定は、洪武帝自身予想もしていなかった事態であった。かかる緊急事態の発生を、一つの導火線として、年少の皇太孫の近い将来の登極を見据えて、その地位を安泰ならしめるために、洪武帝は藍玉の獄を発動したのである。だが、それは、「生き残っている功臣・官僚達」に対する弾圧が主たる目的であったのであろうか。以前の疑獄事件と同じように、「生き残っている功臣・官僚達」に対する弾圧に止まらず、かかる弾圧を通して、洪武帝が、何かの改革を目論み、貫徹させようとしたという隠された目的はなかったのであろうか。これを探ることが、本書における最終的な目的である。
本書において、使用する基本史料は、洪武帝の勅tで、洪武二六年(一三九三)五月に刊刻頒布された『逆臣録』である。本事件については、処分ののちにも、陰謀の内容や事件の経過はまったく発表されなかった、とまさに闇から闇へ葬られたかのように述べられたものもあるが、それは間違いである。本事件の処理は、さきに触れたように二月から始まって六月まで及んだが、その最中に、藍玉の獄に連座した人々を取り調べた際の記録書、すなわち爰書をもとに編纂された『逆臣録』は刊行されたのであった。洪武帝は、事件の隠蔽どころか、逆にだれがいかなる理由で藍玉の獄に連座したかを供状(自供書)という形をとって、暴露したのである。もちろん、事件の性格上、この供述が全面的に真実として信用出来るかという点では、疑問も抱かれるが、ともかく、洪武帝は、『逆臣録』の刊行とその頒布によって、藍玉の獄による関係者の行刑を天下に知らしめ、かつその行刑を正当化しようとしたのであった。
かような積極的な情報開示は、見方を変えれば、洪武帝による世論操作、情報操作という意味合いも持つ訳ではあるけれども、しかしながら、連座して誅殺された人々の姓名や籍貫・身分・職業等の点まで、架空にでっち上げを行ったのではないのである。とすれば、ここに見える多様な人々の姓名・身分・職業等を分析することは、藍玉の獄に連座した人々の様態を解明することに通じる。
本書においては、藍玉の獄に連座した多様な人々の存在形態を解明することを基軸にしながら、本書の最終的な目的である、洪武帝が藍玉の獄において真に意図したものは何か、その何かを探求することにしたいと思う。
このような視座から藍玉の獄を構造的に解明しようとすることは、藍玉の獄研究においては、初めての試みとなる。藍玉の獄は、明代初期に起きた政治的疑獄事件として、名称だけは甚だ著名であるけれども、研究の蓄積は極めて乏しいのである。ある歴史的対象や歴史的用語が、当該時代にとってすこぶる重要であることは、ほとんど自明でありながらも、それが必ずしも豊富な研究史をもち、しかもその概念・実態・性格などの究明が深化されているとは限らない事例は少なくないが、ここで取り上げようとしている藍玉の獄もまた、その例に漏れないのである。本書の上梓が、藍玉の獄に関する研究深化の鑿井となる切っ掛けになれば、幸いこれにすぐるものはない。
なお、本書で頻用する「連座」という用語は、律令用語としてのそれではなく、「一人の犯罪のために他人まで罪にあうこと」、すなわち連累の意味で使用している。
註
(1) 『太祖実録』洪武二六年(一三九三)二月乙酉(一〇日)の条。以下、本書においては、実録と略称する。
(2) 同上、洪武二六年(一三九三)三月壬戌(一七日)の条。
(3) 同上、洪武二六年(一三九三)四月壬午(八日)の条。
(4) 同上、洪武二六年(一三九三)六月壬辰(一八日)の条。
(5) 檀上寛「元・明交替の理念と現実││義門猿≠手掛かりとして││」(同氏『明朝専制支配の史的構造』汲古書院、一九九五年)二四六頁。
(6) 檀上寛「明王朝成立期の軌跡││洪武朝の疑獄事件と京師問題をめぐって││」(同氏前掲『明朝専制支配の史的構造』)六四頁。
(7) 同上、六六頁。
(8) 愛宕松男・寺田隆信『中国の歴史 第六巻元・明』(講談社、一九七四年)二五四頁。
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