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本書の概要
アルジャイ石窟
―チンギス・ハーンの仏教記念堂―
楊海英
一 チンギス・ハーンの最期の舞台
中華人民共和国内モンゴル自治区の西部、黄河の南にオルドスという高原がある。オルドス高原の西北部にアルブスという広大な山地が広がり、そのなかから大規模な石窟群が一九八〇年代末に発見された。二〇〇三年三月、中国の国家重点文物(重要文化財)に指定された。
石窟群を現地のモンゴル人はアルジャイ(阿爾塞)と呼び、中国語では百眼窟(ペイイェンクー)という。現在確認されている洞窟は六五で、岩壁に彫った仏塔は二十二を数える。約千点以上の豪華絢爛な壁画が残っており、二〇〇〇年春には大量のモンゴル語とチベット語の文書が出土した。
アルジャイ石窟のなかで、もっとも古い窟は長方形の造りで、奥に方形の柱を彫り出した形式となっている。この種の石窟は四世紀ころの北魏時代に開造された、と中国の考古学者たちはみている。インドのチャイティア窟やアフガニスタンのバーミヤーンの仏龕窟の影響を受けている可能性も指摘されている。
石窟のあるアルブス山周辺は、十一世紀ころに勃興した西夏(せいか)王国の領土に入っていた。西夏王国は当時の新興勢力であるモンゴルになかなか帰順しようとしなかった。そこで、チンギス・ハーンは一二二五年の秋に西夏征服のためモンゴル高原を出発した。
チンギス・ハーンは黄河を南に渡って、今日のオルドス高原に進軍した。十三世紀に書かれた『元朝秘史』に、チンギス・ハーンはアルブス山で巻狩の最中に馬から落ちて、「多数の洞窟」に入って駐営したとある。「多数の洞窟」とは今のアルジャイ石窟である。西夏王国は敬虔な仏教国で、「多数の洞窟」は石窟寺院だった。仏教についてほとんど知識をもたなかったモンゴル人たちは単純に「多数の洞窟」と呼んだ。
西夏滅亡を目前にして、チンギス・ハーンは落馬の怪我がもとで死去する。西夏が滅んで元朝時代になっても西夏の僧侶たちは厚遇され、アルジャイ石窟寺院は繁栄し続けた。十四世紀末にモンゴルが中国から撤退し明朝が成立するが、アルジャイ石窟はモンゴルの勢力下にあった。そして十七世紀半ばに明朝が滅び、満洲清朝に移行していく混乱のなかで、石窟寺院は没落の一途をたどっていった。
二 モンゴル帝国時代の仏教資料
モンゴルはユーラシアに跨る大帝国を建立した。帝国の東方を成す元朝はチベット仏教を国教としていた。アルジャイ石窟の壁画の大半は西夏やモンゴル帝国時代以降に製作されたものである。また、一部の壁画の四方には回鶻(ウイグル)文字モンゴル語とチベット語、それに古代インドで使われたサンスクリットで題字が書いてある。いずれも仏教の神々を称賛する内容であるが、多言語の同時運用は帝国の権威と多様性を演出している。
仏教が中国や朝鮮半島そして日本に伝わったもっとも古いルートのひとつがシルク・ロードである。バーミヤーンや敦煌をはじめ、多数の石窟が東伝のルート上に造営された。石窟は造営当時の最先端の建築技術や美術の精粋を集めて造られた。東西の文明が融合して創出された文化の宝庫である。
北アジアの草原地帯に仏教がいつ、どのようにして伝わり、どんな形で開花したのか。また、元朝時代の仏教信仰の実態はどのようなものだったのか。これらの問題を解明するためには、アルジャイ石窟内の壁画や題字、それに出土文書が大きな手がかりとなる。チンギス・ハーンとその後継者たちが残した文化遺産は人類の大きな財産となっている。
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