序論 土地・身体・文化の所有
杉島敬志
一 人類学の歴史研究
土地所有は近代西洋で成立した所有の概念と密接なかかわりをもっている。その端的な例はわたしたちが直接的な利害関係をもつ土地所有である。日本における土地所有は民法によって規制され、その枠内で成立する現象といえるが、日本民法はフランス民法とドイツ民法第一草稿を一八七〇年から四半世紀ほどかけて折衷し、翻案した輸入法典である。明治政府が民法を輸入せざるをえなかった背景には近代的な法典をもつことが「不平等条約」撤廃の条件として欧米列強から課せられていたという事情があった[篠塚
一九七四:一七四─一九〇]。
また、開国後の緊迫した状況のなかで、歳入を増大し、国力を増強することは国家の存亡をかけた政治課題であった。当時、国家歳入の約八割をしめていたのは地租であり、それを大幅にふやすには税制改革を近代的な土地所有制度の確立とともにおこない、地租の徴収システムを全体として整備する必要があった。こうして、地租改正が一八七三年に着手(地租改正法公布)されたことは周知のとおりである。
したがって、日本の土地所有について語る場合には開国後の日本が欧米列強という近代世界システム(資本主義世界経済)の「中核」諸国とせめぎあい、からみあう過程を考慮する必要がある。同様なことはアジア・太平洋の他の国々における土地所有についてもいえる。しかし、「辺境」の地域社会は世界システムをささえる「中核」諸国起源の規則や信念によって染めあげられてしまうわけではない。「辺境」の地域社会の規則や信念とせめぎあい、からみあうことで、そのいずれにも還元したり、帰属させることのできない状況がうみだされるからである。
この過程を「歴史的もつれあい」(historical entanglement)[Thomas 1991a: 312,
cf. Thomas 1991b; 杉島 一九九六:八三─八八]とよぶならば、本書の目的はアジア・太平洋地域における土地所有をとりあげ、それを「歴史的もつれあい」のなかでとらえることにある。従来、近代的土地所有は「中核」諸国における資本主義的農業経営の成立過程を中心に論じられてきた[e.g.
椎名 一九七三]。これに対して、本書では土地政策を介して地域社会が所有の概念とせめぎあい、からみあう過程に焦点があてられる。こうした接近法をとらないかぎり、アジア・太平洋地域における土地所有を適切に把握することはできないからである。
現在、歴史は人類学の重要な研究課題となっているが、その背景にはつぎのような事情がある。近代人類学は特定の地域社会で長期にわたる調査(フィールドワーク)をおこない、そこで観察された社会生活を包括的に記述することをおもな目的としてきた。だが、多くの場合、民族誌のなかでえがきだされるのは解釈をまじえて再構成された「伝統文化」であり、歴史に焦点をあてた研究はまれであった。近代人類学が一九二〇年代に学問として成立したことを考えるならば、これは奇妙な話である。そのはるか以前から人類学者が研究の対象とする「辺境」の地域社会は「中核」諸国とせめぎあい、からみあうことを余儀なくされてきたからである。
この事実は近代人類学の知的系譜が文化を自然種のごとくあつかう一八世紀以来のパラダイムにつらなることをしめしている。それは個々の社会には変化しがたい固有の「本質」(essence)があることを想定し、その把握をとおして社会を一望のもとに分類することをめざす博物学的なパラダイムにほかならない[Fabian
1983: 1-35; Jackson 1989: 128; サイード 一九九三b:九二─九三、四六九、Thomas 1994:
71-104; cf. リーチ 一九七四:二二、Linnekin and Poyer 1990]。このパラダイムにしたがうならば、世界は相互に異質で断絶した社会のつらなりとしてイメージされる。本質概念との関連で近代人類学の創始者たちの功績を問うならば、それは「体系」や「構造」といった科学的な語彙による本質の再定式化であったといえよう[マリノフスキー
一九五八、ラドクリフ=ブラウン 一九七五]。
一九八〇年代以降、人類学では歴史への関心が急速に高まるとともに、近代人類学の「本質(本性)主義」(essentialism)に対する批判がおこなわれるようになる[e.g.
Fabian 1983; Handler and Linnekin 1984; Inden 1990; Keesing and
Tonkinson (eds) 1982; Linnekin 1983; Thomas 1989]。このことは人類学の歴史研究が単に歴史を人類学の研究対象にとりこもうとする科学的意図にもとづくものではないことをしめしている。それは歴史に焦点をあてることで、オリエンタリズムや人種差別の認識論的な基盤でもある本質主義から人類学を解放しようとする人類学者による人類学のイデオロギー批判なのである。そのために、人類学の歴史研究では貧弱な歴史記述にもとづく危なげな議論が展開されていたり[杉島
一九九六]、フィールドワークからえられる資料と迂遠な関係しかもたない遠い過去の出来事があつかわれていたりする。
このようにのべる理由は「歴史的もつれあい」を記述することに人類学の経験的歴史記述の可能性をかけてみる値打ちがあると考えるからである。
経験主義的な立場とは、本質的に二流の、反動的、批判的、あるいは脱神秘化的な立場であり、……経験的歴史記述(empirical
historiography)、あるいは好古主義は、それ独自に一流の地位を占めることは決してない。この立場が活力を得るためには、使命として転覆を目ざすべき、他の種類の歴史ヴィジョンの存在を前提にしなければならない(傍点筆者)」[ジェイムソン
一九九三:四二六─四二七、Jameson 1988: 153]。
この「歴史ヴィジョン」については後ほど論じることにし、ここでは本書におさめられている論文の多くが人類学における本質主義批判を念頭において書かれていることを指摘しておきたい。
なお、本書は国立民族学博物館でおこなわれた特別研究「アジア・太平洋地域における民族文化の比較研究」の第八回シンポジウム、「土地所有の政治史」の成果報告である。本書の第泄狽ニ第部にはシンポジウムで発表された論文の加筆修正版をおさめ、第。部はシンポジウムに討論者として参加した四氏の文章からなる。また、以下では本書所収の論文に言及したり、参照をうながす場合、著者名を〔
〕にいれて〔棚橋、速水……〕のように言及する。
二 所有の概念
土地と人間との「関係行為」について語るための言葉には所有、使用、収益、処分、占有、先占などがある。これらの言葉は法律用語であると同時に、さまざまな時代と地域における土地と人間との関係行為を記述するためにも使用される。この文脈では「所有」がとびぬけて重要であり、本源的、共同体的、共同的、個人的、私的、近代的、現代的、絶対的、相対的、上級、下級、ローマ法的、ゲルマン法的、慣習法的、呪術的・宗教的などといったさまざまな修飾語とともにつかわれる。これに類する現象は人類学の親族研究にもみられる。一例をあげると、親族研究では祖先と子孫との関係にかかわる「出自」(descent)という言葉が頻繁につかわれ、この言葉は父系、母系、二重単系、平行系、交番系、偶奇系、共系、全系、可変系、択一系[長島
一九七四:五四─五七]などの修飾語とともに使用される。
「出自」は物体が下降するうごきを意味するラテン語の動詞(descendere)に由来するが、この原義は現在にいたるまでたもたれている[渡邊
一九九〇a:八二─八三]。その証拠に自分よりも祖先に近い世代には「上位」(ascending)、遠い世代には「下位」(descending)という形容詞がつかわれる。また、「父系」(patrilineal)や「母系」(matrilineal)などの修飾語には下降する物体の軌跡が線状になることをしめす「リニアルlineal」がふくまれている。これに対して、傍系親族との関係をしめす「父方」(patrilateral)や「母方」(matrilateral)には、それが水平方向の関係であることを示唆する「ラテラルlateral」がふくまれている。しがって、出自は下降する線としてイメージされているのである。
すべての人間社会がこうしたイメージを共有しているわけではない。だが、人類学では「出自」を比喩的につかい、さまざまな社会の祖先と子孫の関係にかかわる多様な現象を「出自」とよびならわしてきた。言葉を比喩的につかうこと自体に問題はない。だが、比喩が比喩であることをわすれ、出自という言葉で表現される雑多な現象のなかに共通の要素があると想定することはあやまっている。比喩はそうした共通の要素(概念的本質)を必要としないからである。一九七〇年代以来、人類学では出自をはじめとする術語の多くが概念的本質をもたない、比喩的に事象を表現する言葉であることがあきらかにされてきた[Needham
1971, 1975; スペルベル 一九八四:二六─七五]。これとおなじことは「所有」についてもいえるはずである。
近代的な所有の概念は、その発端近くまでたどってみると、出自の場合とおなじく明快なイメージをもっている。その典型はロックの所有論である。
たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、人は誰でも自分自身の一身(his own person)については所有権(property)をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体(body)の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混えたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである[ロック
一九六八:三二─三三、Locke 1947: 134]。
ここには自己の身体やそのはたらき(労働)を自己の本源的な所有物とみなす「自己所有」の観念と、それゆえ自己が労働を投下した対象は自己の所有物になるという「労働所有説」が展開されている。したがって、自己所有が所有一般を基礎づけているのであり、自己と所有物との関係は自己と身体との関係がその周囲へと拡張されたものとしてとらえられているのである。
このようなロックの所有論が近代西洋における所有論の典型をなすものであることはカント、ヘーゲル、マルクスをはじめとする多くの思想家がおなじような発想にもとづく所有論を展開していることからあきらかである。だが、自己所有の観念は自らの身体を把握する多様な様式のひとつにすぎない。たとえば、メラネシアやインドネシアでは母方オジが自己の身体に本源的な権利をもっており、その健康や運命を左右するという考えが知られている。また、事故や儀礼において身体が毀損された場合には、母方オジに一定額の財貨を贈る慣行もひろくおこなわれている[Fox
1971; 杉島 一九八二、一九八七]。これらの例がしめすように、自己所有は普遍的でも、自明の理でもない。そうであるならば、自己所有にもとづく労働所有説は所有を基礎づけているようにみえながら、事態はその逆であり、所有こそが身体やそのはたらき(労働)に対する認識に浸透し、それを基礎づけているのである。
所有の概念は資本主義の基底にある商品交換と不可分な関係にある。このことはロックが労働の投下から所有の発生をみちびきだすために導入する価値の概念にはっきりとあらわれている。
[イギリス]で二十ブッシェルの小麦を産する一エーカーの土地と、同じ経営を行えば同じだけを産するはずのアメリカの土地とは、疑いもなく同一の自然的内在的価値をもっている。しかしながら人類がその一方から一年間に受ける利益は五ポンドであり、他方からのは、もしインディアンが受ける収益を評価して、それをイギリスで売るとしたら、やっと一ペニイ(五ポンドの千二百分の一)にも達しないだろう。……それ故、土地にその価値の最大の部分を与えるものは労働であって、それなしには土地はほとんど無価値になってしまうであろう[ロック
一九六八:四八、Locke 1947: 142]。
ここでロックは労働がうみだす価値を特権化し、それを貨幣によって量化し、比較している。したがって、労働のうみだす価値とは商品交換における価値であり、所有とは商品交換に参与する自己が自分の商品に対して関係する行為にほかならない。この関係行為は商品交換をなりたたせている規則の一部であり、それ以外の原理によって基礎づけられる必要がない。贈与交換の規則と同様に、商品交換の規則にも交換に参与する主体を定義する──つまり「だれとだれが交換できるか」を定めた──規則がふくまれているが、前者が複雑で多様な内容をもつのに対し、後者は交換主体を単に商品を所有する個人として定義している。
このように考えてくるならば、労働所有説はその目的とは裏腹に所有を基礎づける理論ではなく、商品交換の規則を承認する者が抱懐する信念にすぎないことが理解されよう。本論では労働所有説以外の所有の基礎づけ理論を検討できないが、立岩はそうした理論においても所有は基礎づけられていないことをあきらかにしている[一九九七:二六─六六]。ここから議論は所有者たる個人と自由の関係にむかうが、この問題については後ほどとりあげることにし、ここではつぎのことを指摘しておきたい。
労働所有説は「無主地」の概念とむすびつき、植民地における入植者たちの土地所有を正当化する論理としてはたらく。労働所有説にしたがうならば、労働が投下されたことのない土地は無主地であり、そこに入植し、開墾をおこなった者こそが、その所有者となる。だが、労働所有説はここにおいても所有を基礎づけてはいない。植民は国家が国際法上の先占によって無主地を領有したあとでおこなわれるからである。収奪された土地権の回復をはかる先住民の運動や提訴が国家法の枠をこえた紛争となる理由はここにあり、その結果、国家体制は大きくゆらぐ。マボ訴訟はその典型であり、本書の安田論文は先住民の土地所有権をみとめてこなかったオーストラリアにおいて、各方面に大きな衝撃をあたえたマボ判決の内容と意義について論じている[cf.
国立国会図書館調査立法考査局 一九九三:二〇八─二三五、松山 一九九六、Tonkinson 1990]。
以下では所有の概念にもとづく土地に対する人間の関係行為に言及する場合にのみ「土地所有(制度)」や「土地所有権」を使用し、所有の概念ではとらえることのできない土地と人間との関係行為には「土地制度」や「土地権」といった表現をもちいる。ただし、本書のいくつかの論文では「土地所有(制度)」や「土地所有権」が比喩的につかわれ、所有の概念とは縁遠い土地と人間との関係行為にも適用される。しかし、それが比喩であることは文脈上あきらかであると思われる。
三 土地制度
土地制度は「伝統文化」を体系や構造とみなし、その全体像をえがきだそうとする人類学者にとって重要な調査項目のひとつであった。また、土地制度に関する知識は支配や統治をすすめるうえで不可欠な情報であり、その収集や分析に人類学者は協力をもとめられたり、場合によっては自発的に参画することもあった[e.g.
Goodenough 1978; 杉浦 一九四四、de Young (ed.) 1958; cf. 馬淵 一九七四a、一九八八]。
こうして、ふるくから土地制度に関する多くの資料が蓄積されてきたわけであるが、その総合をめざす研究もすでに数多くなされている[e.g.
Goldman 1970; ter Haar 1939; Hogbin and Wedgwood 1953; 石川 一九七〇、加藤
一九九五、Lundsgaarde (ed.) 1974; 馬淵 一九七四b、Sahlins 1958; 須藤 一九八九、van
Vollenhoven 1931-1933]。これらの研究はアジア・太平洋地域の土地制度を概観するうえで現在においても有用であるが、ここではその内容に深入りせず、本書所収の論文でたびたび言及される土地制度の諸側面を三つの項目にまとめてのべることにしたい。
その第一の項目は土地制度の重層性である。アジア・太平洋地域では地域社会が土着の先住者と海や天といった外界からの来住者からなるという説明がひろくきかれる。これは地域社会のなりたちを物語る起源神話であると同時に、首長たちが地域社会の領地に対してもつ権利の質的なちがいについての説明でもある〔深澤、森山、春日、杉島〕。つまり、首長たちは先住者と外来者の代表として関係しあうとともに、この関係にふさわしい相補的な権利を地域社会の領地に対してもつのである。こうした地域社会の構成は東南アジア島嶼部を中心に分布しているが、これに類する事象となればアジア・太平洋地域のいたるところから報告されているといっても過言ではない[e.g.
Fox 1988, 1995a, 1995b, (ed.) 1980; Friedman 1992: 844; 橋本 一九九六:六一─九二、リーチ
一九九五:一一五─二一四、レーナルト 一九九〇:二〇五─二一四、馬淵 一九七四b、Sahlins 1981: 10-17,
29-30, サーリンズ 一九九三:九九─一三四]。
そこにはインドもふくまれるが[e.g. 馬淵 一九七四b、田辺明生 一九九三、山田 一九六九:四四四─五八〇]、前植民地期のインドでは先住者と外来者との関係を包摂する分業と分配のシステムが中心的な重要性をもっていた。このシステム内に位置づけられる国家をふくむさまざまな職位の保有者は、職位に応じて、地域社会の土地からあがる総生産物の一定割合を「取り分」(手当)として取得するとともに、一定面積の土地を「免税地」としてえていた。これは土地のかたちで還付される国家の「取り分」(税)であった[〔水島、杉本、田辺〕、水島
一九九〇]。したがって、前植民地期のインドでは、生産物を介して多様な職位保有者の権利が土地に対して重層的に作用していたのである。
また、第二の項目は土地制度の全体性である。モースにならい、ここでは全体性という言葉を宗教的、法的、道徳的、政治的、経済的であると同時に、そのいずれにも還元しえない社会事象[モース
一九七三:二二三]を表現するためにもちいる。
土地制度の全体性はさまざまな観点から語りうるが、ここで強調しておきたいのは土地にすまい、その支配者とみなされる霊的存在が土地制度にしめる中心的な重要性である。首長や王は土地にすまう霊的存在とほかのだれよりも親密な関係をもつとされ、こうした関係をもつことが首長や王の土地に対する権利を基礎づけている。また、土地にすまう霊的存在との関係は首長や王の法的・政治的な権能の基盤でもあり[〔須藤、杉島、速水、春日〕、深澤
一九九三、馬淵 一九七四b]、彼らは土地にすまう霊的存在の力を後楯にして法的・政治的な権能を行使する。
土地とその支配者たる霊的存在との本源的なむすびつきは前述の先住者と外来者の枠組をつかって表現される場合が多い[〔馬場、深澤、森山〕、長谷川
一九九三、Hoskins 1988a; Miyazaki 1988, 宮崎 一九九一、田辺繁治 一九九三]。つまり、土地にすまう霊的存在こそが真の先住者とされ、首長や王はそれとの関係で外来者として位置づけられるのである。しかし、この関係を維持することは少なからぬ困難をともなう。土地にすまう霊的存在は地域社会の存立を可能にする豊饒の源泉であると同時に、野生の危険な力をおびてもいるからである[Barnes
1974: 104-105; ブロック 一九九四:六七─九〇、Hoskins 1988b, 1990; 倉田 一九九三、杉島
一九九三]。
土地制度に関するインフォーマントの説明としてしばしば報告される「人間は土地を所有しているのではなく、土地に所有されている」[アタリ
一九九四:五三─五八、de Coppet 1985]という表現は以上でのべたような土地制度にしめる霊的存在の中心的な重要性と関連づけて理解されるべきであろう。
そして、第三の項目として指摘できるのは土地制度の儀礼性である。儀礼的という言葉は「神話的」や「部族的」とおなじく、近代西洋社会との本質主義的な差異を含意する表現としてしばしばもちいられてきた[Fabian
1983: 30; cf. トドロフ 一九八六:八六─一三六]。しかし、ここでの「儀礼性」はそうした含意とは無縁であり、土地に対する権利が儀礼の遂行と密接な関係にあることを意味する。首長や王の土地権は土地にすまう霊的存在との関係によって基礎づけられているが、この関係は儀礼をとどこおりなく遂行することによってのみ維持される〔杉島〕。こうした儀礼は土地にすまう霊的存在と関係をもち、交流するうえでのいわば作法であり、この作法をとおして首長や王は土地にすまう霊的存在を慰撫するとともに、豊穣や繁栄を懇願する。
儀礼を作法に比定する理由はこの両者がいくつもの共通点をもっているからである。そのひとつとして指摘しておきたいのは儀礼と作法がともにプラクティス(規則にしたがう行為)として遂行されることである。お辞儀は挨拶を目的とする作法であるが、挨拶のために頭をさげる理由を問われた場合、わたしたちは「そうするのがしきたりだから」としか答えようがない。おなじことは儀礼についてもいえる。たとえば、葬儀において喪服をきる理由をきかれた場合、わたしたちは「そうするのがきまりだから」としか答えることができない。このように、人はプラクティスについて同義反復的にしか語りえない場合が多い。だが、人類学者は儀礼のはたす機能や儀礼が表現する意味についてさかんに語ってきた[〔杉島〕、杉島
一九九七]。このことは人類学者が儀礼やその規則を儀礼の遂行者とはべつの観点からみていることを示唆しているが、この問題については第五節でとりあげる。
以上でのべたことは主として土地制度のなかでいわば最上位に位置する土地権にかかわるものであり、多くの場合、土地制度にはそれに下属するさまざまな権利がふくまれている。しかし、これらの多様な権利間の関係を「共同体的所有権」と「個人的占有権」、あるいは「上級所有権」と「下級所有権」といった伝統的な一群の術語をつかって一般化したり、比較することに筆者は関心をもてない。また、そうすることは本書の目的とも矛盾する。
四 土地政策
アジア・太平洋の大半の地域では欧米諸国や日本による植民地支配や統治がおこなわれ、その一環として何らかの土地政策がおこなわれていた。また、戦後、近代国家の建設にむけてあゆみだした多くのアジア・太平洋諸国では開発政策が強力に推進され、土地政策は開発政策と歩調をあわせるかたちで実施されてきた。経済開発はかならず土地を必要とし、土地政策と無関係ではありえないからである。このことは当然にも本書の内容に反映されており、本書におさめられている多くの論文は土地政策のほかに、開発政策や開発プロジェクトにも言及している。
本書でとりあげられる土地政策は一九世紀初頭から今日にいたる二〇〇年近い時間の幅をもち、その実施主体は多くの国にまたがっている。しかし、その大半は前節でのべたような土地制度を経済開発の阻害要因とみなし、その廃絶と土地所有制度の確立をめざすという点で大きな共通性をもっている。このことはアジア・太平洋地域で実施されてきたほかの多くの土地政策についてもいえる[e.g.
国立国会図書館調査立法考査局 一九九三、水野・重冨編 一九九七、大和田編 一九六二、一九六三、滝川 一九九四、滝川・斎藤編
一九六六、一九六七、梅原編 一九九一]。
こうした土地政策の共通性はひとつには先行する他国の土地政策の積極的な摂取に由来する。たとえば、日本は一九一〇年から約二〇〇〇万円の巨費を投じて「朝鮮土地調査事業」を実施するが、それにさきだって、この事業の立案者たちはイギリスによるインドやエジプトでの土地政策について綿密な調査をおこない、それを実施計画にもりこんだことが指摘されている[宮嶋
一九九一:五、四二二─四二三、四三九]。こうした他国の土地政策の摂取は、日本のような後発の帝国主義国ばかりでなく、先進の帝国主義国によってもおこなわれていた。たとえば、東インド副総督トーマス・ラッフルズは一八一〇年代前半のイギリス占領期のジャワで南インドにおけるライヤットワーリー制〔水島、杉本〕をモデルとした土地政策を実施したが、一八一六年の返還後も、オランダ植民地政府はこの政策を踏襲するかたちでジャワでの土地政策をすすめていった[加納
一九九七、cf. 馬淵 一九七四a:四六─四七、一九八八:二二〇─二二二]。
しかし、こうした土地政策間の影響関係は表層的な現象といえる。所有は資本主義の基底にある商品交換と一体のものであり、世界システムは経済開発をともなう一九世紀以降の植民地支配をとおして世界をおおいつくすにいたった。また、本書で論じられる近年の開発政策とはつまるところ土地を商品化し、土地制度内の多様な社会関係を市場関係に転換する政策といえる。それゆえ、土地政策が相互に類似するのは当然であり、アジア・太平洋地域における土地政策の大半は、植民地政策の一環としておこなわれたものであれ、近年の開発政策との関連で実施されてきたものであれ、土地と人間との関係行為を商品交換の原理にもとづいて編成することを目的におこなわれてきたのである。
そうであるならば、土地制度を保護するかにみえる土地政策についてはどのように考えればよいのであろうか。クック諸島の駐在弁務官、ウォルター・グジョンやフィジーの初代総督、アーサー・ゴードンは、それぞれの任地における土地制度をかれらなりに理解し、親族関係者による土地の共同所有制度を実現しようとした〔春日、棚橋〕。また、パプアニューギニアやソロモン諸島でも親族集団による土地の共同所有をみとめる政策がおこなわれてきた〔林、関根、槌谷〕。しかし、これらの土地政策は土地制度を保護しているわけではない。所有の概念は個人所有を基本とするが、共同所有も所有の一種であることにかわりはないからである。ゴードンやグジョンが実現しようとした土地所有制度は共同所有の一形態である総有に近いものであったと思われるが、クック諸島やフィジーにおける前植民地期の土地制度は総有とはきわめてことなるものであった[〔春日、棚橋〕、France
1969; 棚橋 一九九六、Ward 1995: 203-219]。また、共同所有と個人所有のいずれを土地所有制度の基礎にすえるかをめぐって、土地政策の方針がゆれうごいてきたという事実にも注意をはらう必要がある[〔春日、関根、槌谷〕、Fitzpatrick
1980: 114-126, 226-229; Lea 1997: 49-65; Ward 1995: 206-208]。
所有の概念から離脱することの困難さは所有に関する批判的考察をふくむマルクス主義の所有論がはっきりとしめしている。そこでは所有という言葉がさまざまな修飾語とともに土地と人間との多様な関係行為に適用される[e.g.
エンゲルス 一九五四、福富 一九七〇、マルクス 一九六三、cf. 大塚 一九七〇、アタリ 一九九四]。その結果、土地と人間との多様な関係行為のすべてが所有として把握され、所有の類型をめぐる瑣末な議論が展開されることになる。この内閉的な所有論はテキスト解釈を最優先の課題とするマルクス主義者の研究姿勢に由来するばかりでなく、マルクスの著作にも起因する。マルクスの本源的所有の概念は人類社会の黎明期における所有を意味すると同時に、ブルジョワ的私有制度を廃絶した後に再建されるべき社会的・個人的所有の内容を示唆するものでもあった[浅見
一九八六:一七九─二〇七]。これにくわえ、本源的所有の概念は所有物を身体の延長とみなす点でロックの所有概念と大きくことなるものではなかった。
しかし、人類学のほかに土地制度に何がしかの理解をしめした学問がなかったわけではない。その端的な例はオランダの慣習法学者たちであり、たとえば、ファン・フォレンホフェンは「処分権」(beschikkingsrecht)の概念を提示するにあたり[〔加納、中村〕、馬淵
一九七四a:六六、一九八八:二二七]、所有の概念ではとらえることのできない土地と人間との呪術的・宗教的な紐帯に注意をうながしている[van
Vollenhoven 1909: 20; cf. ter Haar 1939: 54-71]。だが、かれらの研究成果がオランダ植民地支配下の土地政策や独立後のインドネシアにおける土地政策に大きな影響をおよぼしたとはいえない〔杉島〕。
五 歴史的もつれあい
土地政策はその実施を阻止しようとする地域社会の住民による騒擾をしばしばひきおこしてきた。日本各地で勃発した地租改正にともなう農民一揆やイギリス植民地支配下のインドにおいて土地政策が喚起した反英反乱〔杉本〕はその典型といえる。しかし、数のうえでは騒擾をひきおこすことなく実施された土地政策の方がはるかに多い。この事実は多くの土地政策が所期の目的を順調に達成してきたことをしめしているように思われる。だが、これは以下でのべるような事象が見えにくい状態にとどまっていることに由来する謬見である。
土地制度の基底には土地にすまう霊的存在への信仰(信念)やこの存在と交流をおこなうための儀礼があり、儀礼はプラクティス(規則にしたがう行為)であった。また、土地政策は経済開発をのぞましい社会的目標とみなす信念や、土地と直接的・間接的に関連する何らかの法規(規則)にもとづいて実施されてきた。こうした法規は、たとえ条文のなかに明確な言及がない場合でも、商品交換の規則の一部をなす所有の概念にもとづいている。
わたしたちは規則や信念を認識の対象とし、解釈をおこなうことができる。規則や信念の解釈はかならずしも特別な能力や植民地支配のような特定の社会状況を不可欠の要件とするものではなく[cf.
ホブズボウム 一九九二、Keesing 1982, 1989; Linnekin 1990b]、社会生活のなかでだれもがおこなう、ごくありふれた行為といえる。常識という言葉で総称される規則や信念を例にとると、わたしたちは常識とされる何らかの規則や信念を「差別」とみなし、その廃絶や改変をうったえることがある。また、職場での人間関係や共同作業を円滑化する常識の役割(機能)を賞揚したり、自分の行為を正当化するために身勝手な常識理解を提示することもある。これらの行為はすべて解釈であり、儀礼の機能や意味として語られてきた人類学者による儀礼解釈や、規則としての所有を基礎づけようとするロックの労働所有説と原理的にことなるものではない。
常識の例がしめすように、規則や信念が多様に解釈されるのであれば──そして、クリプキがあきらかにしているように、加法(アディション)のような自明の規則さえもが無限の解釈にひらかれているのであれば[クリプキ
一九八九]──いかなる行為のしかたも規則や信念と一致することになり、その結果、規則や信念は行為のしかたを決定できないことになる[ウィトゲンシュタイン
一九九七:一五八]。これは哲学的フィクションではなく、社会生活のはしばしで観察される事象であることを銘記する必要がある。その好例は日本国憲法第九条の「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」という条文と一致するとも、一致しないともいえる戦力の存在である。だが、「一致も不一致も存在しない」というならば、そこには「ある誤解」があるといえよう。
この事は、我々[が]その思考過程に於いて──それぞれの解釈が、その背後に再び或る解釈を考える迄は、少なくとも一瞬は我々を安心させるかの如くに──解釈に次ぐ解釈をしているという事の中に、既に示されている。この事を通して我々が示す事は、こうである:規則の或る把握があるが、それは規則の解釈ではなく、規則のその都度の適用に於いて我々が「規則に従う」と言い、「規則に反する」と言う事の中に現われるものである[ウィトゲンシュタイン
一九九七:一五八─一五九]。
この解釈ではない規則の把握とはどのようなものであろうか。常識の例はこの点でも示唆的である。常識はつねひごろ常識の何たるかを教え諭すリーダー的存在を中心とする仲間うちで大きな強制力を発揮する。このことがしめすように、規則や信念の強制力は教育や訓練を介して規則や信念の承認をせまる社会関係と表裏一体のものであり、そこに身をおいていることこそが規則や信念に強制力を付与しているのだと考えられる。したがって、解釈につぐ解釈をおこなっても、そこに規則や信念の強制力を発見できないのは当然であり、先述のプラクティスをめぐる同義反復的な説明の例はプラクティスの遂行者にとって解釈が無用であることをあきらかにしている。
だが、社会生活のどのような局面にも前記のようなリーダー的存在が複数いることから理解されるように、社会生活は多中心的な政治のうずまきからなり、そのそれぞれにおいて規則や信念が多様に解釈され、その承認をせまる教育や訓練がおこなわれることはさけがたい。多様な解釈の発生をチェックする場や機関はたとえあったとしても、うまく機能するとはかぎらないからである。日本国憲法第九条をめぐる相反する解釈の存在はこのことを端的にしめしている。また、社会生活には相互につきあわせてみると矛盾する規則や信念が共存し、それらが同時並行的に強制力を発揮している場合があるが、そうなると事態はさらに錯綜したものになる。「歴史的もつれあい」はこうした状況に着目する概念であり、それは「中核」諸国起源の規則や信念と「辺境」の地域社会の規則や信念が多様な解釈を介してせめぎあい、からみあう過程を意味する。
規則や信念の解釈可能性に由来する前記のような事象は当然にも土地政策や土地制度の基底にある規則や信念についてもみられるはずである。これらの規則や信念が地域社会においてさまざまに解釈されることを土地政策の実施主体はふせぎようがなく、それを完全に統制することは例外的にしか成功しえないといえるほど困難なことだからである。そうであるならば、土地をめぐる「歴史的もつれあい」には、土地政策が所期の目的とはおよそことなる土地制度をうみだしたり、土地政策によって土地所有制度が確立される一方で、土地制度が強化あるいは再興されたり、土地所有制度のなかに土地制度が(あるいは土地制度のなかに土地所有制度が)だまし絵のようにはめこまれているといった、ありとあらゆる逆説的とみえる事象が可能性としてふくまれていることになる。
しかし、これは単なる可能性ではない。本書所収の論文のなかで、清水はミクロネシアのポーンペイとマーシャルを比較し、二〇世紀初頭のドイツによる土地政策の実施以降、人々が土地所有制度と土地制度という「二重のルール」を生きてきたポーンペイの状況と、土地政策が実施されなかったにもかかわらず、土地制度がいつのまにか総有的な土地所有制度に変化してきたマーシャルの状況をあきらかにしている。また、本書におさめられている多くの論文は、こうした土地をめぐる「歴史的もつれあい」がミクロネシアばかりでなく、アジア・太平洋地域のいたるところで観察されることをしめしている。
もし、このようにのべることが局地的な現象と全体的な趨勢を混同しているように感じられるとすれば、それは「辺境」の地域社会が「中核」諸国起源の規則や信念によって染めあげられてきたという「歴史ヴィジョン」を自明の事実とみなしているからである。このヴィジョンは、それを賞揚する者によっても、諦観する者によっても[e.g.
富永 一九九〇、一九九六]、さらには慷慨する者によっても[e.g. ウォーラーステイン 一九九七]ひとしく抱懐されているが、実際には「歴史的もつれあい」に関する詳細な記述とまともにつきあわされたことはない。
従来、世界システムに包摂されたあとの「辺境」の地域社会の歴史は近代化や文化変容(変化)の概念でとらえられてきた。近代化は地域社会の「伝統文化」が「中核」諸国起源の規則や信念によっておきかえられる過程に言及する概念であり、文化変容は前者が後者をとりこむ過程に言及する概念である。したがって、この二つの概念は前記の歴史ヴィジョンを基本的に承認したうえで、地域社会の歴史を一方は「中核」諸国起源の規則や信念に還元し、他方は地域社会の「伝統文化」に帰属させて理解するのである。そうであるならば、「歴史的もつれあい」が適切に記述されてこなかったのは当然であり、「辺境」の地域社会が「中核」諸国起源の規則や信念によって染めあげられてきたという歴史ヴィジョンがながきにわたり信憑性を保持しつづけてきたことも不思議ではなくなる。
六 本書所収の論文(略)
七 文化の所有的個人主義(略)
註(略)
【↑最初の行へ】
|