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中原と周辺 人類学的フィールドからの視点

cover0203.jpg 末成道男編
漢族社会の多様性と変容を、ベトナム・雲南・香港・沖縄・台湾など「辺境」から問い直し、さらに周辺文化における中華文明とのインタラクティブな交流と複合過程を実証的に解明しようとする試み。
A5判・上製カバー・424頁・本体6800円
1999年2月15日発行
ISBN4-938718-38-3
目次
序文
執筆者紹介


目次

序文 末成道男

第一部 漢族社会の多様性と変容

香港中国人のアイデンティティー  瀬川 昌久
周辺にある中央──珠江デルタにおける宗族の統合と分支  蔡 志 祥
弱者たちの組織──香港新界の流動的コミュニティー   廖 迪 生(川口幸大・訳)
香港の日系スーパーマーケットの現地従業員  王 向 華 
「家族間企業網」と「家族内企業体」──家族企業の日中比較・試論  沼崎 一郎
中国における父系親族構造の継承と組み替え  佐々木 衛 
台湾漢民族の姻戚関係再考──その偏差と普遍性をめぐって  植野 弘子
親戚間の通婚規則と父系血縁関係  秦 兆 雄 
儒教と民間信仰──福建省ミ南地域の実地調査に基づいて  聶 莉 莉
漢民族の民間信仰──「中国的宗教」論への一視角  三尾 裕子

第二部 周辺諸社会からの視座

沖縄から尋ねる中華文明──覚書  渡邊 欣雄
近世琉球の士族門中における姓の受容と同姓不婚  小熊 誠
多言語環境における親族名称の使用──台湾クヴァラン族の事例から  清水 純
回族の民間宗教知識──漢語小冊子に説かれたイスラム教  西澤 治彦
「押しつけられた表象」から「自己表象」へ  張 兆 和(瀬川昌久・訳)
  ──民国期中国・苗族知識人にみるエスニック・アイデンティティーの模索と実践
モソ人の母系集団と母系家族 ──雲南省永寧の調査から  陳 彬
ベトナムから見た漢族家族の特徴  末成 道男

あとがき  瀬川 昌久
索引 
英文目次 

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序文

末成道男
 

 中華文明というと古来中国大陸の中原に発生して、時代が降るにつれその純粋文化が周辺に徐々に伝わり、その範域を拡げていったというイメージが強かった。このばあい、漢文化の精華は中原にあり、中原こそが進んだ、洗練された正統の文明を担い、すべての権威の源泉であり、そこから遠ざかるにつれ周辺は、遅れた、粗野な、未開の領域として位置づけられた。こうしたいわゆる、華夷秩序のもとに中華世界は永遠に存続して行くという思いこみは、中華はもとより、周辺の民だけでなく、研究者によっても共有されていた。
 これに対し、中華文明は多様な要素を複合して形成されたものであり、周辺と中央の相互作用にこそ中華文明の活力をもたらす原動力があるのではないかという考え方が近年クローズアップされている。そのばあい、周辺の実態や相互作用の過程の解明が不可欠であるが、それには、定点におけるフィールドワークからの発想と比較を行う人類学的手法が有効となるであろう。これに早くから着目していたのが故王u興教授であった。本書に収められた論文は、いずれも人類学的手法を取り、「辺境から中華文明を問いかけたい」という王教授の発想に触発され、書かれたものである。
 王u興教授の中華文明論のユニークなところは、漢文化を自らの原体験としてもちながら、その周辺文化についても原体験に近い経験を生活者としてもち、それをもとにバランスの取れた発想として練りあげられたことであろう。中華文明は、儀礼を中心とする文化的徳化主義と結びついて周辺諸文化を取り込んだものであり、もともと多様性を基盤にもっている。周辺文化の摂取・融合は、こうした中華文明生成期だけではなく 、その後の展開においても不断に繰り返されている。王教授は、中華世界の多様性と一体性のカギを解明するために、漢族文化の中での多様性、周辺諸文化との相互関係、特に漢化に対して逆漢化つまり少数民族の漢民族への影響を本気で取り上げようとしていた。
 こうした氏の着想は、その生い立ちや学問的軌跡と深くかかわっている。氏は、一九三五年台湾中部の雲林県で生まれ、台湾大学で人類学を専攻し、東京大学大学院に留学し学位を取得、ロンドン大学にも二年間滞在しイギリス社会人類学の中国研究者であるM・フリードマンの指導を受けた。教職の場として、古巣の台湾の中央研究院民族研究所や台湾大学の講師を皮切りに、香港の中文大学、日本の中部大学、千葉大学で長年にわたり後進を育てられた。軸足を台湾において指導的な責務を果たすと共に、自らの研究もエスニシティ論を中核として、漢族研究と少数民族研究、大陸のケースと台湾のケースを結合し集大成させる方向に向かおうとされていたが、惜しくも一九九五年一一月一五日に台北で急逝された。
 氏の交友の輪は、日本、台湾、中国大陸、欧米ともにへだてなく広がりを見せている。後進の指導においても、的確な助言により多くの学生に学問的な刺激を与え続けた。研究会においても、氏一流の鋭さを秘めた控えめなコメントと、バランスの取れた評価は、参加者が自らの位置を確認するよすがとして重きをなしていた。本論文集は、このような王教授の架け橋としての役割の成果でもある。
 王教授の発想から生まれつつあるものとしては、交錯した諸民族と諸文化を背景としたアイデンティティ論、中国漢族社会の父系原理を中心とした構造的理解の解体と再編成、既成宗教と民間信仰の統一的解釈、沖縄、台湾のような強大な国家の狭間にある社会の文化の受容と自己認識、自文化研究の可能性と限界、家族の可塑性にもとづく新たな分析の可能性の模索などがある。これらは、最近注目されるようになった周辺民族に関するグローバルな論考にも連なるものである(例えば、清水昭俊「周辺民族と世界の構造」『周辺民族の現在』世界思想社、一九九八年)。本書は、これらを明示しつつ、残された課題に挑戦し、将来への展望を開くことを目的としている。
 本書に収録した諸論文は、日本を中心に氏と深い関わりのあった方々に呼びかけ、「周辺から見た中華文明」というメーンテーマ以外、特定の地域や問題に限定することなく寄稿をもとめた。したがって、教授の学問的展開のスケールを反映して多岐にわたっている。そこで、章立ても特定のテーマごとにまとめるのではなく、漢族内部の多様性およびそこに展開されている周辺性を扱った第一部と、中華文明から離れた周辺社会の独自性および中心との関係を扱った第二部に分けた。
 
 第一部ではまず、香港を扱った論文が四本並ぶ。そこでは、香港という土地の中華世界での周辺性と植民地支配のもとでの世界へのつながり、開発地域に生ずる中心性と周辺の自律性、外来企業と香港という周辺社会の論理の葛藤が描かれる。
 瀬川論文《香港中国人のアイデンティティー》は、中国において辺境に位置し、植民地として本土から切り取られ、脱伝統化の進んだ香港が、英国支配だけでなく、日本軍の占領、国共内戦、中華人民共和国の樹立およびその内での変動、経済成長、返還交渉合意、天安門事件、返還とさまざまな契機を通して、中国本土との対比において香港人のアイデンティティが造成され、揺れ動いている現状を分析している。ここで注目されるのは、この香港アイデンティティも、あくまで中国系住民の言語、生活規範上の等質性の上に生まれたものであって、非中国系の住民は含まれていないことで、同じく中国系を主体として構成されていても、シンガポールとは、根本的に異なる性格を示していると指摘していることである。香港の都市的文化が、伝統と切り離された根無し草文化のように見えながら、中国系の枠を超えることなく、新たな大中華伝統の一部に組み込まれる可能性を持っていることを示唆していて興味深い。
 蔡論文《周辺にある中央》は、珠江デルタを例に取り、中央王朝と地域社会を媒介する地方宗族のあり方について論じている。開発と共に地域宗族が形成され、国家に認知されるようになり、祖祠と族譜をもとに組織化が行われ、国家と地方の両者を結ぶ役割を果たすようになったが、一方では中央と地方の歴史に対応してそのアイデンティティも変化していく。また、明代以来の中央エリート文化が、王朝国家の崩壊と共に、海外とつながりをもつ商人文化へと取り代わったにもかかわらず、王朝的なイデオロギーそのものは人々の生活に残り続けているという。いずれも、中央と辺境を取り結ぶ媒介者としてのエリートないし宗族は、時代とその地域の文脈においてのみ理解可能であるということを明らかにしたものである。
 廖論文《弱者たちの組織》は、珠江デルタ同様の歴史過程と周辺としての地域性をもつ香港を対象にし、その内部での周辺の問題を取り上げている。第二次大戦後珠江デルタからの入植者が水稲耕作には不向きの土地に住み着き、その土地を支配下においていた原住有力宗族の移住者や、村落形成後の新参外来者と対立しながら、ともに、香港の古くからの宗族村落のような親族組織を発達させることなく、独立した世帯中心の流動性の高いコミュニティを作り上げている。ここで見られるのは、宗族や祭祀だけにせよ共同体志向は全く持たず、むしろタイ社会についてのいわゆる「緩やかな構造」と共通するシステムであり、これは両者の辺境的な性格に起因するものであるという。
 王向華論文《香港の日系スーパーマーケットの現地従業員》は、香港の日系企業に働く中国人従業員が日本的経営に何故なじめないのかについて、参与観察の資料から明らかにしている。まず、日本的経営システムでは、職務分類が曖昧で、任務の割り当てが柔軟であるという特徴を持っているのに対し、香港では、職能的技能を重視し、仕事の分業化が進んでいるという点で異なっている。さらに、序列や成功などについての価値観も対照的と言えるほど違っている。まさに、周辺の価値から中国を研究することにより、中国人の行動がより際だって理解できる例と言える。この論文は、経済的中心の日本文化と経済的周辺の香港文化がせめぎ合いながらも一つのシステムをなしている例として見ることもできる。
 このような従業員サイドの価値観の日本との比較に対し、次の沼崎論文は企業サイドから比較を試みている。
 沼崎論文《「家族間事業網」と「家族内事業体」》は、台湾の企業が、家族主義によって組織され、日本の財閥と同類であるという通俗的な見方を排し、台湾では、父系親族以外の姻戚、同郷のパートナーをも加えた家族の外にも拡がりを見せるネットワークであるのに対し、日本の財閥は不分割の家産をもとにイエの外には閉じられた企業システムであるとする。両者の対照的な差は、家族とイエと企業が重なる日本社会と、父系関係を主としながら、政治的、経済的状況に応じて変化する、パートナーシップによる提携にもとづいている台湾の漢族社会との差に起因すると考察している。
 佐々木論文《中国における父系親族構造の継承と組み替え》は、親族組織に対する近代化の影響がどのように見られるかを、華北の漢族の郷鎮企業および朝鮮族において検討している。漢族の郷鎮企業では、伝統的な宗族団体の運営や弱小一族による連合体と共通する点が認められる。つまり、族産共同体が地縁的経営共同体に組み替えられたとみなせるが、そこには父子の序列原理や系譜の観念が見られない。むしろ、朝鮮族の方に、父系的系譜観念が親族ネットワークとして認められるという。ただ、それも狭い範囲にとどまり、母方、妻方の関係が重要性を帯びている。両者とも父系原理からのずれを見せているわけだが、これを日本の近代化に伴う変化の事例とも対比させながら、その方向性を考察している。
 沼崎、佐々木両論文は、漢族の連帯が、必ずしも父系原理のみによって維持されず、とくに辺境あるいは近代化などの条件に応じて、姻戚関係や非親族的関係を取り込んで組織されることを明らかにしたが、これは次の植野論文に引き継がれている。
 植野論文《台湾漢民族の姻戚関係再考》は、従来の父系血縁重視のアプローチに対し、台湾で顕著に認められる姻戚関係の分析を行っている。まず、姻戚関係は、有力父系宗族をもつ香港農村部や社会主義化を経た大陸においても重要性をもち始め、辺境の特殊な現象でなく普遍性を持っていることを指摘している。そして婿方、嫁方の家族をそれぞれ「男家」「女家」とする分析概念を適用し、誕生、婚姻、葬式といった通過儀礼における両家の間の交換の丹念な分析を行い、両家が世代にまたがって密接な関係を持っていることを示している。これは、統一的な原則を欠いているかに見える台湾社会が、こうした多様性の内にあらたな規則性を見出す研究への宝庫であることを示している。
 秦論文《親戚間の通婚規則と父系血縁関係》は、中国の漢族でなぜ母方イトコ婚が多く、父方イトコ婚が少ないかについて論じている。この考察では、植野論文とは対照的に父系原理に立ち戻って検討を加えることが肝要であると述べている。地元の人にとって、父の姉妹は父と同じ姓をもち婚出後も同じ一族と認識され、その娘はあたかも一族の娘と同様に意識されるのに対し、母の兄弟は自己(男性)にとって姓も異なる外戚であり、その娘も外の人間として意識されるから、婚姻が許容されると主張している。こうした社会の中心的概念のうちにマージナルな現象の解を求めるのは、やはり、大陸という場においてより有効であり、その際にも地元の論理を深いレベルで理解するという点で自文化調査者の利点も数えられよう。
 以上の社会組織からの検討に対し、次の二論文は、宗教的側面に光を当てている。
 聶論文《儒教と民間信仰》は、儒教と民間信仰の関係について論じているが、儒教という既成の枠組みを用いている点で、まさに次の三尾論文とは対照をなす。もちろん、著者も民間信仰と既成宗教の境界が曖昧であることは認めているが、その中にあって儒教の与えた思想的観念的影響が決して小さいものではなかったことを強調している。たしかに民間信仰と言うと、むしろ儒教のような大伝統には目が向きにくいが、大伝統の影響も無視し得ないことは確かで、どのような理論的枠組みを用いるにせよ、その位置づけを明らかにする必要がある。
 三尾論文《漢民族の民間信仰》は、中国漢族の民間宗教を、既成の宗教によって断片的に解釈分類したり、混交したシンクレティズムとして解釈しようとする立場に異論を唱え、共時的視点から人々が宗教的実践の中で、宇宙を如何に語り大伝統をいかに操作しているかを明らかにすること、通時的視点から既成宗教の成立発展と民間宗教の関係を有機的に後づけて行くことを主張している。そして神々のヒエラルキーが単に官僚的秩序として静態的に位置づけられているのではなく、中央と周辺の間に緊張関係が存在し、逸脱したものを取り込みシステムそのものを活性化しているという、ダイナミックなメカニズムの解明に重点を置くべきであると述べている。この立場が実際の分析に適用されれば、周辺自体のもつ能動性が明らかになるであろう。
 聶・三尾両論文は対照的な視点に立って論じているが、その差異を、一概に調査地域の差に求めるのは性急にすぎよう。むしろ、この差異は、人類学的調査によって明らかにされた現象をモデル化する場合、人々の観念に共鳴しやすい自文化研究と、対象に密着しながらも分析的視点を取りやすい異文化研究の特色を表しているように思われる。
 
 第二部では、中華文明の中心的な文化装置が、周辺地域でいかに読み替えられ、独自の枠組みに組み入れられているかが考察されている。そして、この周辺独自の論理から中原を見直すことの意味も示唆されている。
 渡邊論文《沖縄から尋ねる中華文明》は、中華文明から伝来したもの、あるいは類似するかに見える慣行(亀甲墓、門中、水平去来神、巫俗、石敢当など)を取り上げ、大陸で調査してみると、それらは似てはいても〈同例〉は見いだせなかったという。つまり、これらは沖縄文化の中で主体的変化を遂げ、独自の価値として再生産されてきたもので、同様のことは、実は中国の東南部についても言えるのではないかと推測している。これが実証されれば、中華文明そのものの性格の再検討を迫るものとなろう。中華文明とヤマトに対する周辺としての沖縄からの問いかけである。
 同じく、小熊論文《近世琉球の士族門中における姓の受容と同姓不婚》は、沖縄の支配階層であった士族門中における葬礼や同姓不婚を取り上げ、家礼に記されている儒教的習俗が、そのままではなく、選択的に受容されていることを指摘している。中国渡来人の子孫である久米系では、同姓婚禁止を徹底しているのに、それ以外の門中では同姓婚の例がかなり認められる。こうしたずれの背後には、中国の父系親族集団が分節的な房よりなるのに対し、沖縄では直系の本家を中心に形成される「ヤー」集団を基礎にしているという根本的な差異があると指摘している。これは、漢族風の家譜に記載された家系と現実の家族とのずれを指摘した王教授のv族の族譜研究にも通ずる成果である。
 清水論文《多言語環境における親族名称の使用》は、人口のほぼ半数のみがクヴァラン族という調査対象集落では、クヴァラン語のほか福建語、北京語、アミ語、日本語が用いられており、そうした多言語環境の中で、親族名称がどのように使い分けられているかを綿密に分析している。老世代では福建語の、四〇歳以下では北京語の影響が強くなるが、性や年齢による名称区別が取り入れられているものの、父方、母方の区別は十分浸透していないという。また、学校教育やマスメディアによる漢語の浸透が、従来の日常的接触以上の影響を及ぼし始めており、固有の儀礼とバイラテラルな親族観念は言語以上に維持される可能性を持っていることも指摘する。「漢化」の過程の多様性を示す好例である。
 西沢論文《回族の民間宗教知識》は、中国第二の少数民族回族に流布している多数の宗教小冊子を紹介したものである。イスラム教を信ずる回族は、漢族主導の社会主義改革の中で厳しい監視と迫害にさらされた時期があり、これら小冊子が、発行流布されるようになったことは、多元的存在を多少なりとも許容する環境が生まれていたことを示す。イスラム教は、地域的次元ではないが、大漢族主義とはなじみにくいものであり、これらがすべて漢語で記されているところに中国におけるイスラム教徒の置かれた立場を反映している。つまり、漢語じたいが回族のアイデンティティを強化する手段となりえているわけである。清水論文と合わせ、言語の採用は必ずしも、アイデンティティの喪失とは結びつかないことがわかる。
 張兆和論文《「押しつけられた表象」から「自己表象」へ》は、人類学的調査を手伝った苗族の助手自身が、自己の民族や文化に目覚め、自らの民族誌を書き上げ、少数民族としての国政参加を国民党政府に働きかけ、ある程度の成果をもたらした例を取りあげている。彼の仕上げた民族誌は特に「漢化」の扱いにおいて、漢族調査者から押しつけられた表象に対する自己表象としての意味を持つものであったという。すなわち、漢族の民族誌では、同化のプロセスとしての漢化がさかんに出てくるのに対し、かれの民族誌では相違と変化はむしろ政治的抑圧や民族対立によるものと解されている。著者は、これを、千年王国運動や屯租撤廃運動など一連の動きの一つとして捉えている。
 同じ「漢化」を扱いながら、自文化の人類学的立場からは、全く別の接近の仕方が有り得ることを示し、自民族誌自体の抱える問題としても考えさせられる。
 漢族中心的な少数民族観に抗する視点という点では、自民族誌ではないが、次の陳論文も同様である。
 陳論文《モソ人の母系集団と母系家族》は、中国雲南省のモソ族の母系制についての実態調査にもとづいた報告である。これまでも、モソ族が妻訪婚の形式をとっていることは知られていたが、ここで行われた文化人類学的アプローチは、従来の研究や報道における漢族中心の進化論的な取り扱いとは異なった描き方になっており、また変化を単なる崩壊過程とみなすことなく、持続のモメントにも着目している。男女とも生家で一生を終える家族制度は、漢族の父系大家族のような倫理的規範の助けを借りずに、母系大家族を現出する。
 この恒常的枠組みをもった家族と対照的流動性を示しているのがベトナムの家族である。
 末成論文《ベトナムから見た漢族家族の特徴》は、中華文明圏にあり、父系原理などにおいても、その影響の濃厚なベトナムの家族が、漢族の家族制度と表面上の類似にもかかわらず、質的な差異を有することを明らかにしている。そして、このようなベトナム家族と対比させることによって、中国漢族の家族自体の特質が一層明らかになると主張している。ベトナムは、漢文化のみならず、日本、韓国とも類似性をもっていて、直接的比較がそれぞれの制度慣習をよりシャープに理解するのに役立つので、東アジアの周辺諸社会の比較にも枢要な位置を占めている。
 
 本書に収められた諸論文は、沖縄、台湾、香港、大陸の少数民族、ベトナムのそれぞれの調査地固有の周辺性を爼上にのせ記述し考察を試みている。人類学で中心と周辺をテーマとした場合、ミクロな社会単位を対象とする学問的性格から、周辺性が研究の中心となることが多いが、そのあり方の多様性に焦点を当てて解明する試みはそれ自体意味があろう。こうした作業を通して明らかになったことのうち、次の点が今後の東アジア研究にとって問題であると思われる。、
 第一に、中原と辺境というテーマ自体の相対性である。辺境自体の内にも、中心周辺を含むものであると同時に中原自体にも同様な構造が含まれるのではないかという問いかけが可能である。常識的な中原としての中華とその周辺には中国内の周辺諸地域も含まれるであろうし、また、周辺地域と言っても、例えばベトナムのように、その内にも中華化のいっそう「進んだ」地域と、より「遅れた」辺境という区別がたてられよう。従って、中原・辺境の区別というのは相対的なものである。もしそうであるとすれば、その相対性を極限まで押し進めれば、中原自体がそのような構造を持っているのではないかという疑問にまで行きつくのではあるまいか。従来考えられてきた中央から周辺へという表の流れと並んで、周辺から中央へという動きは最近に始まったものではなく、すでにその形成期から存在し、これら双方向の流れが表裏一体をなす構造であったのではないか。
 第二に、東アジアの人類学者による同地域内の比較研究には、自文化研究の問題を程度の差はあれ避けて通れないということである。また、この程度の差そのものが、ひとつの研究課題となろう。
 東アジアは、中華文明の浸透度がきわめて高いため、「異なる」文化の研究であるという度合いが、他の文化圏を対象とする場合に比べて、少ない。例えば、韓国、日本、ベトナムをとると、書き言葉の語彙の半数以上は、漢語であり、それは、話し言葉の中でも音読みの単語として定着している。これは、同じ東アジアに属する研究者にとっては、言葉の習得や文化の理解にそれだけ有利であると言える。また欧米の研究者が陥りがちな東アジアの社会文化を同一視してしまう誤りから免れ、より深い理解に到達しうる。しかし、人類学者としては、違和感が薄れた度合いだけ「他者」としてのメリットが少ないことになる。 つまり、自文化研究者と似た立場に置かれることの長短を常に意識する必要があろう。
 第三に、東アジアの文化社会を対象とした場合、歴史学的資料は人類学においても有力な手がかりであり、必須の対象とせざるを得ないということである。通常人類学が対象としてきた未開社会と対照的に、東アジアには歴史的資料が豊富であり、すでに歴史学の研究も進んでいる。また、地元の人々もこうした文献資料を知り、ときには積極的に関わっている。このような中で、人類学者がもっぱら自己の観察資料にのみ限定をもうけるならば、学問的に自殺行為に等しいであろう。「歴史」も、観察の重要な一部を構成しているのである。しかし、歴史資料の取り扱いについてはトレーニングが必要であり、すでに専門の歴史学者が手がけている分野をなぞってもあまり意味がない。同じ資料、地域を対象としても、王教授のv族の族譜の研究にも表れているように、人類学・歴史学の両分野で見方や見えてくるものが異なるということは少なくないであろう。
 第四に、これと関連して、地元の人々の民族誌への関与ないしかれら自身の民族誌を書く可能性も東アジアでは、他の地域に比較して高いと言える。地元の人々がすでに自分たちの生活や歴史を書き記す術を持っていたり、関心をもっている場合がしばしばあることから、地元の民族誌が書かれる可能性は、高いと言える。人類学者の側からの民族誌だけでなく、これらは人類学者が参考にすべき資料としてだけではなく、何らかの形で、交流が行われ、協同の成果を生み出す努力もなされてしかるべきであろう。もちろん、両者の目的、立場の違いは存在するのであって、それを無視した共同は、かえって望ましい成果は期待できないであろう。
 第五に、本書の、周辺からの視角には、日本が基準点となっていることへの省察が必要であろう。日本人執筆者はもとより、中国人自身の執筆者にしても、日本語で書かれた場合には、日本的な見方や考え方がその視角に影響を及ぼしている可能性がある。中国語や英語で書かれた論文についてはその度合いは薄いと言えるかも知れないが、日本語に翻訳される過程でその傾向性が反映していると言うこともできよう。少なくとも、王教授の「中国の社会文化を研究するのに、日本的コンテキストにおいて見るのも有効な方法の一つである」という考え方の影響がみられる可能性もあろう。しかし、日本を中心に編まれた本書は、例えば韓国ないしベトナムで組んだ場合の視角とは異なったものになっているであろう。これは、決して、日本的バイアスが入っているとか、その当否を問題にしているのではない。むしろ、こうした視角の違いは、ここでは、具体的に明らかにする余裕はないが、このテーマについての有効な手がかりとなる可能性を秘めているということを指摘しておきたい。
 
 本書の編集に当たって、瀬川昌久氏と三尾裕子氏には、企画から論文の検討に至るまで、お力添えを頂いた。とくに瀬川氏には、個々の論文の文章のチェックや字句を統一して、体裁を整えるという基本的な編集作業をやっていただいた。これは、本来編者の仕事であるが、原稿が集まったのが、定年の前年に当たったため、その任を果たせないところを自らかって出て下さったものである。三尾裕子氏主宰の、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所の共同研究プロジェクト「『中華』に関する意識と実践の人類学的研究」では、本書執筆者の多くが本書のテーマについて意見を交換する場となった。また、風響社の石井社主には、出版を引き受けていただき、読者の立場に立って意見をお寄せいただいた。ここに記して感謝の意を表したい。

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執筆者/訳者紹介(掲載順、生年、出身地、現職)

末成 道男(すえなり みちお)
   1938年、東京都、東洋大学社会学部教授
瀬川 昌久(せがわ まさひさ)
   1957年、花巻市、東北大学東北アジア研究センター教授
蔡 志 祥(Choi Chih-cheung)
   1955年、香港、香港科技大学人文学部准教授
廖 廸 生(Liu Tik-sang)
   1956年、香港、香港科技大学人文学部講師
王 向 華(Wong Heung-wah)
   1963年、香港、香港大学文学部助教授
沼崎 一郎(ぬまざき いちろう)
   1958年、仙台市、東北大学文学部助教授
佐々木 衛(ささき まもる)
   1948年、広島市、山口大学人文学部教授
植野 弘子(うえの ひろこ)
   1953年、兵庫県、茨城大学人文学部助教授
秦 兆 雄(Qin Zhaoxiong)
   1962年、湖北省、神戸市外国語大学助教授
聶 莉 莉(Nie Lili)
   1954年、瀋陽市、東京女子大学現代文科学部助教授
三尾 裕子(みお ゆうこ)
   1956年、東京都、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所助教授
渡邊 欣雄(わたなべ よしお)
   1947年、東京都、東京都立大学人文学部教授
小熊 誠(おぐま まこと)
   1954年、横浜市、沖縄国際大学文学部教授
清水 純(しみず じゅん)
   1956年、東京都、日本大学経済学部教授
西澤 治彦(にしざわ はるひこ)
   1954年、広島市、武蔵大学人文学部教授
張 兆 和(Cheung Siu-woo)
   1959年、香港、香港科技大学人文学部助教授
川口 幸大(かわぐち ゆきひろ)
   1975年、大阪府、東北大学大学院文学研究科博士課
程前期在学
陳 彬(Chen Bin)
   1965年、昆明、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了

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