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小特集・ヴィートッフェルトの台湾原住民研究
解説
山田仁史
はじめに今回の翻訳の経緯を記しておけば、まず金子が下訳と詳細な訳注を作成した。このうち主として前者に山田が全面的に手を加え、さらにいくつかの訳注を追加した。その後、意見・情報を交換しながら加筆・訂正して出来上がったのが、ここに訳出されたヴィートフェルトの二論文である。
論文の著者であるオットー・ヴィートフェルト(Wiedfeldt, Otto Ludwig. 1871生−1926沒)は、ドイツ北部のアルトマルク地方(Altmark)テューリッツ(Th_ritz)に、村の牧師の子として生まれた。まず父親から教育を受け、次いでベルリンで経済学を学び、1894年に博士号を取得の後、Centralblatt
f_r Socialpolitik紙編集部に勤務、96年にはザクセン農業組合連合の幹部、97年にはザクセン王国協同組合銀行理事となった。1900年にはエッセン市統計局長、02年にはドレスデン市統計局長を歴任。08年以降ドイツ帝国内務省評議員を務めたが、11年に休職して日本の鉄道省顧問となった。今回訳出された二論文は、この時に書かれたものである。
1914年にドイツ帝国内務省に戻った彼は、第一次世界大戦中「パン配給券」を考案、18年エッセンのFried. Krupp株式会社理事長となり、ヴェルサイユとスパーでの講和会議に参加。19年から22年はエッセン市商業会議所長、22年から24年には駐ワシントン大使を務め、その後はFried.
Krupp株式会社監査役の一員であった(Anonymous 1999)。
中略
思想史についてはこのくらいにして、次に欧米における台湾原住民研究史(第二次大戦後については、ここでは触れない)1の中でのヴィートフェルトの位置を手短に見ておくことにしよう。
17世紀にスペイン人やオランダ人の手によって台湾原住民の習俗や言語が記録されたが(cf. Terrien de Lacouperie
1887; 伊能 1928; 浅井 1953; de Beauclair [1970]1986; Dyen 1971: 171-176;
李壬癸 1975; ダニエルス 2001)、欧米人による本格的な学問的研究が始まったのは、19世紀半ばになってからである。
ことに1860年の北京条約で台湾の諸港が開かれて後、1895年に日本による統治が始まるまでの間に台湾を訪れた様々な分野の人々は、この島のオーストロネシア系住民に関する貴重な記述を残してくれた(cf.
Carrington 1977; 劉 1989, 1993; Zheng 1998; 呉 1999, 2001; Harrison
ed. 2001)。たとえば、イギリスの博物学者スウィンホー(Swinhoe, Robert)(cf. 張 1994)とコリンウッド(Collingwood,
Cuthbert)、ドイツの医師シェテリヒ(Schetelig, Arnold)、アメリカの将軍ルジャンドル(Le Gendre,
Charles W.)、淡水英国領事テインター(Taintor, Edward C.)、アメリカの動物学者スティア(Steere,
Joseph Beal)、英国人写真家トムソン(Thomson, John)、ロシアの海員イビス(Ibis, Paul)、スコットランドの茶商ドッド(Dodd,
John)、ドイツの民族学者ヨースト(Joest, Wilhelm)、鵝鑾鼻の英国人灯台守テイラー(Taylor, George)(cf.
1999)、ドイツの植物学者ヴァールブルク(Warburg, Otto)、カナダ人宣教師・医師マッカイ(Mackay, George
Leslie)、英国人ICMC(Imperial Chinese Maritime Customs Service)ピカリング(Pickering,
William A.)などが挙げられる。
この時期は、言語・形質・文化などを基準としながら、台湾原住民族と台湾外の諸民族の系統関係が盛んに論じられた時期でもあった。ウィーンの民族学者・民俗学者・インド学者であったハーバーラントは、その論点を次のように要約している。つまり、台湾の原住民を研究した言語学者・民族学者たちの大多数(たとえばスウィンホー、テインター、ドッド、ヴァールブルクなどなど)は、この原住民がマレー系であると考えた。それに対しシェテリヒは奥地の諸民族が非マレー的(ネグリート的)特徴を持っていると主張した。そしてアミー(人名!;Hamy)は後者の見方を受け入れ、発展させたのであった(Haberlandt
1894: 184)。
日本統治期(1895−1945)には、台湾原住民研究の主流は日本人によって担われることになったが、欧米人学者・外交官らによる報告や研究(後述のほかSchuhmacher
1898; Arnold 1909; M_ller 1910; Rutter 1923; _lvarez 1915, 1927,
1930; Haguenauer 1929, cf. 1977)が引き続き発表されたほか、日本人が欧米の言語で著した出版物または日本人の業績の翻訳・紹介(後述のほかYamasaki
1900, 1901; Takekoshi 1907)も、西洋の学界に貴重な情報を提供することになった。ヴィートフェルトの二論文も、この時期に属するものである。……後略
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