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解説
一(抜粋)
明の末葉から清代にかけて各地に発生しそして消滅していった民間の諸教門──いわゆる弥勒白蓮教系の「邪教」──の実態を知るためには、これを外側から捉えた官憲の諸記録だけでは充分でなく、一面には、これを内側から伝えるその教門の経典類を資料として利用しなければ偏見に陥る。官憲の記録が、初めから偏見によって書かれている場合が多いからである。ところが、その大切な内的資料たる経典類は、官憲により「邪経」と見なされ、獲るに随って押収され焼毀されてきたので、幸に湮滅を免れて今日まで伝わる経巻の数は少なく、たとえ現存していても、特殊な資料だけに、そう手軽には利用できない状態にある。
清の道光中期に、直隷滄州の知州に任ぜられた黄育●[木+便]の『破邪詳弁』六巻は、その任地で捜索した六十八種の経典を著録し、必要な語句を引用して逐条弁駁を加え、さらに「邪教」の教理教説を分析し、結論として、これらをすべて信ずべからざる虚捏妖妄の言と極めつけたものである。地方官としての立場からきた黄氏の「破邪」の態度や方法については、もとより今日の客観的な歴史研究の立場からの批判を免れることはできないが、少なくとも明清教門史上の貴重な根本資料を、かくも豊富に探索し叙録し論評した点では、まさしく明清を通じての唯一無二の専著であると称しても過言ではない。
本書の史料的価値については、つとに歴史学者の向達氏が、民国二十三年(一九三四)に「明清之際之宝巻文学与白蓮教」という題で紹介して以来、この方面の学者の注意を惹くようになり、宝巻著録の書、たとえば傳惜華氏の『宝巻総録』や、胡士瑩氏の『弾詞宝巻書目』や、李世瑜氏の『宝巻綜録』が本書を基礎資料としたことはいうまでもなく、周作人氏も「無生老母的信息」という文章で、やはり本書の記事を材料として抄出している。近年の『歴史論叢』第一輯に収められた熊徳基氏の「中国農民戦争与宗教及其相関諸問題」という論文でも、随処に本書を引用しており、今や明清の宗教史・社会史の研究者にとっては必須の資料となっているのである。
本書に著録する経巻六十八種のうち、近年の調査で、すでにその現存および収蔵者の判明しているもの四十七種、存否不明のもの二十一種。すなわち全数の約三分の一は、ただ本書によってのみその題名と内容の一斑とを知ることができるのである。勿論、本書に著録されたのが「邪経」のすべてではなく、これ以外にもかなりの数の経巻が発見されているから、本書は決して「邪経総目提要」とは言えないが、重要なものが多く著録されているばかりでなく、各教門の所説を要約した通論のような部分もあるので、今日なお貴重な参考書たるの価値を失っていない。
日本でも本書のことは宝巻と共に紹介され、この方面の研究者なら一応は書名を知っているはずであるが、実際には研究上に本書が活用されているとは言えない。その理由は簡単である。活用したくても、日本では本書の六巻全部を蔵する人がいないらしいからである。
本書の版本には二種ある。一は道光十四年以降、北京琉璃廠西門内の五雲堂で四回に分けて刊行した原刻六巻本。二は光緒九年(一八八三)に宗室祥亨の序を冠した荊州将軍署重刻本で、これは五雲堂本と頁も款式も一切が同じで、五雲堂の原版をそのまま使用したか、もしくは写刻したかと思われるもの。ただし用紙や墨色は同じではない。
わたしは、かつて北京にいた時、本書の北京原刻本全部と、「又続」以下の欠けた荊州重刻本の四巻との二種を蔵して、宝巻蒐集の際の台帳として愛用していた。一時日本に持ち帰って、二度めに北京に渡るとき、不完全な重刻本は遺し、原刻本のほうを持って行った。終戦で持ち帰りはできなかった。帰国後の研究は、不完全な四巻本に拠るのほかはなく、つねにこれを遺憾としていた。ところが、昭和四十年、天津に住む『宝巻綜録』の編者李世瑜氏と連絡がついたので、『破邪詳弁』のことを手紙に書き、何かの方法で不足分を見ることができるように便宜を図って欲しいと頼んだところ、幸に李氏は「又続」以下を人に手写させ、それに李氏自身が校訂を加えたものを送ってくれた。刊本でも写真版でもないが、とにかくこれで六巻全部がそろって、やっと二十年来の渇を療すことができた。そこで、これを機会に本書の校注本を備えておきたいと考え、改めて全文を筆写し、校訂し、注を加えて一部の稿本にまとめたのがこの校注本であり、以下に述べるのは、この校注の作業から得た本書に関する考証と評価とである。
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