|
はしがき
光嶌 督
チベット史の研究は長い間中国文献を中心として進められてきた。そして記録の正確さからいって中国の資料が最も信頼度が高いものである。しかし、これとは別に、チベット人によって書かれ伝承されてきた資料がある。そして誤記が多いとされてきたチベット文資料を歴史研究に積極的に用いたのは先学佐藤長氏であった。なるほどチベット資料と中国資料との間には相当数の不一致がみられるが、それをただちに、中国資料を正確とし、チベット資料を誤りとのみ断定することは出来ない。また歴史的に確実な資料とされている中国資料のみでは解明出来ない諸問題が存在する。近年、トーマス、トウッチ、スタンといったヨーロッパの先学達によって郭煌出土文書類や、チベットの各地に残存する碑文の解読が次々となされてきたことによって、こうした第一次資料によるチベット史の研究が甚だ盛んとなってきたが、こうした第一次資料も未だチベット史研究の上では点的存在であって、線としてなかなか繋がってこないうらみがある。
従来、歴史の資料となり得ないと考えられてきたチベット文文献が、佐藤氏の二十余年にわたる研究によって、現在では重要な歴史資料としてこれが学界に認知されるに至ったのであり、この意味に於ても佐藤氏の功績は大きい。
しかし、ここに一つの問題が残されている。それは佐藤氏が研究の対象とされたチベット伝承文献は、「プトンの仏教史」、「青冊」、「第五代達頼ラマ仏教史」、「パクサムジョンサン」、「ターラナータ仏教史」及び「王統の明鏡」の王沂暖による漢訳本「西藏王統記」などである。すなわち、佐藤氏の使用されたチベット伝承文献はすべてチベット仏教の資料であり、これらは14世紀以後、仏教がチベットを全面的に支配した時代に、仏教僧によって法灯の維持を目的として書かれたものである。しかし、仏教王国といわれるチベットに、仏教が正式に流入したのは7世紀半ばの事であり、唐代の事なのである。そして、それ以前からチベットにはボン教と呼ばれる宗教が流布していた。しかもこのボン教こそ、チベット人達の間に生まれ、チベット人達の信仰に支えられてきた民族宗教なのである。しかも、伝承によれば、その起源は古く、仏教のおこりとあまり違わぬ時期におこったといわれている。すなわち、ボン教は紀元前5世紀の頃、西チベット出身の、シェンラブミーボによってはじめられたと伝えられている。初期のボン教は、印度のバラモン教の強い影響を受けて生まれたとされているが、何れにせよ、チベット古来の、そして唯一の民族宗教なのである。そして現在のチベット人の多くはボン教をペン(pon)と発音しているが、東チベットのカム(khams)地方ではポン、西ネパールや北西印度ではボンと発音されており、中国では本教(ペンチャオ)と呼んでいる。本書では従来の日本での呼び方に従ってボン教と記すことにする。
仏教は日本にも伝来したが、それ以前から日本には神社があり、八百万の神々が土産神として、土地神、または氏族の祖先神として人々と深いかかわりを持ってきていた。外来宗教たる仏教の伝来によって決して神社は消滅してしまわなかった。ボン教とて同様であり、チベット古来の宗教として深く民衆の生活にかかわり、仏教の国教化という大きな波をかぶっても決してそれは消滅せず、今日まで伝えられてきているのである。従って、ボン教には仏教の流入以前からの古いチベットの伝承をはじめ、仏教との抗争、仏教徒によるボン教弾圧期を含めて、チベットの伝承が豊富に残され、伝えられてきているのである。こうした伝統ある民族宗教に対して、これまで先学の研究は殆どみられないのである。チベット文資料に深い関心を寄せられた壬生台瞬氏も、また佐藤長氏すらボン教資料には全く手をつけておられないのである。日本に於いてボン教に関する報告としては、僅かに、東洋文庫に1年間滞在されたサムテン氏が、その紀要に一文を残されたが、これはボン教徒であるサムテン氏がボン教を全く知らぬ人々へのガイドとして書かれたもので、決して学術的な著作ではない。またヨーロッパに於いても、フランス、ドイツ、イタリアなどで一、二の学者がボン教に言及しているが、すべてボン教を単なるシャーマニズムと決めつけるか、または文化人類学的立場からの研究であり、ボン教を宗教として扱い、そして宗教としてのボン教に対する深い研究は何一つ発表されていない。また地方的な土俗信仰とボン教とを混同し、ボン教の儀礼の一部分のみを取り上げてシャーマニズムと断定している学者もあり、日本に於いても未だ宗教としてのボン教やその歴史の学術的研究はなされていない。一体ボン教のオリジナルな資料が日本のどこにあるのであろうか、私の知るところでは、近々5、6年の間に印度のヒマチャルプラディッシュ州、ドランヂのボン教センターよりチベット文で出版された数冊の洋装本ボン教経典(原典は西ネパールのボン教寺院より持ち出されたものが中心である)を除き、オリジナルなものとしては、郭煌文献中の三つの経典、東洋文庫の一典(欠本)、高野山大学の故氏家氏がネパールより持ち帰られた一典、奈良医大所蔵の一典といった程度であり、その他には私の見聞した浜松の某氏所蔵の二、三のマントラ類のみであろう。ヨーロッパの先学がボン教に言及した論文をみても、そこには何ら基本的な資料は紹介されておらず、伝承資料の名前すら提示されていないのである。
長い伝統を持つボン教には勿論多くの伝承記録や典籍が伝えられているのであるが、不幸にしてそれらの入手が甚だ困難である。8世紀から10世紀にかけての
200年間にわたる仏教とボン教の争いは、ボン教の古い記録を失わしめ、また仏教を国教としてボン教を禁止した8世紀末には、ボン教の典籍はひそかに隠匿されてしまい、11世紀に入ってボン教と仏教の妥協により、ボン教の典籍が再び日のめを見ることとなるが、これも束の間で、第五世達頼喇嘛のボン教弾圧により再び隠されてしまったのである。以後歴代の達頼喇嘛による政権の把握に伴い、ボン教はひそかに命脈を保たざるを得なかったのである。こうした経過により、今日では名前を伝聞するだけで実物を確認し得ない典籍類が甚だ多いが、それでもおな、多くのボン教関係資料は存在しており、かつチベット仏教資料の中にもボン教のものが混入している。例えば、トゥカンロプサンチョキニンマは著書「Drub
mthah」の中に、仏典中に混入しているボン教典籍をいくつか紹介している。 私は、一九六四年ネパールのカーギュ系ラマ寺院に入り、その後大僧正の推薦状を手にしてこの派の総本山、法皇ギャワカルマパ16世が住持されるシッキムのルムテック大僧院に入り、
800年の歴史を持つこの寺の書庫で研究する機会を得て、この寺の古文献を調べるうち、いくつかのボン教資料に出会い、興味をもった。以後20年間、印度、ネパール・ブータン、シッキム、カシミールなどで集めた
300余のボン教典籍は、教義、天文、地理歴史、医薬、占卜等多分野にわたっているが、仏典のように完全な編集はされておらず、目録もなく、容易に把握し、また入手することが甚だ困難である。このことがボン教の研究をはばんできた。更に、古いボン教資料の多くがシャンシュン語(
Zhang zhung skad du)で書かれており、また独特なシャンシュン文字を用いているものがある。この難解な言語がボン教の研究をはばんできた今一つの原因である。
以上の如くボン教の古典籍に用いられているシャンシュン語そのものが未研究の言語であり、その辞典すら存在が不明である。そして前述の印度ドランヂのボン教センターより出版されている数種の経典類はチベット語、チベット文字で書かれた経典類である。
残念ながら未だ日本ではシャンシュン語の研究者の名前を聞かないし、またボン教の研究論文すら殆ど発表されていない。こうした情況をふまえ、「ボン教学統の研究」と題する本書を発表するに当たり、中国ではボン教研究をはじめられた若い友人、イタリア、ドイツでボン教研究をされている友人達との研究交流上、本書は日本文論文以外に、中国文、英文の訳を加え、またボン教史上著名なボン教学者や聖人名のリスト及びボン教典籍のリストを付し、また資料として利用した主要なボン教典籍の紹介を加えた。今後ますます多くのボン教研究者やシャンシュン語の研究者が生まれ、共に研究活動が出来ることを切に希望する次第である。
【↑最初の行へ】
|