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はじめに
沖縄の中心都市である沖縄島の那覇から、南西方向におよそ三○○キロメートルの海を隔てた宮古諸島。
美しいサンゴ礁に縁どられたその島々の一角に、自分たちを一つの「民族」と称する人たちが暮らしている。そう言うと、はじめて聞いた人にはたぶん意外なことと受け取られるであろう。同じミンゾクでも「民俗」のまちがいではないかと疑われるかもしれないが、決してそうではない。
宮古諸島のもっとも北側に位置する池間島は、一九九二(平成四)年に長さ一四五二メートルの池間大橋で主島の宮古島と結ばれた。その大橋から見渡せるライトブルーの広大な海はまさに絶景としか言いようがない。自動車会社のテレビCMなどで一時期盛んに撮影地に使われ、よく池間大橋を疾走する新発売車両が放映されたので、どこの海なのかを知らないまま、画面に映し出された南国の景観を見て心を引かれたという人も少なくないはずである。
その池間島の住民および出身者たちは、伊良部島佐良浜、宮古島西原の人びとなどを含めて、しばしば自分たちのことを「池間民族」と呼ぶ。佐良浜も西原も、どちらも過去に池間島から分かれた村である。つまり、「池間民族」というのは、一つの島を越えて用いられている一種の集団的自称と考えればいいだろう。
それはただの言葉遊びではない。ここ二○年ほど、池間、佐良浜、西原の住民有志は毎年欠かさず「池間民族の集い」という催しを開いている。また、数年前には参加者の団結を表す「池間民族の旗」さえ作られたそうである。
ただし、そのような動きの背後に何か特別な政治的意図が見出されるのかといえば、それは違う、と確信をもって言うことができる。たとえば、首長選挙や議員選挙を通して地方政治に独自の勢力を築こうという発想などはどこを探しても見当たらない。まして、人びとは宮古という土地で少数者の権利を声高に主張しているわけでもないのである。民族問題や民族紛争という場合の「民族」と同じような意味に考えてしまうのは、いささか早とちりにすぎる。
では、この「池間民族」という言い方はどのように理解すればいいのか。独特な自称名が使われる背景にはいったい何があるのだろうか。
本書で述べることは、大部分がこの限定された問題意識に支えられている。現地の池間島におけるさまざまな人たちとの対話、近年に書かれた出版物、そして過去の文献記録などに基づいて、「池間民族」というこのユニークな自称が生まれてきた由来を探り、その自称の意味するものを少しでも解き明かしてみたいのである。
本書は文化人類学の民族誌、すなわち「ある社会における文化的に有意な行動の記録と記述」[黒田 一九八七:七五六]を一篇の書籍にまとめたものであるが、記述の形式としては、通常の民族誌のように生業や衣食住、祭り、社会組織などの多岐にわたる事項を網羅的に配列する体裁はとらない。関心を一つの狭い問題に絞った民族誌、「池間民族」という自称にこだわったテーマ限定の民族誌と言えばいいであろう。
本文では、できるだけ専門用語の使用を避けるとともに、一般の学術書に見られるような注(註)を付けない。また、章ごとにそれぞれ新書判の書籍に近い形の小項目を立てることにした。研究者だけではなく、文化人類学や沖縄の研究について特別な知識を持たない読者も念頭に置いたからである。文献資料に言及する場合には、文中に著者名と発行年、頁などを示したので、巻末の文献一覧から出典を確認することができる。
そしてもう一つ、本書では、池間島の文化をもっぱら外来者である私の視点から描くのではなく、できるだけ当事者たちの郷土認識に寄り添い、郷土についての語りを尊重するように努めた。「文化の自画像をめぐって」という副題を付けたのは、そのような私自身の姿勢を本書全体の趣旨として示したかったからである。……
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