|
言語ナショナリズム
これまで、タイ語のラーオ語への影響が著しいものとなっていること、そしてその影響は双方向的なものではなく、タイ語→ラーオ語の一方通行で、決して対等なものではないことについて述べてきた。
それでは、こうした圧倒的なタイ語の影響に対して、ラオスの人びとはただ手をこまねいて、見てきただけであったのであろうか。もちろん、答えは“ノー”である。ラオス国立大学の先生方が、あくまでも「百」をTホーイUhooyであると教え続けているのは、タイ語の影響から「正しい」ラーオ語の語彙を守ろうという、強い「言語ナショナリズム」によるものであったといえる。こうした動きは、決して最近に始まったことではなく、一九世紀末にフランスとシャムとの国境交渉の結果、「ラオス」と「シャム(現タイ王国)」の間に排他的な国境線が引かれて以来、すなわちラーオ語の「境界」が決定されて以来、現在に至るまで続いてきたものなのである。
島国である日本に生まれ育った人にとって、なかなか実感をもって理解することは難しいが、国境をまたいで方言の連続体が形成されている地域では、自らの話し言葉が「言語」とされるか否かが、その話者たちの政治的な独立にとって決定的な根拠となる場合が少なくない。例えば同じ西スラブ語群に属し、相互理解がかなりの程度可能なチェコ語、スロバキア語がそれぞれ独立した「言語」であるのは、各言語が独自の正書法や語彙を発展させ、異なる標準語の規範をつくりあげたからである。そしてこの背景には、自分たちの「言語」をつくりあげることで、自分たちの「国家」を獲得しようという、独立への強い意図が働いていたことは明らかであろう。
以上を踏まえた上で、本書では、ラーオ語がラオスの国民語としていかにして「つくられて」きたのか、タイ語との関係に注目しつつ明らかにしていきたい。これはまた、一つの「言語」を「つくる」ということが、いかに政治や社会・経済状況、ナショナリズムといった、本来「言語」にとって「外的」であるはずの要因によって、左右されるものであるか、ということを示す試みでもある。
本書では特に、フランス植民地時代から一九七五年の社会主義革命までの、約八十年間を考察の対象として設定し、この問いに対する答えを探っていきたい。この期間を対象とする理由は、現在のラーオ語とタイ語をめぐる諸問題の原点を知るためには、植民地支配、内戦と、国家としての「ラオス」の存在が、より不安定であったこの時期の状況を明らかにしておくことが、ぜひとも必要であると思われるからである。その際、内戦期に関しては、タイ語の影響がより顕著にみられた、王国政府側の動きを中心に扱っていくこととする。
そのため本書では、以下のような構成をとる。第一節では、ラオスに関する基本事項を概説した上で、ラーオ語の存在にとってなぜタイ語が「脅威」となってきたのか、前近代からのこの地域の歴史を概観し、その歴史的背景を描き出していく。第二節では、フランスによってラーオ語の「境界」が設定されて以降、書き言葉のレベルでタイ語との差異化がどのように図られてきたのか、正書法や文字をめぐる諸議論を取り上げて検討する。第三節では、通時的なレベルでラーオ語とタイ語の差異化がどのように図られていたのか、ラーオ語の「歴史」をめぐる言説に注目する。第四節では、話し言葉のレベルでのタイ語の影響とそれへのラオス側の対応について、王国政府側の新聞や雑誌などを用い、語彙の点から検討を加えていく。そして語彙や正書法など、実際の言語の「かたち」に直接関わる領域と、「歴史」や「伝統」など、言語イデオロギーの形成に関わる領域の双方から、ラーオ語がタイ語との差異化を図りつつ、「つくられて」いくさまを包括的に描きだしていくことを目指したい。……
【↑最初の行へ】
|