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モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料9

紅衛兵新聞(1)

モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料9

文革の動向に大きな影響を与えた紅衛兵。彼らの残した各地各種の新聞は、党内の思惑や様々な派閥の消息を伝える第一級の史料群。

著者 楊 海英
ジャンル 書誌・資料・写真
出版年月日 2017/01/27
ISBN 9784894898899
判型・ページ数 A4・1086ページ
定価 本体20,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

第一部 資料解説

はじめに
一 従来の研究
二 自治区首府の造反派と保守派
三 造反派新聞が伝える初期文化大革命
四 『呼三司』時代の幕開け
五 「抉りだして粛清する運動」への参入
六 内モンゴル人民革命党への作戦
七 深化と抗争、そして動揺
八 工人の指導を受ける造反派
九 『紅衛兵』時代
十 第九回全国党大会の開催
おわりに
参考文献
第二部 本書所収紅衛兵新聞一覧

1.『東方紅』第3期1967年1月13日
 (中略)
11.『東方紅』第19期1967年4月26日
12.『挺進報』第23期1967年4月30日
13.『革命造反派』第6期1967年5月4日
14.『挺進報』第24期1967年5月4日
 (中略)
47.『進軍号』第9期1967年8月5日
48.『呼三司』第16期1967年8月10日
49.『井崗山』第27期1967年8月13日
50.『呼三司』第17期1967年8月18日
51.『呼三司』第18期1967年8月22日
52.『呼三司』第19期1967年8月25日
53.『進軍号』第11期1967年8月25日
54.『進軍号』第12期1967年8月27日
55.『呼三司』第21期1967年9月2日
56.『呼三司』第22期1967年9月6日
57.『集寧紅衛兵』第16期1967年9月8日
58.『進軍号』第13期1967年9月10日
59.『呼三司』第24期1967年9月13日
 (中略)
90.『呼三司』第51期1967年12月20日
91.『呼三司』第54期1967年12月27日
92.『呼三司』第55期1968年1月1日
93.『呼三司』第56期1967年1月6日
 (中略)
193.『紅衛兵』(『工人風雷』と合刊)第154期1968年12月14日
 (中略)
229.『紅衛兵』第198期1969年5月31日
 (中略)
233.『呼三司』第7号1969年8月28日

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内容説明

本書は内モンゴル自治区でおこなわれた中国文化大革命に関する第一次資料を解説し、影印するシリーズ。文革の動向に大きな影響を与えた紅衛兵。彼らの残した各地各種の新聞は、党内の思惑や様々な派閥の消息を伝える第一級の史料群。

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はじめに より

 

……

 

 北京大学だけでなく、名門清華大学の紅衛兵、「井崗山兵団」も独自に複数の新聞と雑誌を編集し、発行していた。清華大学紅衛兵が主役を演じた1968年の武力闘争について研究した唐少傑は、「井崗山兵団」内の編集部は兵団の宣伝部門の中心軸で、思想形成と世論誘導を積極的に推進していたという。兵団の機関紙『井崗山』は中国で最も著名な紅衛兵新聞で、1966年12月1日に創刊されて、1968年8月9日まで計20カ月続き、合計157期を発行した。総発行部数は50万部に達し、「中国の新聞業界の奇観を創出」したほどである[唐少傑 2003:154]。つづいて北京師範大学の学生たちも同じ名前の『井崗山』を1966年12月9日に創刊した[王家平 2004:23]。井崗山とは、かつて毛沢東が一時的に割拠していた江西省の山の名で、共産党によって「革命の根拠地」だと礼賛されていた「革命的聖地」の一つだ。毛が割拠していた地域の名を自らの新聞名とするのが、当時の流行で、「革命の精神を受け継ぐ」ポーズだったのではないか。

異端思想者の処刑

 大学生たちの造反を見た中学生と高校生も立ち上がった。1967年1月18日、高級幹部の子弟らが学ぶ北京第四中学牟志京らは『中学文革報』を創った。「文化大革命中において、政府の支持がなかった、唯一の新聞」と自負する『中学文革報』は遇羅克の「出身論」を創刊号に掲載したことで歴史に名を遺した。一時は毛沢東も認める、「最も影響力のある紅衛兵新聞の一つ」にカウントされていた[牟志京 2011:13-18]。
「出身論」を掲載した『中学文革報』の創刊号は3万部印刷したものの、飛ぶように売れたので、更に6万部増刷した。その後も同新聞は「家庭出身問題研究小組」の名で出身に関する論文を掲載しつづけた。街角で『中学文革報』を読んだ者が思わず号泣する光景も多々あった。1967年4月1日に第六期を出した後、4月14日には党中央文革小組から正式に「反動的な出身論」を掲載したとされ、停止を命じられた。「出身論」を書いた遇羅克も1968年1月5日に逮捕され、1970年1月9日に死刑判決を受け、3月5日に執行された。27歳の遇羅克に冠された罪名は「偉大な領袖毛主席を暗殺する謀略を企てた」とされるが、実際は「出身論」が党中央の逆鱗に触れたからだ、と創刊に関った牟志京は理解している[亜衣 2005:106-107;牟志京 2011:27]。

 では何故、『中学文革報』に「出身論」を執筆した青年を処刑する必要があったのだろうか。「出身論」は中国における文化大革命の性質と共産党支配の正統性に切りこんだからである。上で触れたように、初期の紅衛兵はどれも党中央の高級幹部の子弟らが組織したもので、彼らは「父親が英雄であれば、その子も好漢だ。父親が反動的であれば、その子も馬鹿だ」(老子英雄児好漢、老子反動児混蛋)と確信していた。高級幹部の子弟たちに追随していたのは、社会主義中国の支配者階級に入る紅五類出身の青少年だった。紅五類とは労働者と貧農・下層中農(貧下中農)、革命幹部、革命的軍人、革命烈士の出身者を指す。紅五類の対極は被支配者の黒五類で、こちらは地主と富農、反動分子、悪質分子、右派の出身者からなる。いわば、一種の革命の外套をまとった封建主義の血統論だった。紅五類の出身者はあからさまに黒五類の出身者を差別し、党の政権を受け継ぐのも自分たち高官の子弟だと公言してはばからなかった。加々美光行は、中国のこうした「出身階級一辺倒的な社会体制」は血統主義的原理によって構築されたものである、と指摘する。共産党の「解放」によって、支配者と被支配者間のピラミッドが形式的に逆転し、頂点に立った新しい支配階級に対する不満を代弁したのが、遇羅克の「出身論」である。共産中国の統治を支えていたのは新しい血統主義の情念で、「遇羅克が告発したものは、まさにこの〈血統主義的情念〉によって現れる国家支配の暴力的側面である」[加々美 2001:49-54]。

 高級幹部の子弟を指導者とし、紅五類からなる初期の紅衛兵はまた「老紅衛兵」や「保守派紅衛兵」とも呼ばれる[印紅標 2009:57-58]。遇羅克と牟志京の『中学文革報』はまさにこの高官の子弟らが固く信奉する血統論を批判する為に創刊されたものである[亜衣 2005:106]。だから、最初から党中央に注目されていたし、最終的には執筆者も殺害されたのである。

老紅衛兵と造反派紅衛兵

 老紅衛兵たちは血統論に則して父母の政権を受け継ぎ、黒五類には革命の権利がないと確信していても、毛沢東の真意は別のところにあった。毛はまさに彼らの父母こそが資本主義の路線を歩む実権派だと判断していたので、やがて、当初は少数派だった紅衛兵たちが造反派と称するようになり、平民の子弟らも積極的に受け入れられるように変化する。血統論に基づいた出身を問わないことと、高級幹部の子弟が少なかったのが、造反派紅衛兵の特徴である。造反派紅衛兵が次第に老紅衛兵にとって代わり、紅衛兵運動の主流を成すようになるのは1966年末からのことである[印紅標 2009:57-58]。

 印紅標の研究によると、文化大革命初期の暴力は主として老紅衛兵が働いたが、造反派も暴力の行使に反対しなかった。なかには北京師範大学の「井崗山戦闘団」のように山東省の曲阜に赴いて孔子ゆかりの文化財を破壊しつくした組織もあった。しかし、造反派が一貫して血統論を批判したのは事実である。造反派が血統論を批判した際に、必然的に党と政府の特権階層の問題に触れざるを得なかった。中国共産党はソ連の指導者たちの「特権」を批判していたものの、自身の問題には関心がなかった。造反派紅衛兵は「特権階層」に対する分析を通して中国社会の問題を解決しようとしたのである。毛沢東を指導者とする「無産階級司令部」も血統論批判を許したが、党と政府の公的な文書でそれを取りあげるには慎重な態度を崩さなかった[印紅標 2009:58-66]。したがって、文化大革命も後半に差し掛かった段階で、ありもしない「偉大な領袖を暗殺しようとした罪」をでっちあげて、出身論の執筆者を殺害したのである。遇羅克を処刑した事実は、その後、特権階層の子弟からなる老紅衛兵たちが太子党を結成して政権の座に返り咲き、そして諸悪の根源をすべて造反派になすりつける、中国独特な清算方式の前奏曲だった、と解釈できよう。

……

 

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編者紹介
楊海英(Yang Haiying)
日本国静岡大学人文学部教授。専攻、文化人類学。
主な著書

『草原と馬とモンゴル人』(日本放送出版協会,2001年)
『チンギス・ハーン祭祀―試みとしての歴史人類学的再構成』(風響社,2004年)
『モンゴル草原の文人たち―手写本が語る民族誌』(平凡社,2005年)
『モンゴルとイスラーム的中国―民族形成をたどる歴史人類学紀行』(風響社,2007年)
『モンゴルのアルジャイ石窟―その興亡の歴史と出土文書』(風響社,2008年)
『墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(上・下,岩波書店,2009年,第十四回司馬遼太郎賞受賞)
『続 墓標なき草原―内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(岩波書店,2011年)
『植民地としてのモンゴル―中国の官制ナショナリズムと革命思想』(勉誠出版,2013年)
『中国とモンゴルのはざまで―ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(岩波書店,2014年)
『チベットに舞う日本刀―モンゴル騎兵の現代史』(文藝春秋,2014年,第十回樫山純三賞受賞)
『日本陸軍とモンゴル―興安軍官学校の知られざる戦い』(中公新書,2015年,国基研・日本研究賞受賞)
『逆転の大中国史』(文藝春秋,2016年)
『モンゴル人の民族自決と「対日協力」―いまなお続く中国文化大革命』(集広舎,2016年)。

 

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