フィールドから1999/6

「彼ら」との距離

中村理恵 in Vietnam

(ワシントン州立大学人類学部大学院)




 大学院一年目で、山のような宿題に苦しめられていた頃、ナバホ族の調査で知られる教授が、ヘリコプターでフィールドに行った人類学者の話を講義の合間にしてくれた。この人類学者が何という人で、どこでフィールド調査を行ったかは、忘れてしまったが、彼女は、ヘリコプターで密林の真ん中に連れて行かれ、そこで、落下傘部隊よろしく降ろされたのだそうだ。スーツケースの上に腰掛けて、ぼんやりしていると、どこからともなく、その森に住む人が現れ、ご飯を食べる真似をする。彼女はそのまま、その森に住む人について行き、それから2年ほどそこで生活する。なんともドラマティックな「フィールド入り」である。
 ところで、私は昨年、私がフィールドに行くのではなく、フィールドが私の方へやって来るというような体験をした。カリフォルニア州のサン・ホゼで開かれた、国際チャンパ事務局の総会に参加した時のことである。
 チャンパというのは、紀元2世紀頃に、ベトナムの中部に興ったインド文化を受容した国である。チャンパは、海のシルクロードの中継地として、9世紀から15世紀にかけて栄えたが、ベトナムの南進により19世紀の中頃に消滅する。私は1993年から1996年の間に、約2年間ほど、チャム族というチャンパ王国の末裔にあたる少数民族の間で、フィールド調査を行った。チャム族は、現在、ベトナム南部に約10万人住んでいる。また、多くのチャムが王国の滅亡期にカンボジアに逃れたため、現在カンボジアには、約30万人のチャムが住んでいる。1975年以降、ベトナムとカンボジアに住むチャム族は、難民としてマーレーシア、フランス、アメリカ合衆国、カナダ、オーストラリア等の国々に移住した。アメリカ合衆国に住むチャムは5000人ほどで、そのほとんどの人達が西海岸のカリフォルニア、オレゴン、ワシントン州に住んでいる。
 1990年にアメリカに住むチャムが、国際チャンパ事務局、(International Office of Campa (Champa))略称 IOCを設立する。IOCは、国外に移住したかつてのチャンパの人々の間での相互援助、文化伝統の保存と継承、チャンパに関する科学的研究への援助等をその目的とする団体である。私は、カリフォルニアのサン・ホゼ市で開かれたIOCの第三回総会に、研究者という名目で出席する事を許された。
 サン・ホゼ空港で、私は迎えに来てくれているはずのIOCの委員を捜した。サン・ホゼは、私が所属するワシントン州立大学のあるシアトル市から、飛行機で約3時間ほど。ベトナム人移民の多い所である。感謝祭の休日のため、空港は比較的混んでいた。皮のジャケットを羽織った男性が、二人の少年を従えて私に近寄って来た。IOCの委員のロヒムさんである。二人の少年を自分の従兄弟だといって私に紹介した。「何だか何処かで会ったことがあるみたいだな」とこの二人の少年を見て思った。
 ロヒムさんが運転するベンツで、私の宿泊所になるチャム族の一家の所へ行く途中、私はさっそくロヒムさんのバックグラウンドについて詮索した。どこの村の出身か、結婚しているのか、子供は何人いるか、何時アメリカに来たのか、どうやって来たのか、今どんな仕事をしているのか。ロヒムさんとの会話が私のベトナムでの調査に触れた時、後ろの席に座っていた二人の少年が、私をベトナムの自分達の村で見たと言い出した。「チャム族の女の人のように白い服を来て、タムキ(チャム族のモスク)に入って行ったでしょ。」
 チャムの村で、儀礼を見に行くのに間違った服を着て行き、着替えに戻されたり、ザンバラ髪で彼らのモスクに入ろうとして、チャムの人達に色々注意され、髪を結い直してもっらたり、祭事の酒盛りに参加して酔っぱらって寝てしまい、大事な儀礼を見損なったりしていた私を、この少年達はちゃあんと見て覚えているのである。大学では、チャム族の間で実際に調査を行ったということで、一応周囲からそれなりの評価を得ているのだが、いかに私がその調査を行ったかという内情を知る彼らの前では、そんな評価も一瞬にして消し飛んでしまったような気がした。
 宿泊所になるチャム族一家の所に着くと、二人の男性が出迎えてくれて、自分達のことを覚えているかと言う。「ほら、あの時何とかさんの家で一緒にお茶を飲んだでしょう」というのだが、私は情けないことに記憶喪失者のように、まごつくだけであった。私の薄情な記憶力に対して、二人は、私についての細々としたことを覚えていて、あの時のボーイフレンドとはどうなった、結婚したのか、子供は出来たのか、等と聞いてくる。冷や汗が出た。
 私にとってフィールドというのは、遠くにありて思うもの、山を越え海を越えた遠い所にあるものであった。あちらで犯したヘマが、こちらで暴露されることもなく、こちらでの失敗が、あちらに漏れることもない、という安全な距離がフィールドとホームとの間に横たわっているはずだったのである。まさかフィールドがこんなに近く、しかも、フィールドの方から、私のホームベースにやって来るということは思っても見なかった。ヘリコプターでのフィールド入り、というのは極端な例だが、文化人類学者はいつも、他文化、他社会に「出かけていく」、訪問者であった。しかし、「彼ら」がこちらにやって来ると言うことはそう珍しいことではなくなって来ているのである。
 「何だか何処かで会ったことがあるみたいだな」という顔に囲まれて、私はIOCの総会に参加した。フランス、マレーシアからの代表を含めた60数名を集めたIOCの総会は、様々なグループの利害関係が複雑に絡み合い、げんこつを振り上げて怒鳴り合うという一幕もあり、波乱にとんだものになった。ベトナムのチャム族は、彼らの、宗教、地域の違いによって、複数のグループに分かれている。チャムと呼ばれている同じグループの中に、どれほどの異なるタイプのチャムがいるのかということを探ることが、私のベトナムでの調査の目的の一つであった。IOCの総会に出席して、ベトナムでのフィールド調査で見たのと同様なグループの違いが、アメリカにおいても引き続きチャム族を分断させているのだ、ということが分かって来た。
 IOCの総会で話し合われたことの底辺には、常に、宗教、地域の違いを越えて、どのようにチャム全体をまとめて行くのか、という問題が潜んでいた。「恩返し」をするのは今であるとばかり、私は、チャムが統合される唯一の方法は、色々なチャムがいるのだということを認め、お互いの違いについてもっと良く知ることである、それなしにチャム族全体を統合することは出来ない、という演説をぶった。私の演説は割と好評で、総会の議長も含めて、何人かの人が個人的に私の演説を誉めてくれ、私の調査に興味を示してくれた。私の論文が完成したら、是非一部自分の所に送ってくれと言うのである。
 私は今、チャム族のエスニシティーについての博士論文を書いている。チャム族の友達、先生から来る手紙や電子メールには必ず、論文の進み具合はどうか、もう長いこと書いているのだから、そろそろ書き上がっていてもいい頃だろう、出来たら必ず原稿のコピーを送ってよこせ、というようなことが書いてある。エドモンド・プリチャードが調査したアフリカのヌアー族や、ナポレオン・シャグノンのアマゾンに住むヤヌマノ族と違って、チャム族の人達は、彼らについて書かれた物を読むのである。(今ではヌアー族の人類学者がいるそうであるが。)
 突き詰めていけば、エスノグラフィーの権威というものは「私はそこにいた」ということにあるが、そのエスノグラフィーを「私はその彼らの一人だ」という人に読まれるということには、落ち着きのない奇妙な気分にさせられるものがある。
 私は博士論文の下書きを、チャム人の学者に読んで貰った。彼は根気強く、私の下書きに目を通してくれ、山のような批評を、しかも辛口の批評を添えてくれた。彼の援助に感謝したものの、友達のような親しみを感じていた人から、「あんなに教えてやったのに、お前、何も分かってないじゃないか!」と叱られたようで、しばらくの間、論文に手をつけることが出来なかった。あんな苦労をしてベトナムで資料を集め、2年間もかけて書いたのに、こんな風に言われたんじゃ、まるで踏んだり蹴ったりだとも思った。
 ところが、彼の批評を何度も読み返しているうちに、一体、自分は自分を何様だと思っていたのだろうかと反省するようになった。私は誰からも頼まれず、まして、チャムの人達からの招待があって彼らの社会に入って行った訳ではない。私はいわば押し掛けである。押し掛けのくせに、チャムの人達に調査の愚痴を言ったり、文句を言ったりするというのは、全くのお門違いである。IOCでぶった私の演説がそのいい例だ。私は、チャムの人達に一つになれの、互いの違いについて分かり合え、なんぞと言う立場にはないのである。それは全くもって彼らの決めることである。
 2年以上も同じテーマで論文を書いていると、いい加減飽き飽きしてきて、チャムのチャの字も見たくも聞きたくもない、と思うことがある。その癖、チャム人の友達や先生から、チャム族を研究しにやって来た別の研究者の話しを聞くと、何だか彼らに浮気されたような気持ちがする。
 私はある意味で、自分がチャム族と結婚したようなものだと思っている。一度彼らとの間に成立した関係は、私に一生ついて回るのだと覚悟している。と同時に、私は、頼まれもしないのに、勝手にやってきた押し掛け女房なのだということを、忘れてはならないのである。私は、チャム族と、これから末長い関係を保って行くのだけれど、彼らから見れば、私は常に他者でしかないのだ。私はまだ、この「彼らとの距離」を計り慣れていないようである。(『ベトナムの社会と文化』第1号より転載)