書評

『民博通信』86号(1999年10月、国立民族学博物館)

中国北方農村の口承文化
語り物の書・テキスト・パフォーマンス

井口淳子著  1999年

評者 藤井 麻湖(民博共同研究員)




 本書は、1998年2月に大阪大学より博士(文学)の学位を授与された論文「中国北方農村の口承文化―語り物の書・テキスト・パフォーマンス」をもとにして編まれた中国口頭伝承研究である。まず本書が公刊されたことにより、著者のこれまでの一連の研究成果をはじめてひとつの流れのなかで一望できるようになったことを喜びたい。

 本書を読みはじめる者は、あとがきに記されている次のような予備知識をもっておく必要がある。すなわち、中国農村の芸能や口承文芸研究の現状が概説的記述の域を出ておらず、ましてや本書が対象としているマイナーなひとつのジャンルに対して長期間のフィールドワークをおこない、現地の担い手とじっくりと対話を重ねるといった姿勢でおこなわれた事例研究がきわめて少ないということである。つまり、著者の展開している論が最初から現状の研究の数段上をいくものであることを確認しておきたいのである。

 本書の対象としている樂亭大鼓〔ラオティンタークー〕とは中国河北省樂亭地方に伝わる語り物のジャンルである。「一九世紀前半の樂亭大鼓の原初の姿は、当地の民歌などの節を基調に三弦を伴奏楽器とする素朴な語り物(174頁)」であった。その後1850年頃鉄板〔ティエパン〕(二枚の半月形の鉄板)が伴奏楽器として加わったのを契機として節がどんどんと創作されていき、現在あるような形態におちついたという。

 本書の目的は、たんに樂亭大鼓の理解にとどまるものではなく、最終的には樂亭大鼓という一事例を通して農村の口承文化に通じる文化特性を明らかにすることにあると著者は述べている。ところでなぜ樂亭大鼓がそのような地平を切り開く可能性を秘めているかについて著者は直接に言及していない。本書を通読しおえて、評者が理解したところによれば、その理由は次の二点にあるようにおもわれる。

ひとつには、この樂亭大鼓というジャンルは、そこで扱う物語を樂亭地方において存在している別のジャンルと共有しているという点。つまり、樂亭大鼓が「隣接ジャンルとの密接な関わりのなかで成立している開かれたジャンル(89頁)」であること。もうひとつには、この共有される物語が樂亭大鼓というひとつのジャンル内においてさえ固定化されているものではなく、一回のパフォーマンスごとに前のパフォーマンスとは微妙に異なる語りを紡ぎだしてゆくという、常に動くという性質を有している点である。

 つまりこのジャンルを「動くもの」という口頭伝承の特質に徹底して焦点を合わせて論じようとしている点で、樂亭大鼓は同じように動いているはずの他のジャンルの問題にも連結される可能性を開くのである。口頭伝承研究が常に「動くもの」の取り扱いに多大なる労苦を重ねてきた経緯を考慮するならば、本書は著者の言明する意図をはるかに越えて、一般の口頭伝承研究にも今後大きな影響を与えるであろう奥行きをもっているといわねばならない。

 本書の構成とその内容については、著者自身が序章と終章において自ら整理しているので、ここでは簡略に各章で焦点を当てているテーマにのみしぼって紹介しよう。本書は二部構成となっており、第一部は外部からみた樂亭大鼓の姿、それに対して第二部は内部からみた樂亭大鼓の姿をそれぞれ描き出している。第一部第一章では樂亭大鼓がいかなる地域的環境のもとに存在しているかについて概説され、第二章では樂亭大鼓がひとつの独立したジャンルとしていかに形成されたかを論じている。そして第三章では樂亭大鼓を一方では曲藝史のなかで、他方では隣接諸ジャンルとの関係性のなかに位置づける試みがなされる。

 続く第二部第四章においては樂亭大鼓の狭義の文字テキストが現実のパフォーマンスに及ぼす影響について述べ、第五章ではあるひとりの藝人の語った二つの上演テキストの比較から「口頭創作」の実態を観察する。そして最終章の第六章ではそれまでの語り論に音楽的側面を取り入れ「パフォーマンス」としての樂亭大鼓に迫ろうとしている。
 著者は第二部において樂亭大鼓というジャンルの「動くもの」としての性格を描き出すことに努めているが、まず押さえておく必要があるのは、樂亭大鼓には語りのもとになる固定的な文字テキストというものが存在していないという事実である。樂亭大鼓というジャンルは短編ものの「小段〔シャオトゥアン〕」と長編ものの「大書〔ターシュー〕」という連続する二つの演目から構成されており、その主要演目は後者の「大書」であるといわれている。そしてこの「大書」の源を「鼓詞〔クーツー〕」という文字テキストに求めることがあるが、それに基づく写本類は藝人のあいだでほとんど伝承されていないのである。

 「小段」は形の整った韻文体で唱われる。ここで唱われる詞は上演によって変化を蒙ることがきわめて少なく固定的であるという。一方「大書」は「死詞〔スーツー〕」(既存の固定したテキスト)と「淌水〔タンシュイ〕」(演唱のなかで即興的に紡ぎだされるテキスト)の二つからなるが、両者は相互に排除しあう関係にはない。「淌水」も固定化されることがあり(実際はかなり多くあるという)、その場合に「淌水」は「死詞」に転化する。第五章のこの議論は、A・ロードのフォーミュラ論を彷彿とさせるものとなっている。

興味深くおもわれたのは、固定した「死詞」のほうが即興の「淌水」よりも高い価値づけが藝人のあいだでなされているらしいことである。つまり、即興性が高いほうが藝人としての個を主張するのによさそうであるが、実際にはそうではないのである。しかし実は「淌水」には韻文の決まり文句も含まれているため完全に個人のものではないとされている。ここでのポイントは、口頭テキストはいつも流動的であるようにみえるが実際はそうではなく固定性もあるということにあり、と同時に、この固定性が流動的であるということにある。

 本書の圧巻はしかし何といっても最後の第六章にあるとおもわれる。なぜなら、従来の中国曲藝史研究は「文学史」と「音楽的曲藝史」という二つの領域に分断されていたが、その分裂をここにおいて統合させる方向性を著者が初めてうちだしたからである。これについては著者が自ら強調する点である。とはいえ、ここで展開されている論は、ラディカルなだけに、将来さらなる展開が望まれるものも含んでいる。

これについて具体的に述べるために第六章の要点に触れておこう。先の「大書」では、表現モードとして唱(うた)と説(かたり)という二つが交互に現れる仕組みとなっている。そして説(かたり)が筋に関わる内容となるのにたいし、唱(うた)は筋には直接関わらない韻文や、登場人物の移動や場面転回、戦闘や緊迫した場面、登場人物の感情移入された独白に関わっているとされる。つまり、表現モードが交代することは、内容上の変化も伴っているということを意味している。

 先に述べたように「大書のテキストはあらかじめ固定しているわけではない(177頁)。」また、「一般的に、藝人は招聘者の意向にしたがって大書の演唱時間を調節しなければならない(同頁)」ということがある。したがってその場合、「藝人はテキストをある程度即興的にその場でつくりだしていくしかない(同頁)」ということになる。にもかかわらず、どの上演も例外なく「かたり」と「うた」の規則的交替がなされるということは、「一定の時間間隔でうたを出そうとすると、うたに特有のテキスト内容がその間隔で配置される(178頁)」ことになる。この結果、「テキストの構成、さらに物語全体の構成がパフォーマンス上の時間上の法則によって決定される、あるいは影響を受けることになる(同頁)。」

 著者は、問題含みとしながらも、これを「過去の研究に対する批判をこめて『テキストに対するパフォーマンスの優位』(179頁)」と当面の結論をつけている。しかしながら、著者が先に上演前の藝人の頭には固定した物語の筋があると述べていることを想起するならば、次のような疑問がわいてくる。すなわち、固定した筋と、パフォーマンスによって変化を蒙った「テキストの構成、さらに物語の構成」というこの二つがどのように絡み合うのかという疑問である。

 著者はこれについて触れていないが、ここまで進めてきた著者の論の延長でおのずと読者に予想されることは次のようなことではなかろうか。すなわち、実際に上演されているテキストには二つの力、すなわち一方ではパフォーマンスがテキストの筋を規定しようとする力、そして他方ではこれとは逆にテキストの筋がパフォーマンスを規定しようとする力の二つが同時に働いているということである。

 ようするに、先の「テキストに対するパフォーマンスの優位」あるいはその逆の見方でも同様この「テキスト」というコトバには、実際に紡ぎだされるコトバと、目には見えないテキストの筋という二つの意味が分かちがたく融合していたために、議論が複雑になってしまたのである。そのように考えると、著者は実際のコトバを生み出すこの二つの力のせめぎあいの様相をどのように記述していくかということを今後の大きな課題として残したといえよろう。

 ところで、このうた/かたりという表現モードの軸と先の死詞/淌水という語りの流動性の軸は互いにどのように動的に絡んでいるのであろうか。興味深い問題であるが残念ながらこれについては本書では論じられていなかった。今後ぜひ展開してほしい議論である。

 さて、本書第二部の「動くもの」をとらえようとするラディカルな論の展開に慣れた目で第一部の記述をふりかえると、どうしても静態的に映ってしまうのは否めない。もちろんこれは著者自身が意識的に取った方法であり、そこには多角的かつ詳細な情報が多く盛り込まれているため、著者のいうように確かに第一部と第二部は互いに補完しあうものとなっている。

 だが、この第一部がもし第二部の後に取り組まれていたとしたら、この第一部はもっとパワーアップされたものになっていたのではないかという気がする。特に第二章のジャンル形成史にそれは直接に反映されたのではなかろうか。つまり、第二部においてパワフルに論じられたひとつのジャンル内での動きを扱う方法論がここで転用されていたならば、このジャンル形成史は今あるような「固定した諸ジャンル間関係」からではなく「動く諸ジャンル間関係」という視点から描き出されたのではないかという気がするのである。おそらくそこでは、対象とした樂亭大鼓というラベルをいったんはがして論を進めることになったであろう。

 これに関連していえば、本書ではこの樂亭大鼓というラベルをはがさずに樂亭大鼓という名前でそのまま終始扱ったために、時々著者の述べているのが命名からみた樂亭大鼓のことなのか、あるいは命名とは関連しない演唱様式や演奏形態からみた樂亭大鼓のことなのか、実際のところその区別をつけることが評者にはやや難しかった。

 本書の提示している論点は以上述べた点に尽きるものではなく、じつに多岐にわたっている。評者は今回触れる余裕のなかった箇所からも多くの示唆と刺激とを受けることができた。そのなかでも、評者自身の研究対象であるモンゴル英雄叙事詩との意外な相似点を見出したことは、評者にとって大きな収穫であった。このあたりのことについては、また別の機会に触れることができればとおもっている。(日本学術振興会特別研究員)

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*HP転載にあたり、通常の改行を空白行挿入とし、漢数字を適宜洋数字に改め、ルビを〔〕で表示しました。また、国立民族学博物館および評者の藤井麻湖氏には寛大なご配慮を頂きました。記して感謝申し上げます。(風響社)


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