書評

『民博通信』87号(1999年10月、国立民族学博物館)

土地所有の政治史 人類学的視点

杉島敬志編  1999年

評者 宮崎 広和(ノースウェスタン大学人類学科講師)




 本書は、1996年10月に行われた国立民族学博物館の特別研究「アジア・太平洋地域における民族文化の比較研究」の第8回シンポジウム「土地所有の政治史」の成果をまとめたものである。編者の杉島によれば、本書の目的は、アジア太平洋地域の植民地統治や近代国家の開発政策を通じて導入された土地所有という概念と周辺地域社会における慣習的な土地制度や土地と人間との関係についての考え方が「せめぎあい、からみあう過程」(12頁)を描き出すことである。本書は、土地という人類学の古い研究分野に文化本質論批判など最新の文化理論の成果を導入する画期的な試みである。

 本書は三部からなり、第一部と第二部は、14人の人類学者の手によるケース・スタディから構成され、クック諸島(棚橋)、フィジー(春日)、ソロモン諸島(関根)、パプアニューギニア(槌谷、林)、ミクロネシア(須藤)、タイ(速水、馬場)、インドネシア(中村、杉島)、マダガスカル(森山、深澤)、インド(田中、杉本)をカバーしている。第三部では、法律学の安田が太平洋諸地域の先住民の土地をめぐる運動に大きな影響を与えているオーストラリアのマボ判決をとりあげ、さらに、経済史の加納と水島が、ジャワの耕地共有制度の解体過程とインドのライヤットワーリー制についてそれぞれ議論を展開し、第一部、第二部で提示された人類学的視点を学際的な立場から相対化するための有意義な視点を提供している。また、やはり第三部に収められた清水の論文は、本書において方法論上の中心課題といえる問題、すなわち人類学的比較研究に歴史的視点を導入する際の諸問題について、議論を深めている。

 杉島が序論で導入する「歴史的もつれあい」という視点は、西洋的な土地所有の概念と非西洋の土地に関する概念といった二項対立にもとづいた分析枠組みで土地問題を理解していく立場への懐疑を出発点としている。こうした分析枠組みとしての「歴史的もつれあい」という観点は、抽象的な概念や本質的なモデル(例えば個人的土地所有、共同体的土地所有といった概念)を使った分析枠組みとは対照的に、具体的な歴史的過程に注目して現実の多様さ、複雑さ、不確定さを強調する。例えば、序論で杉島は、「土地政策が所期の目的とはおよそことなる土地制度をうみだしたり、土地政策によって土地所有制度が確立される一方で、[慣習的な制度としての]土地制度が強化あるいは再興されたり、土地所有制度のなかに土地制度が(あるいは土地制度のなかに土地所有制度が)だまし絵のようにはめこまれているといった、ありとあらゆる逆説的とみえる事象が可能性としてふくまれていることになる」(27頁)と述べている。

このように土地政策が予定されていなかった結果を導いたことは、本書のほとんどすべての論文の共通テーマとなっている。例えば、棚橋によれば、ポリネシアのクック諸島では植民地政府が「本来あるべき」土地所有制度として共同所有を確立するために土地法廷を設立したが、クック諸島の人々はそうした法的手段を逆手にとって、個人の土地権を主張し始め、土地所有は細分化しつつある。また、須藤論文が示すところによれば、ドイツ、日本、アメリカ統治下に様々な土地政策を体験したミクロネシアのヤップの土地制度は確実に変容をとげてきたが、「人と政治を動かす」土地という考え方は依然継続し、ヤップの政治的過程の土台となっている。さらに、インドネシアでは、1960年の土地基本法成立以後、開発と国家の利益が優先され慣習的土地権に圧力がかけられているが、地域によって対応が全く異なっている。例えば、ジャワでは農民主導で慣習的土地権である耕地共有制が廃止された(加納)のに対して、バリでは村落が観光産業の商品として位置づけられることによって慣習的土地権が存続してきた(中村)。

 このように現実の多様さ、複雑さ、不確定性が強調される一方で、本書の多くの論文は、国家、NGO、地域社会がくりだす二項対立にもとづいた本質論的な言説に焦点を当てている。いいかえれば、西洋と非西洋、個人的所有と共同体的所有といった対立を分析の道具として用いるのではなく、そうした対立が様々な立場から発せられる土地に関する語りの中でどのように使用されているかという点に焦点が当てられるのである。例えば、速水によれば、タイの山地民カレンにおいて、焼畑から水田耕作へという生業形態の移行や森林資源開発が進み慣習的な土地制度がゆらいでいるが、カレンの人々は儀礼において共同性を強調する一方、環境NGOやタイ知識人との関係の中でカレンの伝統を環境と一体化したものとして前面に出す語りを紡ぎ出しているという。

 こうした言説の戦略的側面に焦点を当てる議論は、植民地状況、貨幣経済の浸透、国民統合、開発、グロバリゼーションへの対応として、地域社会に生きる人々が「伝統」や「文化」を客体化し、操作可能なシンボルとしてきた過程について議論を深めてきた「伝統の政治」論の延長線上にある(宮崎 1999参照)。伝統の政治論は、創られたものとしての「伝統」や「文化」についての言説をスタティックな本質論の戦略的援用と理解したうえで、それをダイナミックな政治過程・権力関係という文脈に位置づけて分析する。同様に、本書の論者の多くは、実体の伴わない伝統的土地権についての言説を地域社会における政治過程・権力関係・経済的利益の追求という「現実」の産物であると理解する点で一致している。

 もっとも、本書の論者の中には、このように伝統の永続性を強調する言説は実体を伴わず、国家や開発に対する抵抗や対応の戦略として限界があるという立場をとる人もいる。例えば、水島は開発政策に対抗して組織化される周辺の人々の抵抗の言説には「幾つかの落とし穴」(454頁)があると述べる。その「落とし穴」とは、抵抗の言説のなかの「伝統」は「実体」がないこと、「近代」の産物としての「伝統」が「近代」を代表するものとしての開発を「標的にすることはできない」(455頁)こと、そして共同性を守るためのはずの運動が、その運動の担い手間の競合を通じて、共同性自体の崩壊につながることなどであるという。

 事実、馬場論文は、タイ・ルー社会の事例をとりあげ、政治的統合体としての「ムアン」が実体として解体した後も、「想像のムアン」が儀礼の場で継続していたが、儀礼が観光化されることによって、その「想像のムアン」自体も解体していった過程を追っている。また、林もパプアニューギニア高地についての論文の中で、景観に埋め込まれた記憶としての「生きられた空間」は、近年の法廷での土地係争において土地権の主張の根拠として用いられるようになってきたが、他方で森林伐採が進みそうした記憶の基盤としての景観自体に危機が生ずる可能性を示唆している。同様に、抵抗の資源としての伝統の物質的限界を指摘する立場から、田辺は、周辺地域社会は、「何らかの形で現在の政治経済のダイナミズムと『伝統』を結びつけるべく、その概念と装置の再編成を迫られている」(151頁)と結論する。

 伝統の戦略的操作を強調するにしても、その物質的限界を指摘するにしても、これらの論者は基本的に「言説」とその背景にある政治経済過程・権力関係という「現実」との距離を分析の対象とした。しかし、こうした分析枠組み自体に組み込まれた現実把握に挑戦するような状況を指摘する論者もいる。例えば、森山は、マダガスカルのシハナカの人々のアンドレバベと呼ばれる現実の逆の世界としての想像の村落に関する物語を取り上げ、その物語の構造が現在のシハナカの人々が古き良き「失われた過去」と混乱した「現在」とを対比させる語りの構造と似ていることを論じ、現実把握の方法に文化的な形、あるいは制限があることを指摘する。こうした指摘は、翻って人類学分析に埋め込まれた現実把握を非常に特殊なものとして浮き上がらせる。事実、森山は、開発など具体的な政治経済の過程をこうした語りの構造の中に封じ込める人類学お得意の分析作業には無理があることを指摘する。そして森山は、語りの構造自体を歴史的過程の中で理解する必要性を説く。この議論の延長線上には、「言説」と「現実」との距離を分析の対象とする人類学の言説自体を相対化する作業がある。

 また、フィジー人が期待を何度も裏切られながらも繰り返し土地に期待をかける姿を描き出そうとする春日は、エルンスト・ブロッホの「まだない」現実という考え方を手がかりに、フィジー人が「不正な現実」と「あるべき本当の現実」とを対照化させる現実把握の手法こそ、彼らの土地への執着を再生産すると議論する。

 伝統の創造論の立場から、多くの人類学者や歴史家は、植民地政府が構築し植民地の土地制度の理解と土地政策の基盤とした個人的土地所有と共同体的土地所有という二項対立の図式とは違って、「現実」はもっと柔軟であったという理解を共有してきた。また、伝統の政治論の立場でも、実体のない本質論的なモデルは政治過程・権力関係という「現実」において戦略的に用いられる言説であるという理解があった。伝統の創造論や伝統の政治論で想定された現実把握では、現実は間違っているとした上で「あるべき本来の」モデルになみなみならぬ期待を寄せるフィジー人の現実把握を、分析のレベルで正面からすくい上げることはできない。

 この点と関連して、杉島がウィトゲンシュタインやハートに依拠しながら、規則についての「内的視点」と「外的視点」という、ふたつの現実把握の方法について興味深い議論を展開している。杉島によれば、人類学が依拠してきた「解釈による」現実把握のほかに、「解釈によらない」現実把握というものがあるという。本書で多くの論文が想定するシンボルとしての「伝統」や「文化」を戦略的に操作する行為者像は、前者の解釈による現実把握の一例である。これに対して杉島は、フローレスのリオにおいて首長の土地権が存続してきた理由を、リオの人々の戦略的な解釈に求めるのではなく、儀礼の場における首長間の相互承認のような解釈によらない現実把握の仕方に求める。このような指摘は、本書の出発点である「歴史的もつれあい」という視点で想定された、多様で複雑で不確定な現実という現実把握自体を相対化することを要請するものである。杉島の議論をさらに延長するならば、解釈による現実把握と解釈によらない現実把握など異なる現実把握の仕方の相互関係を具体的な語りの中で綿密に追っていくことこそ必要ということなのだろうか。

 このように本書は、土地という具体性を代表するようなものを材料に、国家の言説、辺境地域社会の言説、そして人類学の言説をも相対化し、そうしたそれぞれの言説に組み込まれた現実把握の方法、概念化の方法を浮き彫りにしてくれる。この意味で本書は、土地問題の比較研究に関心のある読者のみならず、人類学理論一般に関心のある読者にとっても、必読の書といえる。

参考文献
宮崎広和
 1999「政治の限界」春日直樹編『オセアニア・オリエンタリズム』、179─203頁、世界思想社。

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*HP転載にあたり、通常の改行を空白行挿入とし、漢数字を適宜洋数字に改めました。また、国立民族学博物館および評者の宮崎広和氏には寛大なご配慮を頂きました。記して感謝申し上げます。(風響社)


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