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台湾原住民研究 7

台湾原住民研究 7

台湾先住諸族の研究誌。漢化と近代化で、消失・変容しつつある多様な文化を考究、紹介。[小特集]ヴィートフェルトの台湾原住民研究

著者 台湾原住民研究会
ジャンル 定期刊行物
シリーズ 雑誌 > 台湾原住民研究
出版年月日 2003/03/20
ISBN 9784938718718
判型・ページ数 A5・280ページ
定価 本体3,500円+税
在庫 在庫あり
 

目次

[小特集]ヴィートフェルトの台湾原住民研究

台湾アタヤル族の経済、法および社会に関する基本的諸事実と根本的諸形態 O・ヴィートフェルト 金子えりか・山田仁史訳
アタヤル文化の停滞の諸原因を探る O・ヴィートフェルト 金子えりか・山田仁史訳

訳注・引用文献 金子えりか・山田仁史
解説 山田仁史
解説 金子えりか
ヴィートフェルトの記述したタイヤル族 山路勝彦

[論文]

女神たちの飛翔、歴史への瘢痕──漢族でもなく、シラヤ族でもなく(3) 山路勝彦
プユマ族の巫師の人生史──トゥマララマオ継承原理をめぐる予備的考察 蛸島 直
『真の魚』『悪い魚』考──「男」「女」に惑わされたヤミの魚分類 森口恒一
アジアにおける民族分布図の発展をめぐって──台湾と呂宋の「先駆」人類学を中心に P・バークレー

[研究ノート・資料・書評]

「パングツアハ族の古い数詞」の伝承 原英子
タイヤル・セデック・タロコをめぐる帰属と名称に関する運動の展開(1)──タロコにおける動向を中心に 原英子
書評 パイワン・ルカイの服飾文化、そして『随書』の流求國 笠原政治
滅び行く民族とモーナルウダオ 三宅宗悦
解説──三宅宗悦博士とその生涯 山本芳美
書評 『名前を返せ』 野林厚志

[エッセイ・報告]

帰国のご挨拶 山田仁史
第四回台湾学会:企画分科会について 清水 純
「桃芝台風」被災地に対する復興支援募金の活動報告 笠原政治
クヴァラン族の「原住民族」認定 清水 純
ヤミ文化に関する次のようなフォーラム 土田 滋
2年間の台湾生活に区切りをつけて 宮岡真央子
ムササビが現れる大学に赴任 山本芳美

[彙報]

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内容説明

かつて「高砂族」と呼ばれた台湾先住諸族の研究誌。漢化と近代化の波に呑まれ、消失・変容しつつある多様なその文化を、人類学の立場から考究、紹介。論文・資料・調査報告・エッセイなどを含む関連情報の拠点。


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小特集・ヴィートッフェルトの台湾原住民研究

解説 山田仁史


はじめに今回の翻訳の経緯を記しておけば、まず金子が下訳と詳細な訳注を作成した。このうち主として前者に山田が全面的に手を加え、さらにいくつかの訳注を追加した。その後、意見・情報を交換しながら加筆・訂正して出来上がったのが、ここに訳出されたヴィートフェルトの二論文である。


論文の著者であるオットー・ヴィートフェルト(Wiedfeldt, Otto Ludwig. 1871生-1926沒)は、ドイツ北部のアルトマルク地方(Altmark)テューリッツ(Th_ritz)に、村の牧師の子として生まれた。まず父親から教育を受け、次いでベルリンで経済学を学び、1894年に博士号を取得の後、Centralblatt f_r Socialpolitik紙編集部に勤務、96年にはザクセン農業組合連合の幹部、97年にはザクセン王国協同組合銀行理事となった。1900年にはエッセン市統計局長、02年にはドレスデン市統計局長を歴任。08年以降ドイツ帝国内務省評議員を務めたが、11年に休職して日本の鉄道省顧問となった。今回訳出された二論文は、この時に書かれたものである。


1914年にドイツ帝国内務省に戻った彼は、第一次世界大戦中「パン配給券」を考案、18年エッセンのFried. Krupp株式会社理事長となり、ヴェルサイユとスパーでの講和会議に参加。19年から22年はエッセン市商業会議所長、22年から24年には駐ワシントン大使を務め、その後はFried. Krupp株式会社監査役の一員であった(Anonymous 1999)。

中略


思想史についてはこのくらいにして、次に欧米における台湾原住民研究史(第二次大戦後については、ここでは触れない)1の中でのヴィートフェルトの位置を手短に見ておくことにしよう。


17世紀にスペイン人やオランダ人の手によって台湾原住民の習俗や言語が記録されたが(cf. Terrien de Lacouperie 1887; 伊能 1928; 浅井 1953; de Beauclair [1970]1986; Dyen 1971: 171-176; 李壬癸 1975; ダニエルス 2001)、欧米人による本格的な学問的研究が始まったのは、19世紀半ばになってからである。


ことに1860年の北京条約で台湾の諸港が開かれて後、1895年に日本による統治が始まるまでの間に台湾を訪れた様々な分野の人々は、この島のオーストロネシア系住民に関する貴重な記述を残してくれた(cf. Carrington 1977; 劉 1989, 1993; Zheng 1998; 呉 1999, 2001; Harrison ed. 2001)。たとえば、イギリスの博物学者スウィンホー(Swinhoe, Robert)(cf. 張 1994)とコリンウッド(Collingwood, Cuthbert)、ドイツの医師シェテリヒ(Schetelig, Arnold)、アメリカの将軍ルジャンドル(Le Gendre, Charles W.)、淡水英国領事テインター(Taintor, Edward C.)、アメリカの動物学者スティア(Steere, Joseph Beal)、英国人写真家トムソン(Thomson, John)、ロシアの海員イビス(Ibis, Paul)、スコットランドの茶商ドッド(Dodd, John)、ドイツの民族学者ヨースト(Joest, Wilhelm)、鵝鑾鼻の英国人灯台守テイラー(Taylor, George)(cf. 1999)、ドイツの植物学者ヴァールブルク(Warburg, Otto)、カナダ人宣教師・医師マッカイ(Mackay, George Leslie)、英国人ICMC(Imperial Chinese Maritime Customs Service)ピカリング(Pickering, William A.)などが挙げられる。


この時期は、言語・形質・文化などを基準としながら、台湾原住民族と台湾外の諸民族の系統関係が盛んに論じられた時期でもあった。ウィーンの民族学者・民俗学者・インド学者であったハーバーラントは、その論点を次のように要約している。つまり、台湾の原住民を研究した言語学者・民族学者たちの大多数(たとえばスウィンホー、テインター、ドッド、ヴァールブルクなどなど)は、この原住民がマレー系であると考えた。それに対しシェテリヒは奥地の諸民族が非マレー的(ネグリート的)特徴を持っていると主張した。そしてアミー(人名!;Hamy)は後者の見方を受け入れ、発展させたのであった(Haberlandt 1894: 184)。


日本統治期(1895-1945)には、台湾原住民研究の主流は日本人によって担われることになったが、欧米人学者・外交官らによる報告や研究(後述のほかSchuhmacher 1898; Arnold 1909; M_ller 1910; Rutter 1923; _lvarez 1915, 1927, 1930; Haguenauer 1929, cf. 1977)が引き続き発表されたほか、日本人が欧米の言語で著した出版物または日本人の業績の翻訳・紹介(後述のほかYamasaki 1900, 1901; Takekoshi 1907)も、西洋の学界に貴重な情報を提供することになった。ヴィートフェルトの二論文も、この時期に属するものである。……後略


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執筆者紹介
金子えりか(かねこ えりか)
山田仁史(やまだ ひとし) 京都造形芸術大学非常勤講師・京都大学人文科学研究所研修員
山路勝彦(やまじ かつひこ) 関西学院大学社会学部教授
蛸島 直(たこしま すなお) 愛知学院大学文学部教授
森口恒一(もりぐち つねかず) 静岡大学人文学部教授
P・バークレー(Paul D. Barclay) ラファイエット大学歴史学部
原 英子(はら えいこ) 岩手県立大学盛岡短期大学部国際文化学科助教授
笠原政治(かさはら まさはる) 横浜国立大学教育人間科学部教授
野林厚志(のばやし あつし) 国立民族学博物館民族学研究開発センター助手
山本芳美(やまもと よしみ) 都留文科大学比較文化学科講師
清水 純(しみず じゅん) 日本大学経済学部教授
土田 滋(つちだ しげる) 帝京平成大学教授
宮岡真央子(みやおか まおこ) 東京外国語大学大学院地域文化研究科博士後期課程

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