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砂糖と移民からみた「南洋群島」の教育史

砂糖と移民からみた「南洋群島」の教育史

サイパン、パラオなどの「島民」や邦人の教育を通し、統治と人々の暮らしを描く「南洋群島」の実像

著者 小林 茂子
ジャンル 歴史・考古・言語
シリーズ 風響社ブックレット
風響社ブックレット > 植民地教育史ブックレット
出版年月日 2019/03/15
ISBN 9784894894099
判型・ページ数 A5・74ページ
定価 本体800円+税
在庫 在庫あり
 

目次

一 太平洋の島々――くらし、歴史、日本との関わり
 1 「南洋群島」とは?
 2 海に生きる人たちのくらし
 3 ヨーロッパ人との出会い
 4 南洋群島の日本人移民
 
二 砂糖と移民の島・南洋群島
 1 砂糖王(シュガー・キング)・松江春次
 2 サイパン製糖工場
 3 沖縄県出身者への差別
 4 移民体験者の声
 5 漫画「冒険ダン吉」と歌謡曲「酋長の娘」
 
三 二つの教育体系――現地児童と日本人児童のための教育
 1 南洋庁設置以前(1914年から1922年)――軍政時代の教育
 2 南洋庁設置以後(1922年から1945年)――委任統治による教育
 3 現地児童の教育
 4 日本人児童の教育
 
四 南洋群島は「海の生命線」
 1 国際連盟からの脱退
 2 「皇民化教育」
 3 日米開戦前夜――戦時下の教育
 4 アジア太平洋戦争の開戦
 5 米軍のサイパン、テニアン両島の上陸
 6 民間人捕虜収容所での生活・教育
 
五 戦後のミクロネシア――おわりに
 1 国連信託統治領
 2 原水爆の実験場
 3 アメリカのミクロネシア統治
 4 ミクロネシアに対する戦後補償問題
 5 独立への歩み
 6 日本とミクロネシアのつながり
 
あとがき
引用・参照文献
参考文献

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内容説明

サイパン、パラオ、ポーンペイなどの島々からなるミクロネシアは、戦前、日本の統治下にあった。製糖など新産業によって移民をひきつけ、最盛期には日本人が10万人ほども暮らす地域となる一方で、「海の生命線」とも呼ばれ、やがて太平洋戦争の熾烈な戦いの舞台となる。本書は、「島民」や邦人の教育を通し、統治と人々の暮らしを描く「南洋群島」の実像。

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    本書より




 日本は第一次世界大戦が始まると、日英同盟を理由にドイツに宣戦布告し、一九一四年赤道以北のドイツ領を占領しました。海軍はマーシャル諸島のヤルートに始まり、東カロリン諸島のクサイ、ポナペ、トラック、西カロリン諸島のヤップ、コロール、アンガウル、マリアナ諸島のサイパンの各島々を次々に支配下におさめ、軍政(軍隊による政治)をしきました。戦闘などまったくない、無血の占領でした。さらに大戦後一九一九年に、パリ講和会議で旧ドイツ領は、国際連盟の委任統治領「南洋群島」として、日本が正式に統治することになりました。一九二二年四月、パラオ諸島コロール島に、南洋群島の統治機関として南洋庁をおき、委任統治を始めたのです。こうして日本は、アジア太平洋戦争に負けるまで、約三〇年間南洋群島を支配することになりました。

 ではこの三〇年間に、南洋群島にはどれくらいの日本人が渡っていったのでしょうか。現地住民人口との対比でみてみましょう。

 統計によると、南洋庁がおかれた一九二二年では、現地住民四万七七一三人、日本人(朝鮮人を含みます。以下同様)三三一〇人の計五万一〇八六人でした。それが、一九三五年には、現地住民五万五七三人、日本人五万一八六一人と日本人の方が多くなり、アジア太平洋戦争が始まった一九四一年には、現地住民五万一〇八九人、日本人九万七二人、計一四万一二五九人にまで膨れ上がりました(表1)。そして、南洋群島では日本人人口の半数以上が、沖縄県出身者であったという特徴があったのです。

 一九三〇年代のサイパン島ガラパンの町は、こんなふうににぎわっていました。

 この町には、役場、郵便局、公会堂、警察、裁判所といった公共施設はもとより、幼稚園から実業学校、高等女学校までの教育機関が整えられていた。思いつくままにあげるだけでも、八百屋、豆腐屋、電気屋、薬局、寿司屋、デパートなどの商店が建ち並び、銭湯もあれば葬儀社もある。映画館が二軒、新聞社も二社あって、さかんに競合し、通りを走る自動車の数は、一九三七年(昭和十二年)で百十三台にのぼった。さながら、内地の新開地そっくりそのまま移転させたような町並みが続いていたのである[野村 二〇〇五:一一一]。

 このサイパン島の北ガラパン二丁目通りは、「ガラパン銀座」と呼ばれ、南洋群島最大の繁華街であったそうです。
このように南洋群島は、現地住民のほかに多くの日本人(朝鮮人、台湾人、樺太人を含む)が来て、複数の民族が集まったところでした。このようななか現地住民であるチャモロやカロリニアンの子どもたちに対してはどんな教育が行われていたのでしょうか。また、日本人の子どもたちはどんな学校へ行ったのでしょうか。そして朝鮮人や台湾人などの子どもたちはどうしていたのでしょうか。

 ここでは、主に南洋庁がおかれた時期を中心に、南洋群島で行われていた教育について考えてみたいと思います。小さい南の島々で当時の子どもたちは、どんな思いを持ちつつ、学校生活を送っていったのでしょうか。そこにはどんな教育の考え方があったのでしょうか。それらを知ることは、日本とミクロネシアとのつながりについて知ることであり、現在のミクロネシアへの関心を深めるきっかけにもなるのではないかと思います。


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執筆者紹介
小林茂子(こばやし しげこ)
1956年生まれ。
2006年、中央大学大学院文学研究科(教育学専攻)博士後期課程修了。博士(教育学)。
専攻は南洋地域の教育史、沖縄移民史研究。
現在、中央大学、東洋大学、実践女子大学非常勤講師。
主著書として、『「国民国家」日本と移民の軌跡:沖縄・フィリピン移民教育史』(学文社、2010年)、『越境と連動の日系移民教育史:複数文化体験の視座』(ミネルヴァ書房、2016年、共著)、論文として、「1930年代後半南洋群島における公学校教育の果たす役割:「体験記」からみた日本人教員の教育活動を手がかりに」(『移民研究年報』23号、2017年)、「南洋群島における日本人小学校の教育活動:南洋庁サイパン尋常小学校保護者会誌『さいぱん』(1935年)をもとに」(『海外移住資料館 研究紀要』10,2016年)、「開戦前後におけるマニラ日本人小学校にみる教育活動の変容:発行された副読本と児童文集を手がかりに」(『日本研究』50集、2014年)、「マーシャル諸島・スタディツアーに参加して:ビキニ事件から太平洋諸島地域へ関心を広げる」(『立命館平和研究』14号、2013年)、「旧南洋群島公学校補習科教科書『地理書』をめぐる諸問題:委任統治政策との関わりにおいて」(『植民地教育史研究年報』14号、2012年)など。

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