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越境するアイデンティティ 32

黒タイの移住の記憶をめぐって

越境するアイデンティティ

歴史に蹂躙されたベトナムの少数民族として、世界に離散した黒タイ。それぞれの自己認識・歴史の違いを見つめ、民族とは何かを問う。

著者 岡田 雅志
ジャンル 人類学
シリーズ ブックレット《アジアを学ぼう》
出版年月日 2014/10/25
ISBN 9784894897731
判型・ページ数 A5・54ページ
定価 本体700円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

一 黒タイの移住史──リージョナルな移動からグローバルな拡散へ
 1 黒タイの移住伝承と近世における流動化
 2 インドシナ戦争と黒タイの拡散
 3 もう一つの「黒タイ」移住史―タイソンダムの記憶

二 仏教の国の黒タイ――タイソンダムのアイデンティティ
 1 移住の記憶を求めて
 2 マスメディアと黒タイ・イメージ

三 つながり合う黒タイ・コミュニティとアイデンティティのせめぎ合い
 1 経済発展の時代の民族表象
 2 サイバー・スペースと民族アイデンティティ──競合から語らいへ

おわりに

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内容説明

民族のアイデンティティは一つか
多難な歴史に蹂躙されたベトナムの少数民族として、今や世界に離散した黒タイ。それぞれの自己認識・歴史の違いを見つめ、民族とは何かを問う。

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 はじめに、より

 黒タイは、現在ではベトナム国家の少数民族という位置づけだが、かつては山間盆地毎にムアンと呼ばれる小政体を数多く建設し、それぞれが独立を保っていた。ところが、後に見るように、近世以降の歴史の変動の中で、彼らの一部は従来の居住地から離れ、新たな環境下で生活を送ることになる。私は黒タイの歴史を研究してきたが、彼ら自身が独自の文字を持ち、少ないながらも史料は残しているものの、多くの部分は、他者が残した史料や、口承に頼らざるをえない。その中でどのように彼らの歴史を描き出せるのか、あるいはそもそも歴史研究において黒タイを対象化することができるのかが常に大きな課題として立ちはだかってきた。というのも、彼らの過去を研究し、その成果を記述する際、現在とは、民族集団への帰属意識やその中身のあり方が異なるにもかかわらず、現在の民族集団のラベルを用いざるをえない場合があるからである。たとえば、ベトナム西北地方には、黒タイ以外にもタイ系の言語を話す民族集団が多くいるが、前近代のベトナム史料(大半が漢文で書かれている)では、北部山地で定着農耕を行っている住民については「土人」(土着の人の意味)というカテゴリーで一括しており、それ以上の分類はされていない(後から移住してきた住民については儂人、蛮人などと呼び区別。これらは王朝が辺境地域の住民を特に税金徴収の際に便利なように弁別した区分である。一八五六年の『興化記略』においてはじめて黒タイ、白タイの表現が出てくる)。現在のベトナムの民族分類は、言語・文化習慣・アイデンティティなどに基づき研究者が分類を行い、政府が公的なカテゴリーとして採用しているものであるが、右のベトナム史料に現れる「土人」という「民族」呼称は集団の文化的差異には無頓着な便宜的カテゴリーといえる。一方、現在の民族分類が客観的で正確なものかと言えばそうではない。現在のような民族分類は、ベトナムがフランスにより植民地化されてゆく過程において、多くの探検家や植民地官吏が残した民族誌が下地となっている。それらは、異国の住民を外見的特徴や言語・文化習慣によって分類し、ラべリングをしてゆこうとする考えに基づいて記述されており、その背景には、「近代的知の下」で全ての事象やモノを分類し、把握できるようにしてゆこうとする当時の思想の存在がある。

 ただ、政治権力がそのように分類したからと言って、分類された側が権力側の認識を自動的に受容するわけではない。人類学者の内堀は、ある集団が、国家あるいはその他の他者からラベルを貼られ(「名づけ」られ)ることに対して、自分達の存在を主張するために自らの集団の「名乗り」を上げ、この「名づけ」と「名乗り」の双方向の行為の上に、民族意識とその境界が生成されるとする[内堀 一九八九]。黒タイについていえば、現在のベトナム政府による公式民族分類では、ターイ族というカテゴリーに分類され、国民IDカードにもその民族名が記載される(この国家による民族分類は①言語的特徴、②生活・文化的特徴、③民族アイデンティティの三つの指標に基づいて実施されている[樫永 二〇〇四:一六二])。ただし、ターイ族は白タイなど他のタイ系集団を含んでおり、黒タイは、ターイ族の中の下位分類としての地方集団と位置づけられるというのが、政府の公式見解である。黒タイや白タイという集団についても、自意識の上で、最初から明確に境界が区別されているわけではない。黒タイ文字で書かれた年代記においては、自分達のことを「黒タイ」と記述することはほとんどなく、多くは「われわれ」もしくは「タイ」と記すのみである。そこに、フランス人民族学者が差異を見いだし(実際には先に述べた通り、それ以前からベトナム人によって黒タイ、白タイという民族集団の差異が認識されている)、その分類に基づく統治が行われる中で、住民たちの間でも自身の民族カテゴリーを意識するようになると同時に、異なる民族カテゴリーに属する周囲の人々の間との差異を強く認識するようになっていったと考えられる。さらに、植民地政府が民族間の反目を煽ることによって植民地支配をやりやすくする民族分断政策を採ったことによって、両者の民族意識の境界が政治的にも強化されていった。いずれにしても、近代国家がその自身の領域(と信じる空間)を支配するために、その空間内の住民を分類し、認識しようとする営みの中で形成されたこのような民族意識については、どこか息苦しさが感じられる。

 私が現地調査を行ったムアン・ローには白タイ、黒タイの双方が居住しているが、日常生活の中で、白タイ、黒タイの境界を明確に意識しているかといえば疑問である。あなたは白タイか黒タイかと尋ねれば、どちらかの答えが返ってくるが、「あなたは何民族ですか」(ベトナム語の表現上、かなり直接的な質問となる)と聞いた場合には、公式分類の「ターイ族」と答えるか、「タイ・ロー(ムアン・ローのタイ)」だとの回答もかなりの割合で出てくる。また、同じ質問であっても誰が何語で問いを発するかによっても答えは変わってくるだろう。このように、民族集団への帰属意識(エスニック・アイデンティティ)とは非常に多層的であり、状況に依存する曖昧なものである。このように政治性を持ち、なおかつつかみどころのない民族という集団の過去を研究の対象とすることは非常な困難を伴う作業である。近代のフィルターを通さずに彼らを対象化できるのか、もし、それが可能であったとして、現在の彼/彼女らの民族意識やそれを支える歴史認識とのズレがある場合、その結果をどのように提示すべきなのか、あるいは、そもそも第三者である著者にそのような権利があるのか、ということが問題となってくる。エスニック・アイデンティティを形成する上で非常に重要なのは歴史的記憶の共有であるが、過去の記憶というものも、それが民族の占有物とされた瞬間に一つのイデオロギーとなるのであり、集団内部あるいは外部との権力関係などの影響下で、極めてダイナミックに変化しうるものである。第三者が彼/彼女らの歴史を記述するということはそれだけセンシティブな事柄なのである(たとえば、アメリカ人研究者に、江戸時代には現在でいう意味での日本人などというものは存在していなかった、と言われた場合に我々はどのような感情を抱くだろうか)。

 こうした議論は人類学を中心に長期にわたって議論が続けられ、いまだに結論が出ているわけではない。私はこのような議論に参加する能力も意志もないが、「少数民族」とされている人々を研究対象としている人間として、自分なりの答えを出す必要があると考えてきた。そこで注目したのが、越境移住という事象である。現在、自らを黒タイだと考える人々はベトナムだけでなく、世界中に存在している。彼/彼女らは、自分達の過去の記憶をどのようにとらえ、アイデンティティを形成しているのだろうか。また、国境を越えてそれぞれ異なる環境の下で生活をしている彼/彼女らが有するアイデンティティは果たして一体的でありえるのか、もし、お互いの民族意識や歴史認識に差異や矛盾がある場合にそれをどのように認識し、乗り越えているのだろうか。こうした彼ら自身のアイデンティティのゆらぎをめぐる対応に、「民族の過去を語る」上での問題に答えを見いだすヒントがあるのではと考えたわけである。

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著者紹介

岡田雅志(おかだ まさし)
1977年、大阪府生まれ。
大阪大学大学院文学研究科文化形態論専攻博士後期課程修了。博士(文学)。
現在、大阪大学助教。
主な論文に「タイ族ムオン構造再考―18-19世紀前半のベトナム、ムオン・ロー盆地社会の視点から」(『東南アジア研究』第50巻1号、2012年)などがある。

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