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台湾における民衆キリスト教の人類学

社会的文脈と癒しの実践

台湾における民衆キリスト教の人類学

東アジア比較の視点で、台湾のキリスト教布教の実際を分析。真耶穌教会の事例から民衆キリスト教に共通する「癒し」の位相を探る。

著者 藤野 陽平
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2013/02/20
ISBN 9784894891869
判型・ページ数 A5・400ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

序論 宗教人類学と東アジアのキリスト教
 一 はじめに
 二 キリスト教・人類学・植民地主義──近代化・文明化・福音化理論と東アジア
 三 調査地台湾という場所
 四 本書の構成

第Ⅰ部 台湾の民衆キリスト教という世界

第一章 先行研究の批判的検討
 一 文化人類学におけるキリスト教研究とその問題点
 二 宗教研究における癒しと治し
 三 台湾の宗教研究における民俗宗教・民間信仰論
 四 目的・対象・方法
 五 調査地台湾

第二章 台湾におけるプロテスタントの歴史的展開
 一 台湾のキリスト教の略史と問題設定
 二 台湾基督長老教会(The Presbyterian Church in Taiwan)
 三 台湾聖教会(荷里寧斯、ホーリネス、Taiwan Holiness Church)
 四 真耶穌教会(真イエス教会、 True Jesus Church)
 五 召会(教会集会所、小群、Little Flock、地元にあって合一である立場に立つ教会)
 六 分析
 七 おわりに

第Ⅱ部 真耶穌教会の信仰世界

第三章 真耶穌教会概要
 一 はじめに
 二 歴史
 三 組織
 四 礼拝・諸儀礼
 五 おわりに

第四章 真耶穌教会における奉献行為とその構造
 一 はじめに──市場経済化と宗教の問題
 二 献金と奉献行為
 三 考察──奉献行為にみる心的ロンダリングの構造
 四 おわりに

第五章 真耶穌教会信者の言説にみる福因論
 一 はじめに
 二 言説分析
 三 分析
 四 おわりに

第六章 真耶穌教会における民俗的健康観
     ──生活者の視点からの健康研究にむけて
 一 はじめに──生活者の健康観研究にむけて
 二 事例研究
 三 分析
 四 おわりに

第七章 宗教と高齢社会に関する一考察
     ──真耶穌教会における老人会を事例として
 一 はじめに
 二 台南地区、以諾団契
 三 分析
 四 おわりに

第八章 真耶穌教会における癒しの体験談とその構造
 一 はじめに
 二 言説分析
 三 分析
 四 おわりに

第Ⅲ部 癒しの局面にみる民衆キリスト教の諸相

第九章 長老教会にみる主流派プロテスタントの現代的展開
     ──ペンテコスタルな実践を巡って
 一 はじめに
 二 長老教会の現状とP教会
 三 ライフヒストリー
 四 ペンテコスタルな諸活動
 五 分析
 六 おわりに

第一〇章 台湾ホーリネス教会における癒しの経験
     ──体験談の分析から
 一 はじめに
 二 ホーリネス教会について
 三 言説分析
 四 比較と分析
 五 おわりに

終章 分析と結論
 一 台湾から眺めるキリスト教ミッションと東アジアのキリスト教
 二 民衆キリスト教にとっての癒し
 三 今後の課題と展望

あとがき
初出一覧

資料
参考文献
索引

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内容説明

宗教実践の理解なくして、人びとの信仰の意味に迫ることは出来ない。東アジア比較の視点で、台湾のキリスト教布教の実際を分析。真耶穌教会の事例から民衆キリスト教に共通する「癒し」の位相を探る。

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序論 宗教人類学と東アジアのキリスト教

 

一 はじめに

 台湾には様々な宗教が存在し、これまで宗教学や人類学、歴史学等多くのジャンルから研究されてきた。本書もそうした一連の台湾の宗教研究に位置づけられるのだが、キリスト教のプロテスタントを対象とする研究は管見ではみられない。世界中に展開しているキリスト教と同様、台湾にも数多くのプロテスタント教派が活動している。しかし、台湾の教会を訪問すると、その独自のありかたに戸惑うことが少なくない。
 例えば台湾におけるプロテスタント最大教派は台湾基督長老教会(以下、長老教会)であるが、ごく少数の教会を除いて長老教会では台湾語と呼ばれる言語(北京語・中国語とは異なる)を利用して礼拝をする。これが日本で多少北京語を学んできたものには第一の戸惑いとなる。賛美歌などには台湾語のローマ字表記が併記されていることが多く、それを利用すれば意味は分からなくても発音は分かりますという説明を受けるのだが、実際にそのローマ字を利用して発音しようとしても、その表記法についてある程度のトレーニングを積んでいない人には、どうしてその表記がその音になるのか、皆目見当もつかない。
 とはいえ、礼拝自体は世界的に同様の次第で進んでいくので、キリスト教の教会に通った経験のある人であれば、周りの人の動きをみていれば今何をしているのかはおおむね理解できる。
 問題は礼拝後である。筆者が調査を実施したころの台湾には、日本統治期に教育を受けたお年寄りで当時も日本に愛着があり、日本語で会話することを楽しみとする人たちがいた。長老教会は特にそういう人が集まる教会である。それ故に訪問者が日本人と分かれば、礼拝が終わると同時にこうした人々に取り囲まれ、熱烈に歓迎され、ともに昼食を食べようということになることが多い。国外の教会を訪れてまさか日本語で歓迎されることなど思いもしていないだけに、感激すら覚えることもあるのだが、しばらくすると会話の内容はきな臭い方向へ進んでいく。
 例えば彼らの多くは高齢者であるので、「外労」とよばれる外国人のお手伝いさんを連れていることがある。その人が中国人であったりすると、日本語で「あの人は中国人だから私たちは信用していない。中国人と一緒ならば天国になど行きたくない」というような話になる。その際には中国人に対して現在の日本では差別語として利用されなくなった言葉で罵倒する。長老教会は後述するように、台湾の独立を望む人が多い教会である。彼らにとって親日的であることは反中国の表現法でもあるためにこういったことが起こるのである。
 これは筆者が台湾の長老教会に通い始めたころに実際にあった出来事である。そして、台湾の教会を訪問した日本人のキリスト教徒は似たような経験をすることが少なくない。彼らがそのような意見を持つに至ったことにはそれ相応の歴史的背景があり、筆者はそのことの善し悪しを判断しない。いずれにせよ、教会を後にして感じる違和感は台湾社会についての知識が少なければ少ないほど大きくなる。
 真耶蘇教会も外部の人間からみて異色である。まずはその祈祷の方法である。床に跪き「ハレルヤ・ハレルヤ」と連呼するうちに聖霊が降臨し、何をしゃべっているのかわからない言葉(「霊言」と呼ばれる)を話しだし、手が震える状態になる。これはペンテコステ派の他の教派でみられる「異言」に似ているが、彼らはその方法は異なると考えている。真耶蘇教会はペンテコステ派に位置づけられるが、自らの教派を真の教会し、教義の異なる他の教会は堕落していると考えるために、他の教派とは交流がない。また聖霊が降臨している状態になれば、聖書に記されているような様々な奇跡が起こると考え、それゆえに病いが癒されたという語りを数多く聞くことができる。
 真耶蘇教会については本論で詳細に述べるので、ここではこの程度にしておくが、問題は、なぜ台湾のキリスト教が不思議にみえるのかということである。文化相対主義をとる文化人類学の視点からとりあえずの答えとしては、何らかの対象が不思議に見えるとするならば、それは部外者が内側の論理を無視して外からみた視線が持つステレオタイプかもしれない。不思議なものに出会ったと感じたということは、逆にそれを不思議と感じる自分の価値観の方がおかしい可能性がある。台湾のキリスト教について調べを進めていくうちに、長老教会に集まるお年寄りの親日反中の感情も、真耶蘇教会で繰り返される癒しの実践もある程度までは理解することができる(ある程度と言ったのは完全なる異文化理解ができるという知の暴力的傲慢から身を置きたいと考えているからである)。そこで本書では真耶蘇教会の癒しの実践について、文化人類学的手法にもとづいた民族誌的記述を通じて、「台湾の不思議なキリスト教」の不思議さを払拭することを目的の一つとする。


二 キリスト教・人類学・植民地主義──近代化・文明化・福音化理論と東アジア

 ここで文化人類学がキリスト教を取り扱うことの意義を確認しておきたい。これまでの宗教人類学の研究成果では、非西洋諸国が植民地化される過程で近代化(文明化)イデオロギーがキリスト教化(福音化)と結びついていたということを指摘してきた。また、キリスト教ミッションは植民地主義だけではなく、人類学とも密接な関係にあった[杉本編 二〇〇二a:二〇]。こうしたキリスト教と植民地主義の特別な関係は人類学者の研究対象となり続けた。例えば橋本和也は、フィジーのキリスト教を植民地経験という観点から多元化や土着化の概念を援用して現地の文化との関係性を考察し[橋本 一九九六]、杉本良男は、キリスト教の受容を文明化論と関連づけて考察を続け、「福音化」の視点を提示した[杉本編 二〇〇二a、二〇〇二b]。
 文明化や関連する用語の定義は大塚和夫がまとめている。そこでは文化(culture)は「自然」、「本能」などに対置される概念で、文明(civilization)は「未開」、「野蛮」、「蒙昧」等と対置されている。さらにcivilizationは未開・野蛮な社会や人々をcivilizeする過程をさす動態的な概念でもあり、文明化といった際には「普遍主義」、「普遍化志向」があるという[大塚 二〇〇二]。
 こうした権力と宗教の問題に関する研究動向と関連して、マイノリティがキリスト教を受け入れて、それが新たにエスニック・アイデンティティの一部となる事例も報告されている。つまり、非キリスト教徒であるマジョリティに対して、キリスト教のもつ「先進的」で「近代的」というイメージを利用し、自分たちマイノリティこそが優位にあるとする対抗手段にしている[曽 一九八九、秀村 二〇〇五]。片岡は、タイの山地少数民族ラフのキリスト教徒を仏教徒である国王に迎合すると同時に独自の文化を有する民族集団として顕在化させ、一方で、国際的なキリスト教共同体に参加することで、ラフが劣位におかれながら外部の優越者と関係を確保している状況を報告している[片岡 二〇〇六:二九七─三三五]。
 このような文明化・福音化・植民地化が同時に起きるという現象は世界中の広い地域でみられる。この点でこれらの研究は大いに評価し、世界的なキリスト教の展開を考える際に参考とするが、筆者が扱う東アジアでは部分的にしかあてはまらない。韓国のキリスト教を研究する秀村は、このことを指摘しているが[秀村 二〇〇二]、積極的には論点として設定していない。本書で筆者が強調したいのは、東アジア、特に本書の事例である台湾における近代化に影響を与えた主体は、西洋によるキリスト教だけではなく、非キリスト教国であった当時の日本による植民地経営も存在している点で、それ以外の地域とは全く異なるということである。
 単純化して言えば、「近代化・文明化・福音化」というセオリーが台湾や朝鮮半島では「近代化・文明化・皇民化」であったということになるであろうか。「中国化」という形で「文明化」を既に「達成」していた東アジアで、キリスト教国ではない日本によって植民地経営がなされたのである。そうした中でキリスト教を考えることは、これまでの議論のよき比較対象となり、近代化における宗教の役割を相対化させ立体的に浮き上がらせることができる。本書では東アジアという文脈で文明化・福音化・植民地化の関係性を考察する。
 こうした視点に先立つ研究には寺田勇文らの共同研究があげられる。寺田らは日本占領期のインドネシアとフィリピンにおけるキリスト教について考察したが、そこではキリスト教が抵抗と屈服を使い分け、日本軍も柔軟に宣撫工作を行っていたことが明らかになった。フィリピンでは単純化できない複雑な状況が生まれていたという。東南アジアで唯一のキリスト教国であるフィリピンはキリスト教と植民地主義を考察する上で重要な事例である[寺田 二〇〇一]。しかし、ここでの議論を無限定に一般化することはできない。例えば台湾の日本統治は五〇年に及ぶが、日本がフィリピンを統治した一九四一年から四五年の五年間は、戦時下という特殊な時期であり、この時期だけをみて日本の植民地統治を考察しても、限定的な結論しか導けないだろう。また、台湾の日本統治は総督だけをみても武官総督(一八九五─一九一九)から文官総督(─一九三六)を経て、再び武官総督(─一九四五)が就任しているが、これは日本国内の情勢を反映している。比較的長い時期の台湾と短いフィリピンでは、同じ日本統治下といってもキリスト教の展開には、異なる要因も働いているのである。
 また、キリスト教国であるフィリピンはキリスト教が日本統治への対抗軸となりえたが、道教や仏教に基礎を置く民間信仰の強い台湾の宗教界でキリスト教はマジョリティの宗教ではなく、第三者として位置づけられる。このように、同じ日本による同時期の植民地化であっても社会背景を考慮しなければ正確な研究は難しい。例えばサイードのオリエンタリズム理論は現代思想に大きく影響を与えたが、バックボーンとなる中東社会と東アジアとでは社会関係も違えば、抱えている問題も異なる。社会的文脈や歴史性などを無視して理論だけをぶつけ合うような方法には抵抗を感じざるを得ない。これまでのポスト・コロニアリズム研究者がどういった社会背景から発言しているのかをふまえた上で、東アジアの事例とは何が同様で、何が異なるのか、その結果、どういった理論のどの部分までならば援用できるのか考える必要がある。そのことを考えなければ、理論研究が進めば進むほど現実と乖離する結果となるだろう。これは理論軽視ということではない。むしろ、これまでの理論を厳密に利用する方法である。先行する理論研究を厳密に利用し、それに対して現地での情報から、新たな理論構築を目指すこととなる。

三 調査地台湾という場所

(中略)

四 本書の構成

 以下に本書の構成を示す。本書は三部と結論からなる。第Ⅰ部「台湾の民衆キリスト教という世界」では、文化人類学とキリスト教の関係や、台湾社会におけるキリスト教の位置づけなどを概説する。第一章「先行研究の批判的検討」では先行研究の批判的検討と調査地台湾の概要を述べた上で、文化人類学的にキリスト教を扱うことや、それを非欧米出身の人類学者が取り組むということの意義を指摘する。第二章「台湾におけるプロテスタントの歴史的展開」では台湾のプロテスタントの教派を概観する。その際に、北京語を使う国語教会と台湾語を使う台湾語教会という座標軸のほかに、中国、台湾で成立発展した独立教会とミッション系の教会といった二つの座標軸があることを指摘する。
 第Ⅱ部「真耶穌教会の信仰世界」では、癒しの局面に焦点を当てて真耶蘇教会の信仰世界の考察を行う。第三章「真耶穌教会概要」では真耶穌教会の歴史や教義、各種の儀礼などの概要を示した。第四章「真耶穌教会における奉献行為とその構造」では、真耶穌教会における奉献行為と資金の流れをおさえ、その行為が単に神への感謝によって捧げられるものというだけではないことと、奉献行為の構造を考察する。第五章「真耶穌教会信者の言説にみる福因論」では災因論研究に比べて取り上げられることが少ない福因論に注目して、民俗的健康観の一局面を考察した。第六章「真耶穌教会における民俗的健康観──生活者の視点からの健康研究に向けて」では真耶穌教会の信者における癒しの体験談から台湾のキリスト教における民俗的健康観を考察した。健康観のような民俗的知識は、行政や学術的に「客観的」に決められるというよりも、社会的な文脈に沿って生活者のリアリティから提示するべきと考えて、台湾の宗教的な場における民俗的健康観に相当する「平安」という概念を考察した。第七章の「宗教と高齢社会に関する一考察──真耶穌教会における老人会を事例として」では、高齢社会での宗教のあり方の一つをフィールドワークで得た知見をもとに提示した。第八章「真耶穌教会における癒しの体験談とその構造」では、真耶穌教会信者が語った体験談を取り上げることで真耶穌教会の信者が持つ世界観を癒しとの関わりで明らかにし、体験談そのものがもっている特性の一つを教典としての聖書との関わりで考察した。
 第Ⅲ部「癒しの局面にみる民衆キリスト教の世界」ではより議論を一般化させるために、真耶蘇教会以外の教派において癒しの実践がどのように受容されているのかを考察した。第九章「長老教会にみる主流派プロテスタントの現代的展開──ペンテコスタルな実践を巡って」では、ミッション系台湾語教会の事例として長老教会に属しながらもペンコステ派の実践への志向性をもつ教会をとり上げて、「聖霊」と「霊性」という二つの霊観念の違いに気を配りながらその特徴を考察した。第一〇章「台湾ホーリネス教会における癒しの経験――体験談の分析から」では台湾ホーリネス教会の癒しに関する体験談を考察した。台湾のホーリネス教会はミッション系国語教会と台湾語教会の中間に位置づけられる教派であり、また、日本統治期に日本から台湾伝道を実施した教派のうち、ホーリネス以外の教派は台湾在住の日本人を宣教の対象としており、戦後すぐに日本に引き揚げているが、ホーリネスは当初から原住民を含んだ台湾人を主な布教対象とし、戦後も引き続き活動した。こうした意味でホーリネスは台湾の民衆キリスト教を考察する上で適切な事例である。
 終章「分析と結論」では、東アジアにおけるキリスト教の展開を「近代化・植民地化・福音化」という概念と民衆キリスト教における癒しの側面という二つの軸にそって再確認し、その中に台湾のキリスト教を位置づけた。

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著者紹介
藤野陽平(ふじの ようへい)
1978年東京生まれ。
2006年慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。
専攻は宗教人類学、東アジア地域研究。
現在、日本学術振興会特別研究員(PD)。
主著書として『鳥海山麓遊佐の民俗』(遊佐町教育委員会、2006年、共著)、『情報時代のオウム真理教』(春秋社、2011年、共著)、論文として「台湾キリスト教の歴史的展開─プロテスタント教会を中心に」(『哲学』第119集、2008年)、「台湾のキリスト教における民俗的健康観─生活者の視点からの健康研究に向けて」(『生活学論叢』Vol.13、2008年)、「社会脈絡中的基督教研究─走出神学与思想研究的宗教人類学」(金 沢・陳進国主編『宗教人类学』第2輯、2010年)など。

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