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国民語の形成と国家建設

内戦期ラオスの言語ナショナリズム

国民語の形成と国家建設

タイ語・フランス語という新旧の支配語との葛藤や戦略を追い、国民語形成へと至る道程と意味を考究。

著者 矢野 順子
ジャンル 人類学
社会・経済
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2013/02/20
ISBN 9784894891876
判型・ページ数 A5・344ページ
定価 本体4,400円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

凡 例
ラオ語とタイ語

序章
 第一節 定義──言語ナショナリズム
 第二節 言語とナショナリズム
 第三節 ラオス研究史
 第四節 本書の視角
 第五節 史資料と本書の構成

第一章 「ラオス」の誕生──シャム、フランス、二つの支配者
 第一節 ランサーン王国──繁栄と没落
 第二節 シャムとフランスの国境交渉──「ラオス」の誕生
 第三節 シャムの近代国家建設とフランスの植民地支配
 第四節 「失地」回復運動と大タイ主義
 第五節 ラオス刷新運動と『ラオ・ニャイ(Lao Nhay)』新聞
 第六節 ラオ・イサラ運動
 第七節 ラオス内戦

第二章 フランス植民地時代(一八九三─一九四五)
 第一節 語源型正書法と音韻型正書法
 第二節 フランス人のラオ語認識
 第三節 ラオ語正書法会議
 第四節 新語と正書法
 第五節 国民の言語、国民の文字、ラオス国民

第三章 ラオス王国政府
 第一節 ラオ語の標準化へ向けて
 第二節 ラオ語の「歴史」
 第三節 言語による階層分化
 第四節 雑誌『パイ・ナーム(Phay Nam) 』
 第五節 ラオ語かタイ語か
 第六節 王国政府の言語ナショナリズム

第四章 パテート・ラオ──ラオ語の「解放」
 第一節 パテート・ラオの教育政策
 第二節 ラオ語──唯一の「武器」
 第三節 ラオ語が運んだイデオロギー──道徳(Khunsombat)
 第四節 プロパガンダとしてのラオ語教育
 第五節 パテート・ラオの言語ナショナリズム

第五章 言語ナショナリズムの展開
 第一節 フランス植民地時代──「我々の言語」へ
 第二節 王国政府──分裂する言語ナショナリズム
 第三節 パテート・ラオ──「武器」としてのラオ語
 おわりに

あとがき
参考文献
資料
索引

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内容説明

30年にわたる内戦期に、対立する両陣営がともに選んだ国民統合の軸は言語であった。タイ語・フランス語という新旧の支配語との葛藤や戦略を追い、国民語形成へと至る道程と意味を考究。

 

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はじめに

 

 

 「国民語」とは、どのようにして「つくられる」のだろうか。そしてそれは、国家建設の過程にいかにしてかかわるものなのであろうか。これが本書の根源にある問いである。
 言語の境界と国民の境界、近代国民国家建設は多くの場合、この二つの「境界」を一致させなければならないとする原理──言語ナショナリズム──のもとに進められてきた。排他的な国境線によって区切られた領域に住む人びとはあまねく「国民」であり、彼らは共通の「国民語」を話す。しかし、この今ではあたかも自明のことのように思われている状況が生まれたのは、実はここ二〇〇年ほどのことであるにすぎない。
 一七八九年のフランス革命時、フランス国内ではフランス語のほか、アルザス語、ブルトン語、コルシカ語、オック語など多数の地域言語が話されていた。二三〇〇万人と推定される当時のフランスの全人口のうち、六〇〇万人はフランス語を全く理解することができなかったとの記録が残っている。しかし、現在ではフランス国内どこへ行ってもフランス語が通じ、教育も行政もすべてフランス語でおこなわれている。このようなことが可能となったのは、フランス革命以後、近代的な中央集権国家建設を進める過程において、国家権力により言語の統一がはかられたからにほかならない。これには国家を建設していくうえで、効率的な意思疎通の手段としての共通語が必要であったという実際的な理由とともに、国内の非フランス語話者をフランス語のもとに統合し、強固な国民統合を達成しようというねらいがあった。
 フランスに端を発したこのモデルは、二度の世界大戦をへて全世界へと広がった。日本においても明治以降、国語教育の名のもとに徹底した標準語教育が実施され、沖縄では方言札という罰札を用いての方言撲滅教育が実施された。そうして国内の言語的多様性を抑圧し、言語的に均質な日本国民をつくりあげていったのである。また、帝国主義の時代には植民地宗主国は規模の違いこそあれほぼ例外なく、植民地の被支配者に対して宗主国語教育を実施した。フランスにおいては、被支配民族へのフランス語教育は「遅れた」被支配民族に「文明」をもたらす「文明化の使命」とされ、植民地支配正当化の根拠ともなった。そして日本も、植民地となった台湾・朝鮮の人びとに対して国語教育を強制し、日本国民への同化を迫ったことは知られているところである。
 第二次世界大戦後、脱植民地闘争が各地で勃発すると多くの場合、政治的独立とともに宗主国語からの言語的独立の達成が目指されるようになる。本書が対象とするラオスも例外ではなく、ラオ語を国民語とする動きは植民地時代末期よりみられた。さらに、ラオスにおいてはフランス到来以前の「旧支配者」であった隣国タイのタイ語からの独立も問題となった。タイ語とラオ語の違いは方言ほどのものでしかなく、植民地支配をまぬがれ、いち早く出版市場を発展させていたタイ語の書物が大量にラオスへと流入し、ラオ語の「独立」を脅かすものとなっていたのである。
 しかし独立運動の過程において左右両勢力への分裂が生じたラオスでは、一九七五年まで「三〇年闘争」とも呼ばれる内戦が続き、王国政府(右派)とパテート・ラオ(左派)の対立する両陣営において、個別に国家建設がおこなわれることとなった。このことは、国内で統一した言語政策を実施するのを困難なものとし、政治的な対立がラオ語の分裂をも引き起こす事態を招いた。すなわち、両者ともに国民統合の求心軸としてのラオ語の役割を重視していたが、正書法の確定や語彙の選定などラオ語をつくっていく作業が別々におこなわれることとなったのである。
 以上を踏まえたうえで、本書では植民地時代以降、ラオ語が国民語として形成されていくプロセスがラオスの国家建設にどのようにかかわるものであったのかを明らかにすることを目的として、考察をおこなっていく。
 一般に、言語が国民形成に果たす役割としては、コミュニケーション手段としての媒介能力と、国民がその言語を共有することに何か特別な価値を見出すような、国民統合の象徴としての機能の二つが挙げられる。この二つの見方を橋渡しするようなナショナリズム論に、ベネディクト・アンダーソン(Benedict Anderson)の「想像の共同体」論がある[アンダーソン 一九九七]。かつて、カール・ドイッチュ(Karl W. Deutsch)は、現実におこなわれる「社会コミュニケーション」に国民形成の基礎を見出した[Deutsch 1953]。これに対して、アンダーソンは出版資本主義の発展による共通の出版語の普及が、見ず知らずの読者の間に「想像上のコミュニケーション」の場を提供し、国民という「想像の共同体」の出現が可能になったのだとする。その際、アンダーソンは出版語が「何語であるか」は問題ではないとし、言語を国民の表象とする見方を否定した。そして、言語はナショナリストがいうような、ある特定の集団と宿命的にむすびついた排他的なものではなく、誰にでも開かれた包括的なものであるとして言語の排他性を否定し、包括性を強調した。
 言語の包括性に注目したアンダーソンのモデルは、ラテンアメリカやアフリカ諸国など言語が争点とならなかったナショナリズムのケースを論じるには有効である。また出版語の流通が国民形成において重要な役割を果たしてきたことは、もはや否定することはできないであろう。しかし一方で、包括性を過度に強調することは、国民語の「境界」が生成される過程において象徴機能の果たす役割を過小評価することにもなりかねない。例えば、アンダーソンのモデルでは、ラオスにおけるタイ語出版物の流通はラオ語を上回るほどであったにもかかわらず、タイ語は「ラオス国民」を想像する媒体とはなりえなかった、という事実をうまく説明することができない。ラオスにおいて、タイ語が「ラオス国民」の形成になんらかの役割を果たしたとすれば、人びとがタイ語との区別をとおしてラオ語、ラオス国民を想像するという「否定的同一化」の触媒として機能していたということであり、このことはまた旧宗主国語であるフランス語についても同様である。ラオスの歴史をみるとタイ語、フランス語からのラオ語の言語的独立はつねに第一の課題として掲げられ、タイ語やフランス語の使用には強い抵抗が存在した。これはラオ語に「ラオス国民」の政治的独立の象徴としての役割を求めた、強い言語ナショナリズムによるものにほかならない。そしてこのことは、正書法や語彙の整備など、言語のコミュニケーション機能にかかわる領域にも影響を及ぼしてきた。
 本書では、国民語をつくるにあたって象徴性への要求がコミュニケーション手段としての言語の「あり方」にどのような影響を及ぼすのか、二つの機能のかかわりに注目し、「ラオ語」の境界とともに「ラオス国民」の境界が生成されていく様子を描き出す。そして植民地時代、フランスによって着手されたラオ語を「つくる」作業がパテート・ラオと王国政府にどのように継承されていったのか、両者の比較をとおして明らかにしていく。
 結論を先取りしていえば、ラオ語の形成はタイ語、フランス語からの言語的独立をはかるかたちで進められていった。メコン川を国境線とする条約が締結された後も、タイはメコン両岸の住民の民族的同質性を根拠にメコン左岸の「失地」回復を主張していた。フランスはタイの「失地」回復要求をしりぞけ、ラオスを植民地として維持していくため、ラオ語とタイ語の境界を明確化する方向でのラオ語の標準化に乗り出していく。この方針は独立後、王国政府、パテート・ラオの双方へ受けつがれ、現在に至るまでラオ語の形成はタイ語からの差異化を第一に進められることとなった。一方、独立後も王国政府においてフランス語が重用され続けたことは、言語能力を要因とした社会階層の分化を招き、王国政府の人びとの間でラオ語の独立を求める言語ナショナリズムが高まりをみる。パテート・ラオは、フランス語に依存した王国政府の教育制度を「奴隷的・植民地的」であると批判し、王国政府の人びとに対してラオ語を教授言語とする自らの教育制度の「国民的特徴」を強調したプロパガンダを展開していった。王国政府の人びとの言語ナショナリズムを巧みに利用したパテート・ラオのプロパガンダは学生を中心に支持を集め、パテート・ラオ勝利の一因ともなったと考えられる。
 以上の考察から、ラオスにおいてはタイ語とフランス語という「新旧支配者の言語」との接触をとおして、人びとがラオ語を国民語として認識し、国民意識を醸成していった過程が浮き彫りとなる。そしてこれは、出版語としてのタイ語とフランス語がアンダーソンの意図したのとは異なる方法で、ラオス国民の形成に作用していたことを示すものなのである。ラオスと同様、類似する近接言語との差異化や旧宗主国語との関係が国民語形成において問題となるケースは世界各地でみられる。したがって、本書の研究はラオスを対象とした研究だけではなく、言語ナショナリズム研究一般に幅広く貢献できるものと考えている。

 

 

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著者紹介
矢野順子(やの じゅんこ)
1974年 兵庫県生まれ。
1998年 同志社大学文学部卒業。
2009年 一橋大学大学院言語社会研究科博士後期課程修了。博士(学術)。
現在、東京外国語大学、上智大学非常勤講師。一橋大学大学院言語社会研究科特別研究員。
専攻は言語社会学、ラオス地域研究。
主な著書、論文:『国民語が「つくられる」とき―ラオスの言語ナショナリズムとタイ語』(風響社、2008年)、『ラオスの国民国家建設―理想と現実』(アジア経済研究所、2011年、共著)、「「ラオス国民」の形成と「武器」としてのラーオ語―パテート・ラーオの教育政策とプロパガンダを中心として」(『東南アジア―歴史と文化』第36号、2007年)など。

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