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カンボジア山村の救荒食 33

ヤムイモから見た食の自給の歴史と現在

カンボジア山村の救荒食

極限状態の非常食から、市場経済のもと軽食・補助食とされる現在までを概観し、人間・社会にとっての「食」のあり方を問う。

著者 石橋 弘之
ジャンル 人類学
シリーズ ブックレット《アジアを学ぼう》
出版年月日 2014/10/25
ISBN 9784894897748
判型・ページ数 A5・68ページ
定価 本体800円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

一 救荒食とは何か
 1 凶作、飢饉を補う食物──山野の植物の重要性
 2 救荒食の現代的変化
 3 救荒食の利用過程にみる共通点

二 ヤムイモとは何か
 1 世界各地のヤムイモ
 2 カンボジア南西部山地のヤムイモ類とクドーイの特徴
 3 カンボジアの文脈からクドーイの利用を理解する意味
 4 内戦と政変下の非常食──毒抜きに塩は必要か?

三 カルダモン山脈の山村におけるクドーイの利用
 1 自然環境
 2 調査村
 3 クドーイの分布・生育地・採取・毒抜き・食べ方
 4 クドーイを食べた経験をもつ人々

四 平時の生活におけるクドーイの利用
   ──一九六〇年代まで
 1 自給米の生産状況
 2 自給米不足の背景と対応におけるクドーイの位置づけ
 3 自給米不足時以外のクドーイの利用

五 内戦と政変下のクドーイ利用──一九七〇年代以降
 1 ポル・ポト時代前後の食料難と食生活
 2 森の中に避難した人々のクドーイの利用の類型

六 市場経済開発下のクドーイ利用の変化──二〇〇〇年代以降
 1 クドーイの利用機会の減少
 2 自然環境の変化にともなう自給米確保の困難
 3 商品作物の普及にともなうコメ自給の変化
 4 最近はクドーイを食べない背景
 5 今日もクドーイを利用する背景

おわりに

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内容説明

生をつなぎ、社会をつくる「食」
内戦の中、人々の生を支えた食物=クドーイ。極限状態の非常食から、市場経済のもと軽食・補助食とされる現在までを概観し、人間・社会にとっての「食」のあり方を問う。

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はじめに

 人間の命を救ったイモがある。カンボジア語で「クドーイ」というヤムイモ類の一つだ(写真1)。

──一九七九年はクドーイばかり食べた。留学中に訪れたカンボジア南西部の山村で人々がそう語るのを何度も聞いた。一九七九年に何が起きたのか、なぜこの時期に人びとはクドーイばかり食べることになったのか。カンボジアの歴史のなかで一九七九年はポル・ポト政権が崩壊した年である。それと同時に一九九〇年代まで続く内戦が始まった年でもあった。

 一九七五年に成立したポル・ポト政権はコメの生産を一ヘクタールあたり三トンまで増大させるという政策を掲げた。この目標を達成するために農業は集団化され人びとは苛酷な労働を強いられ、生産されたコメの大半は輸出用にとりあげられて大勢が栄養失調と死に追いやられた[清野 二〇〇一]。それだけでなく政権に反すると疑われた人は粛清もされた。

 そして一九七九年、粛清を逃れてベトナム軍の支持を受けた勢力がポル・ポト政権を打倒してカンボジアの領土を実効支配する政権を獲得すると、タイ国境に拠点を移したポル・ポトらクメール・ルージュ勢力との間で内戦が始まった。この内戦の激戦地となったのが、カンボジア南西部にあるカルダモン山脈だった。一九九〇年代初めに和平協定が結ばれ、総選挙を経て新政府が発足した後も、政府と交戦を続けたクメール・ルージュの勢力下にあったカルダモン山脈では、ポル・ポトが死亡し、クメール・ルージュが完全投降した一九九〇年代末まで戦時下にあった。この背景をふまえ筆者は当初、内戦が最後まで続いた地域で終戦前後に社会と生活が再編されてきた経緯を理解することに関心があった。しかし、人々に話を聞くなかで内戦の激戦地となった地域で人々がいかに生きてきたのかを理解することも重要ではないかと思うようになった。
そう考えるきっかけの一つとなったのが、戦災を逃れるために山脈の森に逃げた人々が筆者に繰り返し語った「七九年はクドーイばかり食べた」という言葉だった。そもそもカンボジアではコメのご飯を主食とする。コメはご飯ばかりでなく、餅菓子や、麺料理、酒の原料にするなど多様な形で食用される[清野 二〇〇一:二九─三一]。それは平野部の水田稲作農村だけでなく、水田稲作と移動焼畑耕作を行う山村でも同じだ。

 だが、一九七〇年代以降のポル・ポト政権と内戦下の食料難でコメの自給が困難になり、それまで毎日のように食べてきたコメのご飯が食べられなくなったのだ。なかでもカルダモン山脈の山村に出身をもつ人々は、内戦下の戦闘から避難するために、森の中に逃げ隠れたり、タイ国境キャンプ、その他の地域へと各地を転々とすることを余儀なくされた。そのため、農業を営み農作物から食料を得るのは難しかった。

 しかし、タイ国境のキャンプではカンボジア難民を支援するために国連をはじめ海外からさまざまな団体が集まり、そこでは食料の供給も行われていた。それにもかかわらず、国境キャンプに長くはとどまらず森のなかで避難生活を送った者もいた。逃げた先の森の中ではクドーイだけでなく、その他のイモや山菜、そして獣肉や魚もとれた。そのなかで、なぜクドーイというヤムイモがとりわけ強調されることになったのだろうか。

 この課題を読み解くために本書で着目するのが、「救荒食」という言葉だ。戦争や政変による食料難、自然災害や天候不順による凶作や飢饉の発生。そうした状況で、食物を得るのが難しくなったとき、その不足を補ってきた食べ物。いざというときに備え利用されてきた食べ物。それが救荒食であり、そうした食べ物が海外や日本でも利用されてきた [Miyagawa 2002, 小泉 二〇一一]。だが、食べ物が身の周りにあふれ、購入することが当たり前であるかのようになった今日、かつて救荒食とされた食物を利用する機会は少なくなった。それは日本だけでなくカンボジアの山村でも起こりつつある。しかし、日本では災害が起きるたびに救荒食は注目され、東日本大震災後には今後も起こりうる災害を生き抜く知恵を学びうる食物としても重視されている[小泉 二〇一一、佐合 二〇一二]。

 時代とともに変わりゆく救荒食の意味を手がかりに、カンボジア南西部カルダモン山脈という地域の文脈からクドーイがどのような意味をもってきたのかを考えていきたい。

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著者紹介
石橋弘之(いしばし ひろゆき)
1980年、埼玉県出身。
上智大学大学院グローバル・スタディーズ研究科地域研究専攻博士前期課程修了。
日本学術振興会特別研究員(DC)。
現在、東京大学大学院農学生命科学研究科農学国際専攻博士課程在籍。
主な論文に、「近現代カンボジアの社会変動下におけるカルダモン利用の動態─収穫現場の統率者,販売制度,保全活動をめぐる地域環境史」(『東南アジア研究』48巻2号、2010年9月、204‐155頁)がある。

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