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神霊を生きること、その世界

インド・ケーララ社会における「不可触民」の芸能民族誌

神霊を生きること、その世界

神霊を担う人びとの技や知識が社会、経済、宗教的文脈において流動的に変容しながら、受け継がれている実態を追求。

著者 竹村 嘉晃
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2015/05/20
ISBN 9784894892095
判型・ページ数 A5・404ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

序章 「ひと」と生活世界を紡ぐ芸能民族誌
 一 神霊との出会い
 二 本書の目的
 三 先行研究と問題の所在
 四 調査概要
 五 本書の構成

●第一部 インドの神霊パフォーマンスの「現在」

第一章 「神霊になること」
       ──テイヤム祭儀と「不可触民」をめぐる現代的位相
 はじめに
 一 インド・ケーララ社会の概要
 二 ケーララにおける宗教と芸能の諸相
 三 変貌するテイヤム実践者たちの生活世界
 四 テイヤム祭儀の概要
 五 テイヤム実践者グループの構成
 六 実践者集団からみるテイヤム祭儀の次第
 七 小結  122

第二章 「表されること」
       ──テイヤム神とメディアとの多元的な結びつき
 はじめに
 一 活字メディアで生成されるテイヤム神のイメージ
 二 共産党、芸術家、メディアとしての神霊
 三 神霊信仰の多元的表象
 四 電子メディアと神霊を介した新たなネットワーク
 五 小括

●第二部 神霊を生きる「不可触民」たちの今日の姿

第三章 「稼ぐこと」
       ──グローバル時代における伝統的職業の新たな位相
 はじめに
 一 ガルフへの出稼ぎ
 二 テイヤム祭祀とカネ
 三 テイヤム祭儀の脱領域的な拡がり
 四 信仰の隆盛がもたらす経済的恩恵と社会的世界の変容
 五 小括

第四章 「受け継ぐこと」
       ──祭儀の活性化とカースト意識の再編
 はじめに
 一 若手実践者たちの参入とその影響
 二 左翼思想と近代教育の影
 三 実践レベルにおけるテイヤム祭儀の「現代性」
 四 伝統的職業を継承する世代間の差異
 五 小結

終章 「ひと」としての実践者と生の記述にむけて

あとがき

補足資料
参考文献
索引

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内容説明

芸能の奥にある「ひと」を見つめる。
発展する現代インド社会で今も行われている神霊祭祀のテイヤム祭儀。伝統的職業として神霊の役割を担う人びとのパフォーマンスに着目。その技や知識が社会、経済、宗教的文脈において流動的に変容しながら、受け継がれている実態を「ひと」と生活世界に寄りそって追求。

 

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序章より

  

 本書は、南インドのケーララ州北部のローカルなヒンドゥー社会を中心に広く行われている神霊祭祀のテイヤム(Teyyam)を事例に、伝統的職業として神霊の役割を受け継ぐ旧不可触民階層で、今日の行政上では指定カーストと呼ばれる人びとの現在の生のありようを描くものである。

 テイヤム信仰は、サンスクリット的要素と混淆しつつ、女神崇拝や英雄信仰といった正統ヒンドゥー教がケーララに普及する以前からあったドラヴィダ(Dravida)文化の影響を受けているといわれる[Kurup 1973; Visnunambutiri 1998]。テイヤム祭儀の中心的役割を担うのは、霊媒となる旧不可触民階層の男性である。彼は、神霊を讃える祭文を唱えた後、化粧を顔に施し、重層的な装束を身にまとって、自らの身体に神霊(テイヤム)を呼び降ろすことで神と一体化する。人びとの前に顕現するテイヤム神は、太鼓や管楽器の伴奏に合わせて、ステップなどの舞踊的身体技法を披露したり、アクロバティックな技や伐採された木々が燃えさかる焚火の上を飛び越えたり、あるいは鉄剣などを操るさまざまなパフォーマンスを行った後、参拝する人びとに祝福と託宣を与える。

 演劇研究者のR・シェクナーと人類学者のV・ターナーらが先導となって一九八〇年代に発展したパフォーマンス研究では、研究対象を演劇、舞踊、音楽といった美学的ジャンルに限定せず、日常生活におけるパフォーマンス、祭祀や公共の儀式などの文化的パフォーマンス、ジェンダーやアイデンティティのパフォーマンス、さらには動物にみられるパフォーマンス的な行動にまで拡大した広義の「パフォーマティヴ行為」を分析している[シェクナー 一九九八:一]。本書では、シェクナーが提唱する定義よりも限定的に、舞踊、音楽、演劇、民俗芸能、武術、儀礼といった身体的な所作に依拠した文化的実践を文化的パフォーマンスと位置づけ、テイヤム祭祀の諸相について、人類学的な芸能研究の観点からアプローチしていく。

 祭礼や民俗芸能、舞台芸術などの身体化された文化的パフォーマンスの技芸は、時代の流れにそって衰退し、やがては消滅してしまうものもあれば、時代状況による何らかの契機で突如として隆盛を極めるものもある。たとえば近年の日本では、ナマハゲなどの地方に伝承されている祭礼が高齢化や後継者不足で存続の危機を迎えている一方で、よさこいソーランやエイサーなどの市民参加型の都市祝祭が全国各地で人気を集めている。こうした文化的パフォーマンスの衰勢に関して、これまでの研究では、社会変化や審美的優越といったあいまいな言葉で論じられることはあっても、社会のどのような変化が文化的パフォーマンスの生成・存続・隆盛に影響するのか、その実践に対する美的価値判断の基準とは何なのか、あるいは実践そのものやそれを担う人びとの社会的世界もまた社会とともに変化せざるをえないのか、といった問題について十全な説明がなされることはなかった。

 テイヤム祭儀の基盤となる民俗的世界は、インド独立以降の左翼的思想の浸透や土地改革による影響のもとで、政治状況や社会構造が大きく変容してきた。ケーララでは、一九九〇年代の終わり頃から、グローバルで同時的なネットワークのつながりを張り巡らす経済自由化とIT革命の影響が、経路のみえにくいいまま生活世界のいたるところで経験されるようになっている[内山田 二〇〇八]。街角にはインターネット・カフェや携帯電話ショップ、CG加工を手がける店が溢れ、金の装飾品を扱う店やジーンズなどの若者向け衣料、家電や車を販売する店も増えている。郊外には、ムンバイやデリーといった大都市ほどではないもののショッピングモールがあちこちに建ち、週末になると多くの家族連れ客でにぎわっている。こうした経済成長による発展は、教育の普及とともに人びとの生活様式に変化をもたらし、直接的または間接的にテイヤム祭儀にも影響を与えている。

 このような今日的状況のなかで、テイヤム祭儀の実践レベルにおける技芸はいかに変容し、どのように受け継がれているのだろうか。また、わたしが出会った同世代の実践者たちは、いかなる価値観を持ちながら彼らのカーストに基づく役割を担っているのだろうか。わたしがこのようなことを考えるようになったのは、長期調査の際に目にした次の出来事がきっかけであった。

 金曜日からタイール・カーヴで行われたワイナーットゥ・クラヴァン祭儀が終わり、昨日、日曜日の夕方五時過ぎに帰宅した。……ジェイは、のべ一〇時間ものあいだテイヤム神であり続けていた。休むことなく重い装束を身にまとい、トイレにも行かず、彼の身体は神霊の姿のままであった。……夕食後の夜一〇時過ぎ、部屋でノートの整理をしていると、階下でアッチャン(ジェイの父)とジェイが祭儀に関することで口論している声が聞こえてきた。階下をのぞくと、二人とも大声を張り上げ、興奮したアッチャンがナイフを手にとって振りかざそうとしていた。急いで下に降りると、ジェイも小さな斧を持ちだしてきた。サッティアタン(ジェイの義兄)とわたしで興奮しているジェイの身体を押さえて止めに入った。ジェイはしばらくもがいた後、押さえているわれわれの腕を振り払って、大声で喚きながら向かいのサッティアタンの家へ走っていった。……しばらくしてから、ベランダで仰向けになっているジェイの側に座った。彼は天井をみつめながらこう言い出した。「誰も俺のことなんか気にしちゃいないじゃないか。足だって火傷して、つらい思いをしてるのに。この痛みが皆にわかるのかよ。こんな思いをしてまで続けなきゃいけないのか」(二〇〇五年一二月一九日、フィールドノートより)。

 ワイナーットゥ・クラヴァン祭儀を担ったジェイは、冒頭で紹介した祭儀の場で親しくなった若者である。わたしが彼と出会って数年後、彼は父親にかわってワイナーットゥ・クラヴァン神の祭儀を担うようになっていた。祭儀のなかで燃え残った炭山を何度も蹴り上げた彼は、痛みと腫れがひどい火傷を足に負っていた。わたしが目にしたのは、わたしと何ら変わらないごく普通の青年が、自らの出生によるカーストの伝統的職業を担うことに苛まれている生の営みであった。

 本書の目的は、インド・ケーララ州北部における多くの人びとの宗教や社会的生活の中心となっているテイヤム祭儀という場において、自らが霊媒となって神霊を顕現させる旧不可触民階層の実践者たちを照射し、グローバル化した現代社会の動態や祭儀を取り巻くさまざまな言説や多元的表象の位相と、彼らの日々の暮らしや地域社会とのつながりといった生活世界の要素がいかに実践レベルと関係し、相互に影響を与えているのかを民族誌的に解明することである。

 その際に、以下の点に陥らないよう留意したい。テイヤム祭儀を「古代」や「始原」あるいは「憑依」や「美」といった語り口で神秘化すること、神霊が繰り広げるさまざまなパフォーマンスに関して、審美的要素や動作(芸態)だけを抽出して論じる芸能論に陥ること、長きにわたって社会的差別を甘受してきた「不可触民」の実践者たちについて、「救済のまなざし」とともに「浄」「不浄」のカースト・ヒエラルキーによって「虐げられた人びと」として一括りに枠付けすること、である。

 この作業を通じて、本書は、祭儀の場で人びとが待ち望む神霊を顕現させるテイヤム実践者たちの生活世界に立って、われわれと同時代をいきる彼らの生のありように共鳴したい。

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著者紹介

竹村嘉晃(たけむら よしあき)
1971年生。日本大学芸術学部演劇学科卒業、沖縄県立芸術大学大学院音楽芸術研究科修士課程修了、大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学、2012)。
専攻は芸能人類学、南アジア地域研究。
現在、人間文化研究機構地域研究推進センター研究員/現代インド地域研究国立民族学博物館拠点研究員。
主な著作に「神々のゆくえ――現代インド・ケーララ社会における儀礼パフォーマンスの多元的表象」『民族藝術』23号(2007年)、「インド・ケーララ出身者たちの神霊を介した故地とのつながり」『湾岸アラブ諸国の移民労働者―「多外国人国家」の出現と生活実態』細田尚美編、明石書店(2014年)、「踊る現代インド――グローバル化のなかで躍動するインドの舞踊文化」『現代インド6 環流する文化と宗教』三尾稔・杉本良男編、東京大学出版会(2015)など。

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