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多配列思考の人類学

差異と類似を読み解く

多配列思考の人類学

われわれの日常は白か黒かだけで営まれているわけではない。無数の選択肢や文脈がもつれあう(多配列的)世界を生きている。

著者 白川 千尋
石森 大知
久保 忠行
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学集刊
出版年月日 2016/03/11
ISBN 9784894892194
判型・ページ数 A5・388ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに
 多配列思考の人類学(久保忠行・石森大知)
 本書の構成

●第Ⅰ部 多配列思考
第一章 つながる思考としての多配列(福井栄二郎)
 一 家族的類似性/多配列分類
 二 比較研究/ニーダム
 三 問題/可能性
 四 ニューギニア/ストラザーン
 五 人々の比較/サイボーグ
 六 ブリコラージュ/つながりの思考
 七 分ける/つながる

第二章 類似性から知識の動態へ
──サモア社会の病気概念からみた多配列分類にもとづく社会分析の再検討(倉田 誠)
 一 はじめに
 二 多配列分類における中心と周辺
 三 病気に関する知識の継承と流通
 四 病気分類のあり方
 五 診断=治療の網の目
 六 おわりに

第三章 チャム・バニはムスリムか?
──「ホイザオ(ベトナムのイスラーム)」と多配列クラス(吉本康子)
 一 はじめに
 二 「ベトナムのムスリム」というカテゴリー
 三 チャム・バニという「ベトナムのムスリム」の宗教実践
 四 チャム・バニの社会における「クルアーン」
 五 「ベトナムのムスリム」と多配列クラス

第四章 ホワイト・オーストラリアンをめぐる議論と多配列分類
──冗談が生み出す両義性と他者排除の言説(前川真裕子)
 一 はじめに
 二 オーストラリアにおける単配列分類
 三 オーストラリアの冗談と多配列分類
 四 おわりに

第五章 アボリジニコミュニティ出身者の集団意識
──オーストラリア北部準州アリススプリングスにおけるイマンパの事例から(平野智佳子)
 一 はじめに
 二 アボリジニの集団意識に関する先行研究の概要
 三 北部準州のアボリジニコミュニティの展開
 四 アボリジニコミュニティから都市へ
 五 アリススプリングスにおけるアボリジニの集団意識
 六 コミュニティと都市の差異の強調

●第Ⅱ部 差異と類似の捉え方

第六章 「カストム論再考」からの再始動
──メラネシアにおけるバイカルチュラルな世界の背景(石森大知)
 一 はじめに
 二 カストム論の批判的検討
 三 西洋的事象の受容をめぐる自己認識
 四 おわりに

第七章 「多文化共生」社会の実現の可能性に関する一考察
──カトリック教会に集まる信者を事例に(野上恵美)
 一 はじめに
 二 調査地概要と調査対象者について
 三 政府/自治体における「多文化共生」社会への取り組みとその限界点
 四 カトリック教会における「多文化共生」社会への取り組み─︱D教会を事例に
 五 おわりに─︱多配列思考に基づく「多文化共生」社会の実現に向けて

第八章 ホームステイのメカニズムからの観光再考
──日常生活が観光の対象となるとき(山口隆子)
 一 はじめに
 二 ホームステイと観光
 三 事例──ホームステイにおけるホストとゲストの諸相
 四 考察──ホームステイのメカニズム
 五 おわりに

第九章 朝鮮族の移動と混淆する文化(安 成浩)
 一 文化の捉えかた
 二 朝鮮族社会の形成と文化を巡る議論
 三 朝鮮族文化の基礎としての村落文化
 四 稲作、人口移動と朝鮮族文化
 五 結びにかえて

第一○章 「正答」のない「正しさ」を生きる──韓国におけるがん患者の療法(澤野美智子)
 一 はじめに
 二 現代韓国社会における療法のせめぎあい
 三 がんと近代化
 四 「正しくない」ありかたの排除と「正しい」ありかたへの回帰
 五 「正しい」ありかたの内実
 六 おわりに

●第Ⅲ部 多声的リアリティへの接近

第一一章 分析概念としての〈難民〉 ──ビルマ難民の生活世界と難民経験(久保忠行)
 一 はじめに
 二 難民というラベルをめぐって
 三 難民の生活世界
 四 難民経験と分析概念としての〈難民〉
 五 おわりに

第一二章 放射能汚染問題にみる「マーシャルの文化」のふるまい
──核実験被害コミュニティ再定住計画を中心として(中原聖乃)
 一 はじめに
 二 マーシャル諸島核実験被害とその語られ方
 三 マーシャル諸島社会の構成原理
 四 再定住計画
 五 避難島における生活再建
 六 関係性の維持としての「マーシャルの文化」
 七 おわりに

第一三章 民族誌の表現、共有、還元?
──アフリカの事例からの素描(椎野若菜)
 一 序──日本語の民族誌の意義?
 二 民族誌をどのように書くのか
 三 誰と調査するのか
 四 公開するプロセス
 五 おわりに──さらし者になること

第一四章 フィールドワークを開く
──ヴァヌアツからの展望(白川千尋)
 一 はじめに
 二 「伝統の創造」論とそれへの批判
 三 多声的民族誌、そしてフィールドワークへ
 四 ヴァヌアツにおけるフィールドワークをめぐる動向
 五 開かれたフィールドワークへ

●附論

フィールドからの声と人類学的議論
──各論を受けて(吉岡政德)
 一 多配列クラス
 二 ニーダムとレヴィ=ストロース
 三 パーシャル・コネクション
 四 フィールドからの声──「ホンモノ性」と「正しいやり方」
 五 フィールドワークと人類学者

バニヤン・ツリーに擁されて(福井栄二郎)

あとがき(白川千尋)
索引

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内容説明

われわれの日常は白か黒かだけで営まれているわけではない。無数の選択肢や文脈がもつれあう(多配列的)世界を生きている。本書はそんな世界としてフィールドを凝視してきた吉岡政徳の退職記念として編まれた。14人の執筆者による論文とそれに対する吉岡のリプライが織りなす本書自体が、あたかも多配列世界を示すかのようである。

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はじめにより

 

久保忠行・石森大知

 

 

多配列思考の人類学

 本書は、吉岡政德先生から教えを受けた学生や先生に近しい有志によって編まれた文化人類学の論文集である。そのコンセプトとして、よくある退職記念論文集のように各自が好きなテーマで自由に執筆するスタイルではなく、先生のご研究を踏まえたうえで、それをできる限り批判するという挑戦的な試みを掲げている。各執筆者は、自らと先生のご研究との結節点を探りながら、少々粗削りでも斬新な発想を捻り出すことに専念した。以下では、本書全体の趣旨や構成を述べる前に、吉岡先生(以下、敬称略)のこれまでのご研究を簡単にまとめたい。

 吉岡の研究は、つぎの三つの研究テーマに大別される。(一)社会人類学的研究、(二)近代化と社会・文化変容に関する研究、(三)ポストコロニアル人類学批判である。そして、吉岡の研究テーマのすべてに共通してみられる視点、すなわち吉岡の人類学のエッセンスとして、フィールドワークの重視、大理論に対する批判に加え、多配列思考という三つの点を指摘できるだろう。以下では、吉岡の研究テーマの内容にも触れつつ、彼の研究のエッセンスについて説明する。

 まずフィールドワークの重視である。吉岡は、一九七四年から現在に至るまで、ヴァヌアツ共和国(おもにペンテコスト島北部)でフィールドワークを実施してきた。とくに彼の研究テーマの(一)社会人類学的研究は、フィールドワークを通して練り上げられた経験知と重厚な民族誌的資料に基づくものであることは言うまでもない。加えて、吉岡は、思弁的な議論になりがちな近年の人類学批判に対しても、フィールドワークに裏打ちされた議論で応戦してきた。二〇〇七年に一橋大学でひらかれた「ポストコロニアル論争は人類学の自殺行為に等しかったのか」という論争の場で、吉岡は次のように指摘している。「ポストコロニアル人類学は『自分がどうするのか』ということばかりを問うており、それはエゴセントリックではないか。自分探しばかりを繰り返してどうするんだ。人類学はフィールドからの発想というものをメインにしてきたはずなのに、自己からの発想を繰り返して、フィールドを放棄してどうするのか」[吉岡 二〇〇八:七三]。この主張からもうかがえるように、吉岡は、フィールドワークを一貫して重要視し、そこから人間社会のあり方を追求してきた。

 そして吉岡は、フィールドワークに基づいて、これまで通説と考えられてきた大理論を批判し、従来の研究に代わる新たな理論的枠組みを構築してきた。たとえば、『メラネシアの位階階梯制社会──北部ラガにおける親族・交換・リーダーシップ』[吉岡 一九九九]は、吉岡の研究テーマの(一)社会人類学的研究の重要な成果の一つである。同著のなかで、彼は、一般交換と限定交換、祖先との結びつきと集団への帰属(出自論における系統および帰属概念の再検討)、互酬性と贈与交換、交換とリーダーシップ、階梯制とビッグマン制および首長制などに関する社会人類学的な大理論を批判している。さらに、吉岡の研究テーマの(二)近代化と社会・文化変容に関する研究では、社会宗教運動、ナショナリズム、伝統概念、観光文化、都市文化といった多彩なテーマを扱い、独自の視点を提示してきた。(三)ポストコロニアル人類学批判では、人類学の閉塞状況を打破するべく、理論的および実践的な議論を展開してきた。吉岡の大理論に挑む研究姿勢は個別社会研究から比較研究を志向するものでもあり、そのために依拠した理論的な枠組みが、多配列思考といっても過言ではない。

 吉岡は、ロドニー・ニーダムが着目した多配列分類(polythetic classification)[Needham 1975]を独自の視点から発展させてきた。彼は、従来の研究にみられる単配列分類(monothetic classification)のタイポロジーが喚起する分断と不連続の視点を退け、多配列分類の原理にそくして社会的現実の諸要素を類似と連続の視点から捉えなおすことで、新たな比較研究の地平を切り開こうとした。

 多配列分類と対をなす単配列分類とは、恣意的に設定された共通項(あるいは種別的特性)に基づく分類方法であり、相互に排他的な集合(クラス)を規定する考え方である。これは科学的な分類方法とも呼ばれる。これに対して多配列分類とは、類似性に基づく分類方法である。ニーダムは、ウィトゲンシュタインの家族的類似を援用しつつ、共通の性質を持たずに構成されるものごとに着目した。明確な定義をもたないが共通の集合に分類できる、そのような思考方法に基づく分類が、多配列分類である。

 ある特定の共通項を単配列的に設定した場合、それらの集合は必然的に排他性を帯びることになる。いわば、単配列分類は「〇パーセントか一〇〇パーセントか」という分類の仕方である。それに対して、多配列分類およびそれに基づく思考とは、科学的に構成される単配列的な現実のありようへの再考を迫るものである。たとえば吉岡は、次のように指摘している。「我々の日常生活は、厳密な科学的原理に基づいて営まれているのではなく、もっと曖昧でいいかげんなもの、原理とも呼べないようなものを都合よく操作することによって成り立っている」[吉岡 一九九八:三五一]。

 このような意味で、人類学者が視線を向ける日常生活の場は、多配列思考で溢れている。人間の思考や行動は、「いいかげん」で、かならずしも首尾一貫しているわけではないからである。しかし、そうであれば、本書で多配列思考をあらためて強調する意義について疑問を抱く読者もいるかもしれない。この点に関して、差し当たって二つのことが指摘できる。

 一つは、多配列思考を援用することで、本質主義的なカテゴリーを生み出す単配列思考あるいは科学的思考を批判することである。この観点は、人類学のあり方に対して大きな論争を巻き起こしたポストコロニアル批判の流れのなかで取り上げられることが多い。たとえば吉岡は、抑圧されている人々の抵抗や戦略を読み取ろうとするポストモダン人類学の分析の枠組みについて次のように反論している。

 多配列的な思考に基づいて日常を生きている人々は、支配システムの言説を引き受け、国家エリートの言説を聞き、運動の指導者、知識人、人類学者などの言説も引き受ける。しかし人々は、時にはある言説を引き合いに出し、すぐさま別の言説に依存する。そして結局、どの言説が流通しようと、どの言説が支配的になろうと、人々にとっては、どれに対しても臨機応変に対処することができる。そのさいに、それぞれの理由がリアリティをもって語られるからである。[吉岡 二〇〇五:一七九─一八〇]

 もう一つは、多配列思考に基づくカテゴリー(クラス)を基点とした比較研究をおこない、差異の捉え方を再考することである。ニーダムは、多配列分類を論じるなかで、多配列的なまとまりにおける特性を指摘したが、そのカテゴリーを構成する諸要素の類似性については詳細な議論を展開していない。この点を指摘した吉岡は、多配列カテゴリーの類似の構造について、あるクラスを特徴づける「典型」という概念を用いて分析することを提唱している[吉岡 二〇〇五:九八]。つまり多配列分類の場合は、あるカテゴリーの典型とされるイメージ(ないしは個体、個体群)の諸特性が重要な意味をもち、そのクラスにまとめられる個々の個体は、この典型的なイメージのもつ諸特性と様々なやり方で類似した特性をもっていると判断できる。このように、それぞれの研究対象を多配列カテゴリーと捉えることで、内部にあるいくつもの個体(これ自体も多配列的)相互の類似性、さらには典型が構築される仕組みの解明につながる。それはまた、単配列的な分類の境界線をずらし、各カテゴリーを捉えなおすことが可能になるといえる[吉岡 二〇一〇]。

 多くの近代的な学問は、差異を捉える単配列的思考あるいは科学的思考を基礎としている。そう考えれば、吉岡が目指そうとする多配列思考の人類学は、自然科学的なものの見方を相対化していく人類学的な試みであると同時に、ともすれば単配列的な視点にとらわれてきた既存の社会科学への批判としての意義があるといえる。

 以上のことを踏まえて、本書は『多配列思考の人類学──差異と類似を読み解く』と銘打たれた。各執筆者は、多配列の概念を直接的もしくは間接的に参照しながら、それぞれのフィールドの事例をもとに自論の展開を試みている。
ところで、フィールドで見聞きしたこと、体験したことを「彼ら」のリアリティをもって描くことは、実は容易なことではない。フィールドをいかように理解するかは、当然ながら人類学者のパースペクティヴを経由したものになるからである。吉岡が今なお警鐘を鳴らすのは、フィールドの理解の方法と差異の捉え方に対する態度である。吉岡は、これまでの自身の研究を振り返り、自戒を込めて次のように述べている。

 注意する必要があるのは、文化相対主義的に様々な文化をフィルターを通さずそのまま見つめる姿勢をもっていると自負する人類学者がいたとしても、フィルターはどうしてもかかってしまう。特に、自身が最初に長期訪れた異文化のあり方は、人類学者の後の思考回路の起点となる。私の場合は、ヴァヌアツでの長期調査を終えてから、キリバスでの調査を行ったが、絶えずヴァヌアツとの比較をする自分を見出すことになった。都市についてのデータも同様である……フィールドノートを読み返してみて、異文化をそのまま異文化として見ることがいかに難しいか、思い知らされている次第である。[吉岡 二〇一五:九九]

 吉岡が一貫して説いてきたのは、「枠組みありき」ではなく、かといってフィールドの厚い記述に終始するだけでもない、フィールドからたちあがる理論の重要性である。吉岡が理論とフィールドを往還するなかで、差異の捉え方に対する知的アプローチとして採用したのが、多配列の概念といえるだろう。本書は、こうした吉岡の知的な営みに刺激を受けつつ編集されたものであり、以下に示すとおり、吉岡の研究テーマとその広がりに沿って構成されている。

 

 

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執筆者紹介(掲載順)

福井栄二郎(ふくい えいじろう)
島根大学法文学部准教授。専門は社会人類学、オセアニア研究。主な論文に「名の示すもの―ヴァヌアツ・アネイチュム社会における歴史・土地・個人名」『文化人類学』77巻2号(2012年)、「伝統文化の真正性と歴史認識―ヴァヌアツ・アネイチュム島におけるネテグと土地をめぐって」『文化人類学』70巻1号(2005年)など。


倉田 誠(くらた まこと)
東京医科大学医学部講師。専攻は医療人類学、オセアニア研究。主な論文に「グローバル化する精神科医療とサモアの精神疾患―マファウファウの病気をめぐって」須藤健一編『グローカリゼーションとオセアニアの人類学』(風響社、2012年)、「植民地期サモアにおける公衆衛生と公共圏」柄木田康之・須藤健一編『公共圏とオセアニア フィールドワークからみた重層性』(昭和堂、2012年)など。


吉本康子(よしもと やすこ)
国立民族学博物館外来研究員。専攻は文化人類学、東南アジア研究。主な論文に「チャムの伝統文書にみるイスラーム的宗教知識―ベトナム中南部のチャムが継承する写本及び目録の分析を通した予備的考察」『アジア文化研究所研究年報』48号(2014年)、A Study of the Hồi giáo Religion in Vietnam: With a Reference to Islamic Religious Practices of Cham Bani. Southeast Asian Studies Vol.1, No.3(2012年)、など。


前川真裕子 (まえかわ まゆこ)
三重大学人文学部特任准教授。専攻は文化人類学、オーストラリア研究。 著書にReconsidering Orientalism/Occidentalism: representations of a Japanese martial art in Melbourne (JSOS Monograph Series Vol.2, The Japanese Society for Oceanic Studies, 2015)など。


平野智佳子(ひらの ちかこ)
神戸大学大学院国際文化学研究科博士後期課程、日本学術振興会特別研究員(DC2)。専攻は文化人類学、オーストラリア・アボリジニ研究、先住民研究。主な論文に「『アボリジニ』『白人』の対立というカテゴリー化の限界―オーストラリア北部準州におけるアボリジニへの飲酒規制の緩和をめぐる意見の対立から」『神戸文化人類学研究』5号(2015年)、「北部準州アボリジニ社会における『先住民』『非先住民』関係の構図―『問題飲酒』に関する人類学的研究の展開」『文化人類学』78巻2号(2013年)など。


石森大知(いしもり だいち)
武蔵大学社会学部准教授。専攻は文化人類学、オセアニア研究。著書に『生ける神の創造力―ソロモン諸島クリスチャン・フェローシップ教会の民族誌』(世界思想社、2011年)、共編著書に『現代オセアニアの〈紛争〉―脱植民地期以降のフィールドから』(昭和堂、2013年)など。


野上恵美(のがみ えみ)
神戸大学大学院国際文化学研究科博士後期課程。専攻は文化人類学、移民、難民、マイノリティ研究。主な論文に「就労現場におけるベトナム難民の受け入れと町工場が果たした役割―兵庫県姫路市高木・神戸市長田区を事例に」『難民研究ジャーナル』4号(2014年、共著論文)、「在日ベトナム人に関する研究の課題と展望」『神戸文化人類学研究』3号(2011年)など。


山口隆子(やまぐち たかこ)
神戸大学国際文化学研究推進センター協力研究員。専攻は文化人類学、観光・ホームステイ研究。主な論文に「1940(昭和15)年東京でのホームステイの成立とその動態的な諸相―国際観光局の外人招請事業をひとつの参照点として」『旅の文化研究所研究報告』24号(2014年)、「「ホームステイ」誕生の背景と求められた異文化理解―世界で最初のホームステイ組織・EILを事例に」『神戸文化人類学研究』2号(2008年)など。


安 成浩(あん せいこう)
浙江大学人文学院専任講師。専攻は文化人類学、東アジア地域研究。著書に『族群社会発展與変遷―朝鮮族社会調査研究(エスニック・グループの社会発展と変動―朝鮮族社会の調査研究)』(浙江大学出版社、2014年)、共編著書に『韓国研究』十三輯(民族出版社、2014年)など。


澤野美智子(さわの みちこ)
神戸大学国際文化学研究推進センター協力研究員(立命館大学総合心理学部准教授、2017年4月着任予定)。専攻は文化人類学、韓国研究。主な論文に「墓の変化から見る韓国の家族」『東北アジア研究』18号(2014年)、「ケアの再構成を通した韓国の家族再考―既婚女性の乳がん患者の事例」『文化人類学』77巻4号(2013年)など。


久保忠行(くぼ ただゆき)
大妻女子大学比較文化学部専任講師。専攻は文化人類学、移民・難民研究。著書に『難民の人類学―タイ・ビルマ国境のカレンニー難民の移動と定住―』(清水弘文堂書房、2014年)、主な論文に「タイのカヤン観光の成立と変遷―観光人類学の枠組みを再考する」『東南アジア研究』51巻2号(2014年)など。


中原聖乃(なかはら さとえ)
中京大学社会科学研究所特任研究員。専攻は文化人類学、マーシャル諸島研究。著書に 『放射能難民から生活圏再生へ―マーシャルからフクシマへの伝言』(法律文化社、2012年)、共編著書に『核時代のマーシャル諸島―社会・文化・歴史、そしてヒバクシャ』(凱風社、2013年)など。

椎野若菜(しいの わかな)
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所准教授。専攻は社会人類学、東アフリカ民族誌。著書に『結婚と死をめぐる女の民族誌―ケニア・ルオ社会における女が男を選ぶとき』(世界思想社、2008 年)、編著書に『シングルのつなぐ縁』(人文書院、2014年)など。


白川千尋(しらかわ ちひろ)
大阪大学人間科学研究科准教授。専攻は文化人類学。著書に『南太平洋の伝統医療とむきあう―マラリア対策の現場から』(臨川書店、2015年)、『テレビが映した「異文化」―メラネシアの人々の取り上げられ方』(風響社、2014年)など。


吉岡政德(よしおか まさのり)
神戸大学大学院国際文化学研究科教授。専攻は社会人類学。著書にThe Story of Raga: David Tevimule's Ethnography on His Own Society, North Raga of Vanuatu (JSOS Monograph Series Vol.1, The Japanese Society for Oceanic Studies, 2013) 『反・ポストコロニアル人類学―ポストコロニアルを生きるメラネシア』(風響社、2005年)、『メラネシアの位階階梯制社会―北部ラガにおける親族・交換・リーダーシップ』(風響社、1998年)など。

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