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戦争と難民 42

メコンデルタ多民族社会のオーラル・ヒストリー

戦争と難民

戦争や貧困から人は移動し、民族や言語、宗教の接触が生じる。地域社会の再編過程を歴史と語りからダイナミックに描く。

著者 下條 尚志
ジャンル 歴史・考古・言語
シリーズ ブックレット《アジアを学ぼう》
出版年月日 2016/10/15
ISBN 9784894897908
判型・ページ数 A5・68ページ
定価 本体800円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

一 混淆的な多民族社会
 1 統計ではみえない「混血」の人々
 2 多元的な言語
 3 複数の宗教活動の許容
 4 民族をめぐる自他認識

二 弱者を受け入れてきた地域社会
 1 輸出米生産の拡大による在来住民と移民の接触
 2 インドシナ戦争下の民族間対立
 3 民族間衝突からの避難と定住

三 インドシナ難民
 1 ベトナム戦争後の人口流出と米取引関係の再構築
 2 国境紛争からの疎開者の流入と農地関係の再編

四 出入り可能な社会
 1 国境を往来する人々
 2 カンボジアから流れてくるモノ
 3 越境するメディア
 4 往来する人・モノ・メディアと国家の媒介者

おわりに
注・参考文献
あとがき

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内容説明

クメール人、華人、ベト人共生のデルタから人間の移動を考える
戦争や貧困から人の移動が起こり、民族や言語、宗教の異なる人々の接触が生まれ、やがて新たな社会関係が築かれていく。地域社会の再編を歴史と語りからダイナミックに描く。

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 では、なぜソクチャン省ではクメール人が多く住み続けてきたのだろうか。図1のとおり同省と隣のチャヴィン省は、南シナ海に面し、バサック河(ベトナム名ハウ河)の流域に位置している(図1)。そこには、大河による堆積によって形成された沖積地で砂質土壌の微高地が点在しており、ベトナムの政治権力が及ぶ以前から、クメール語を話す人々が上座仏教寺院の周辺に住んでいたと考えられている。つまり、周辺地域と比べて海抜が微妙に高い土地は、浸水しにくく、植民地開発によってメコンデルタの環境が激変する以前から、既に人間の居住を可能にしていた。そこに暮らす人々は、ベトナムを除く東南アジア大陸部で広く信仰されている上座仏教の世界のなかに包摂されてきたのである。こうした歴史的経緯もあり、クメール人の多くから、メコンデルタは「下カンボジア」という意味で「カンプチア・クロム」と呼ばれ、かつてカンボジアの領土であったと考えられてきた。

 一方ソクチャン省の華人人口がメコンデルタで最大なのは、そこが中国沿岸部から東南アジア各地にかけて広がる海上交易ルート、さらにプノンペンをはじめ東南アジア内陸部の主要都市を結ぶ河川流域交易ルートの中継地点であったためである[Li 2005]。加えて、一七世紀に清朝の成立によって明朝の遺臣が入植してきたこと、一九世紀半ば以降のフランスの植民地開発や中国の政治的動乱を背景に、中国から多くの住民が移住してきたことも大きく関係している。ベトナム戦争中に書かれたモノグラフによれば、華人商人の商業活動は、一九五八年当時の南ベトナム全体における交易の八〇%を占め[Schrock et. al. 1966: 986]、一九六九年頃のソクチャン省では、同省の総所得の三分の二を占めていた[Trương Văn Nam 1969: 26]。

 このように、ベトナムの国家領域の成立とベト人の開拓精神を結び付けたナショナル・ヒストリーに反し、ソクチャン省の多民族社会は、メコンデルタという地域が、国境を越えた世界と常に結びついて形成されてきたことを最も明確に映し出している。こうした地域的特徴を持つソクチャン省の一地域社会を例に、本書は、一九世紀末以降に生じてきたメコンデルタの人々の移動にまつわる問題について考えていきたい。

 本書の構成は次のとおりである。第一節では、異民族間の通婚によって混淆的な地域社会が形成されてきたフータン社の民族、言語、宗教の状況を説明する。続く第二節、第三節では、このような状況が形成されてきた背景を探るため、経済的困窮や民族間、国家間紛争による移動と地域社会の再編の歴史を検討する。そして第四節では、紛争の原因となってきたベトナム―カンボジアという二つの政治共同体の国境線について考えるため、両国を往来してきた人々の生い立ちや、国境を越えて地域社会に流入してくるモノやメディアの人々への影響を考察する。

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著者紹介
下條尚志(しもじょう ひさし)
1984年、東京都生まれ。 京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。 現在、京都大学東南アジア研究所機関研究員。 主な論文に「メコンデルタにおける支配をめぐるせめぎあい――地域社会の人々のローカル秩序と回避の「場」」(『東南アジア研究』第51巻2号)、「脱植民地化過程のメコンデルタにおけるクメール人の言語・仏教・帰属」(『アジア・アフリカ地域研究』第15巻1号)などがある。

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