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江南の水上居民

太湖漁民の信仰生活とその変容

江南の水上居民

「漁業社会主義改造」により陸上定住者となった漁民の国民国家への統合プロセスを追いながら、生活や文化の変化と持続の両面を分析。

著者 胡 艶紅
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2017/02/20
ISBN 9784894892392
判型・ページ数 A5・368ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

まえがき
序論
第一章 民国期における漁民社会
      ――外部との関わりから(共産党政権以前)
第二章 船上の居住生活(一九五三年まで)
第三章 「漁業社会主義改造」以前の信仰生活(一九五三年まで)
第四章 「漁業社会主義改造」の時代(一九五〇〜一九七〇年代)
第五章 「迷信」に対する弾圧と秘密裏の信仰生活(一九五〇〜一九七〇年代)
第六章 「陸上定居」と陸上生活における祭礼(一九八〇年代〜現在)
第七章 信仰生活の変容と持続(一九八〇年代〜現在)
終章
あとがき
参考文献
主要登場人物および話者一覧表
索引

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内容説明

古くから船上で暮らしてきた太湖の漁民たち。建国後の「漁業社会主義改造」により陸上定住者となった彼らの暮らしの変化とは何か。国民国家への統合プロセスを追いながら、漁民社会・信仰生活に焦点を当て、変化と持続の両面を分析。歴史民俗学の貴重な成果。

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まえがきより

 

 筆者は一九八〇年代の幼少期を江南地方で過ごした。子どもの頃は、実家の近くにある小さな川を通る船の姿をよく見かけた。船がどこから来て、どこに行くのか、という不思議な感覚が現れては消えたものだった。水上の世界は陸上の世界とどう違うのだろう。しかし、強い関心を持っていたわけではなかった。二〇〇七年、日本に留学し、日本民俗学を専攻する中で、筆者は日本には漁民研究がたくさんあることを知った。しかし、水郷と呼ばれる江南には、漁業に携わる船上生活者が多くいるはずなのに、なぜそれらに関する研究はほとんどないのだろうか。ふと考えてみると、近ごろは故郷の小さい川を通る船の姿があまり見られなくなったような気がしてきた。何があったのだろうか。こういう単純な疑問を持って、江南地方における太湖の漁民を調べ始めた。

 二〇一〇年七月に初めてフィールドワークを始めたとき、漁村の場所を探すのに大変苦労した。ここでいう「漁村」とは、漁業を生業とする人々がもともと陸上で暮らす村ではない。筆者が探した漁村は、太湖での水上居民が陸上に上がり、定住するようになった村である。文献資料を見ていたので、大体の場所は分かっていた。しかし、目の前に太湖が広がっているのに、地域住民に漁村がどこにあるのかと聞いてもほとんどの人が知らなかった。現実には、そこはすでに漁村から遠くない場所であったが……。歩きながら、会う人会う人に話をしてようやく案内できる人を見つけた。多数の地域住民が、近くに住むはずの漁民のことをほとんど知っていないことがわかった。なぜなら、子どもの頃の私と同じように、彼らは船上生活の漁民に関心をもっていなかったからだ。その一方で、調査を進めていくと、漁民たちが定住し始めてから五〇年しか経っていないこともわかった。定住してからも、周辺の村との関わりが少なかったのである。外部の人間は太湖の漁民の定住後の状況さえ知らないので、定住以前の事情はなおのこと知られていないのだろう。地元の文献を調べると、太湖の漁民に関する最も詳しい記述は陳俊才という郷土史家による報告だということが分かった。しかし、漁民たちの定住以前の、陸上の人々と異なる一部の独特な生活慣習や信仰が静態的に記述されているだけであり、定住以降の動態的変容は陳の関心ではなかった。

 筆者は調査中、定住後の変化を中心に聞き書きを一生懸命行っていたが、時々信仰や祭礼について聞くと、「前とあまり変わらない」とか「前と一緒だ」という答えがかえってきて、困っていた。「本当に?」と疑問を持ちながら、祭礼の詳しい作法の調査を続けた。そこで発見したのは、漁民たちは船上生活の時代の生活論理や信仰についての意識、つまり以前の経験に基づいて定住の変化に対応してきたということである。それゆえ、激しい変化を経験した太湖の漁民社会に注目する際には、変容だけではなく、彼らにとって何が変わっていないのかを探る必要もあるということに思いいたった。研究者としての客観的考察が必要である一方、研究対象を主体として彼らの考えや主張に耳を傾けて記述し分析する必要もあるのである。

 以上の問題関心を持って、本書は、中国江南地方(太湖)の水上居民のうち、特に船上で暮らしていた大型漁船民を研究対象として、集団化政策や「陸上定居」のような「漁業社会主義改造」により大きな影響を受けた彼らの生活、特に信仰生活に着目し、時代ごとの変化と持続の両面を歴史民俗学的に論じるものである。

 具体的には、以下の二つの課題を提示する。すなわち①中華民国期から現代に至る、太湖の漁民の国民国家への統合プロセス、②大きな社会変革を経験した漁民社会・信仰生活の変化、およびその変化のなかで持続しているものを明らかにする。

 日本における中国の人類学・民俗学的研究は主にフィールドワークに基づくものであり、一方歴史学的研究では文献資料を中心に行われてきたため、両者間の交流が少なかった。しかし、現代中国におけるミクロな地域社会に注目するに際しては、政治経済的変動に注目しながら歴史学の研究成果をふまえて分析する必要がある。近年フィールドワークと文献資料を融合した「歴史人類学」や「オーラル・ヒストリー」などの研究方法が盛んになっている。このような潮流のなかで、フィールドワークと文献資料、特に中国人研究者しか扱えない檔案史料を融合したことが本書の最大の特徴である。

 また、改革開放以降、中国でのフィールドワークが行われやすくなってから、日本では中国の水上居民の研究が蓄積されてきた。しかしながら、それらは日本人研究者による異文化の視点からの研究であり、それに対して本書は檔案史料の入手や筆者の地元である蘇州方言を活用するなど、ネイティブ研究者としてのメリットを生かしたものである。

 本書で述べることは、広大な中国における水上居民の一例にすぎない。この江南の水上居民の事例から拡大して考えると、中国社会は一〇〇年以上にわたる近代化の中で、大きな変化を被ったが、この変化については多くの議論がなされてきた。そのなかには、「五四運動」や「文化大革命」などによって、中国社会や文化には断絶が生じたという議論がしばしばみられる。しかし筆者は、一回弾圧されてまた復興したり、また船上生活から陸上生活に合わせて個々の水上居民が実践してきた祭礼や信仰活動を分析した結果、それは完全になくなったわけではなく、むしろ形を変えて、一見すると判別できない形で持続していることを明らかにする。「完全に終わる伝統は存在しておらず、完全に伝統と断絶した現代も存在していない」[岳永逸 二〇一〇b:四九]のである。

 今日においても、中国では様々な改革がまだ続けられている。中国社会や人々の生活は変化を余儀なくされている。中国社会の変容をめぐる議論はこれからも大きな課題になるであろう。現在まで、そして今後の中国社会変容に注目する際に、本書が提示する事例が少しでも貢献できれば幸いである。

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著者紹介

胡 艶紅(こ・えんこう Hu Yanhong)
1981年、中国江蘇省生まれ。
2015年、筑波大学人文社会科学研究科 歴史・人類学専攻博士課程修了。博士(歴史民俗学)。
2016年4月より東京都江戸東京博物館都市歴史研究室 専門調査員。
主要論文に、「『廟巡り』の持続と変貌―太湖における漁民の『焼香活動』を中心に」(『旅の文化研究所研究報告』第24号、2014年)、「民国期における太湖の漁民社会―大型漁船漁民の事例を中心に」(『社会文化史学』第57号、2014年)、「現代中国における漁民信仰の変容」(『現代民俗学』第4号、2012年)など。

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