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消えない差異と生きる 47

南部フィリピンのイスラームとキリスト教

消えない差異と生きる

ラマダーンやクリスマス、恋愛・結婚・二人目の妻。明るく開けっぴろげな庶民の暮らしに潜む「境界」を描く。

著者 吉澤 あすな
ジャンル 人類学
シリーズ ブックレット《アジアを学ぼう》
出版年月日 2017/12/15
ISBN 9784894897960
判型・ページ数 A5・68ページ
定価 本体800円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

一 私のフィールド

 1 南部フィリピンの歴史
 2 イリガンの人・治安

 身を寄せ合って生きる

 1 一緒に暮らした家族
 2 ご飯
 3 質入れ
 4 電気が消えた⁉
 5 新しい海辺の家
 6 二つのお祈り
 7 糖尿病の恐怖
 8 イスラーム教徒から見たクリスマス
 9 ラマダーンは大変

三 入り乱れる宗教、揺れる信仰

 1 カトリックからプロテスタントへ――ボーン・アゲイン・クリスチャンの場合
 2 勢いづくバリック・イスラーム――キリスト教とイスラームの境目
 3 信仰告白とその先
 4 テロや紛争のニュースを見聞きするたび思い出すこと

四 家族になる

 1 キリスト教徒とイスラーム教徒の結婚――三人の女性のストーリー
 2 他にも妻がいること、許せる?
 3 子どもの宗教選択
 4 新たな家族をつくる

おわりに――綺麗ごとじゃない日常がつくる平和

参考文献
あとがき

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内容説明

綺麗ごとじゃない日常と共存のリアリティ
マラナオ族の家庭に住み込んだ著者。ラマダーンやクリスマス、恋愛・結婚・二人目の妻。明るく開けっぴろげな庶民の暮らしに潜む「境界」を描く。

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 ……イリガン滞在中、私が調べようと思っていたのは「キリスト教徒とイスラーム教徒の共存」についてだった。イリガンを含む南部フィリピンでは、一九六〇年代末からイスラーム教徒を中心に分離独立運動が起き、長年紛争が続いてきた。そのため日本にいる時に読んだ文献では、先住民のイスラーム教徒と、フィリピン中・北部からの移民が多いキリスト教徒の間に対立する状況があるとされていた。対立があるとはいえ、人々は同じ町に住んでいる。彼らはどんな風に一緒に暮らしているのだろうかと、私は疑問に感じていた。実際に町を歩いてみると、立ち並ぶモスクと教会からは、アザーン(礼拝の呼びかけ)や聖歌が交互に聞こえてくる。道行く女性に目をやれば、Tシャツに短パンといった装いだけでなく、カラフルなヒジャーブとジーンズ姿の少女達や全身黒色のイスラームの装束を着た人々が行き交う。イリガンは異なる宗教の共存を実現したユートピアのように思われた。

 しかし、そのイリガンで近年、宗教間の緊張が高まった時期があった。二〇〇八年、イスラーム教徒など南部フィリピンの先住民の権利を守るため、これまでの「ムスリム・ミンダナオ自治地域」に加えて、新たに住民投票で選択した土地を自治地域の範囲とする合意が結ばれた時のことだ。イリガン市内でも複数の自治体が住民投票を行う地域に含まれた。しかし、地域に利権を持つ有力者やキリスト教徒の市民の間で反発が広がり、猛烈な反対運動が起こった。その結果、イリガンを含むいくつかの地方政府から違憲の申し立てがなされ、最終的に最高裁判所によって合意は違憲であるとの判断が下されたのだ。これに対し、合意を反故にされたと反発するイスラーム組織と政府軍との武力衝突が起きたことによって数十万人の難民が発生する事態となった。あるキリスト教徒のNGOスタッフは「当時は不安や恐怖から反対運動に参加してしまった。そのせいでイリガンではイスラーム教徒とキリスト教徒との対立が深まった」と語った。

 このエピソードには、南部フィリピンで進められている和平プロセスの脆弱性が表れているように思う。自治地域の成立をめぐって集団と集団を分ける境界線が明確化されるという側面だ。住民の状況は一人一人異なるはずなのに、「キリスト教徒」もしくは、「イスラーム教徒」としての利害に二分されてしまう。こうした亀裂によって生まれる不安や不信感は、テロや武力蜂起への賛同に繋がる可能性があり、平和を脅かすリスクを高めかねない。

 イリガンでは、この時の経験が教訓として今に生かされている。「二〇〇八年と同じことを繰り返さないよう、イスラーム教徒とキリスト教徒の相互理解が必要」との共通の想いのもと、NGOや大学は定期的に互いの活動報告を行い、勉強会を共同で開催するようになった。現地の大学で宗教や民族の違いについて学ぶワークショップを見学した際には、宗教の異なる参加者が互いの意見に耳を傾け、信頼関係を築く様子を目の当たりにした。

 ただ、こうしたオフィシャルな平和教育/相互理解は理念的であるがために、和平プロセスの脆弱性を根本的には打破することができないのではないだろうか。なぜなら彼らが説く平和的共存は、「あるべき姿」を語りがちだからだ。そこでは「あるべきキリスト教徒」と「あるべきイスラーム教徒」が想定され、二つがきっちりと分けられた上で調和的に共存する社会が理想とされる。現実に起きている差異をめぐる葛藤も、規範から外れる行いや価値観も考慮されない。そのように、両者の間に固定的な境界線があることを前提とする限り、一旦亀裂が入れば関係が悪化する危険から逃れられない。相互理解の取り組みは、不信感や不安が増幅していく過程に一定の歯止めをかける役割を担いうる。しかし、自治地域成立を目指す和平プロセスと同様、両者が絡まり合った複雑な社会関係という現実に反して、境界線を明確化してしまうジレンマを抱えたままだ。

 一方、私はイリガンで暮らすうち、その境界線自体を攪乱する共存のリアリティを目の当たりにすることになった。それは「普通の人々」の日常にあった。彼らは、隣人として、時に恋人同士や家族として実に様々な関係を結ぶ。相手の悪口を言っていると思ったら、次の瞬間には仲良くしている。完全に気を許してはいないけれど、決して排除はせずに困っていたら助ける。「彼らは私達と違う」とすぐに線引きしようとするのに、「彼ら」と「私達」の範囲はその時々で変わる。改宗者や異宗教間結婚の家族のように、自分自身が異なる宗教・民族の間で揺れ動いている人達もいる。その結果、「イスラーム教徒」と「キリスト教徒」の生活や利害は絡み合い、境界線は交錯し、曖昧になっていく。対立だけでも、美しい友好関係だけでも終わらない彼らの雑多な営みこそが、和平プロセスや平和的共存の言説におけるジレンマを超えて、草の根の平和を支える力を持つのではないかと感じるようになった。

 本書は「キリスト教徒とイスラーム教徒の綺麗ごとじゃない日常」を軸として、私が出会った一人一人の物語をひたすら綴ろうとしたものである。その方が、論文形式よりも、現地社会の断片を鮮やかに浮き上がらせることができると考えたからだ。第一節において南部フィリピンの歴史とイリガンの様子を概観した後、第二節ではホストファミリーや隣人との日常生活、第三節ではキリスト教からイスラームへの改宗、第四節では異宗教間結婚を主な題材として現地の生活について述べる。サラとの出会いが象徴するように、イリガンでの経験は異質なものがある時は自然に、ある時は不協和音を持って共存する状況の連続だった。一つの常識が、ある人達にとってあり得ない行動であり、互いに批判しあっているようで、実際に出会うと意外と穏やかに会話がなされたりした。横でハラハラしているのは私だけということもよくあった。そうした「異質なもの」、「他者」と共にある人々の生き方が重要な意味を持つのはイリガンに限った話ではない。宗教に限らず、価値観の違う人同士が折り合いをつけながら関係を築く場面は日本にもたくさんある。本書を読むあなたの経験ときっとどこかで繋がるはずだ。……

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著者紹介
吉澤あすな(よしざわ あすな)
1987年、京都府生まれ。
京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士後期課程中退。
主な著作に「イスラーム教徒とキリスト教徒の共存」(『フィリピンを知るための64章』明石書店、2016年)、「南部フィリピンにおけるムスリム-クリスチャン関係の歴史と言説――インターマリッジの理解に向けて」(『アジア・アフリカ地域研究』第13巻第1号、2013年)がある。

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