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近代上海の都市形成史

国際競争下の租界開発

近代上海の都市形成史

列強の租界を包含しながら都市インフラ、港湾を建設。政治経済のうねりと生活空間形成の変転を見つめた建築史の新たな挑戦。

著者 陳 雲蓮
ジャンル 歴史・考古・言語
出版年月日 2018/02/20
ISBN 9784894892484
判型・ページ数 A5・380ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

口絵

 序論 上海─近代東アジア開港場の起点
  1 本書の背景と目的
  2 先行研究と本書の課題
  3 本書の視点と構成
  4 租界の支配制度と外交交渉

●I部 上海の建設とインフラストラクチャー

 第1章 都市整備制度と土地章程
  本章の課題
  1 租界の体制と用語の説明
  2 各土地章程の内容
  3 都市整備制度の原点:1845年土地章程
  4 都市整備制度の改訂:1854年以降の土地章程
  小結
 第2章 旧来の水路と集落
  本章の課題
  1 旧来の上海地域に対する認識
  2 水路に関する考察
  3 集落の空間構成
  小結
 第3章 水路と街路の複層化
  本章の課題
  1 都市開発の問題と主体
  2 道路整備
  3 土地開発
  4 下水道計画
  5 官民交渉の都市整備体制
  小結
 第4章 国際的港湾の造成
  本章の課題
  1 黄浦江の航路整備
  2 上海港の発展過程
  3 上海港の建設と中国人
  4 B&S商会の東アジア航路網と港湾施設
  5 イギリス国内の河港と上海港の違いに関する考察
  小結

●II部 都市空間の形成と英日中関係

 第5章 外国租界の都市空間と居住形態
  本章の課題
  1 住宅建築と建設過程
  2 外国人の居住形態
  3 都市拡張と都市形態
  小結
 第6章 日本郵船の虹口港建設
  本章の課題
  1 背景:日本人による上海進出
  2 虹口碼頭の立地問題と交渉内容
  3 1888年新計画と日本外務省との交渉
  4 1890年増築案と工部局との交渉
  小結
 第7章 日本の上海進出と都市開発
  本章の課題
  1 日本専管居留地の設置動向
  2 日本政府の調査活動と結果
  3 都市開発
  小結
 第8章  北四川路の日本人住宅地の形成と英日中
  本章の課題
  1 北四川路地区の開発
  2 住宅の様式と整備過程
  3 北四川路地区の特徴
  4 日本人の移住と北四川路の変容
  5 日本人の住宅と都市施設
  6 日英中の交渉による日本人住宅地の管理
  小結
 終論 上海から東アジアへ
  1 国際交渉と租界開発
  2 研究展望:支配制度と生活空間の形成

  初出一覧
  あとがき
  引用文献一覧
  索引
  写真・地図・図表一覧

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内容説明

世界有数の港湾都市はいかにして生まれたのか。
東アジア開港場の一つとして出発した上海は、列強の租界を包含しながら都市インフラ、そして港湾を建設していく。政治経済のうねりと生活空間形成の変転を見つめた建築史の新たな挑戦。

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序論 上海:近代東アジア開港場の起点




1 本書の背景と目的

1  近代中国の外国租界
 近代中国の外国租界(Foreign Settlement/Concession)とは、1840年から1842年までのアヘン戦争以降、清朝中国と欧米列強の間に結ばれた不平等条約に基づき、外国人商人が開港場で貿易活動を行い、かつ居住するために設定された一定の区域を指す。都市の類型から言うと、租界の性格は、近代日本の開港場に設けられた西洋人居留地と同様である。
1850年代以降、租界は中国国内の内乱や急激に変化する東アジアの国際情勢により、租界設置当初の清朝と諸外国の意図とは裏腹に、外国人のみならず、中国人も居住し、やがて国際大都市として発展を遂げるようになった。

 租界の拡張と市街地開発は、近代中国の貿易港の都市化を決定付け、その影響は今日の中国大経済都市圏の形成と拡張にまで及んでいる。

 まず、広東、廈門、福州府、寧波、上海の五港開港は、1842年8月29日、イギリス政府と清朝中国政府の間に締結された「南京条約」に根拠を持つ。それらはイギリス領事の着任をもって開港の日とする。

 ついで、1858年、清朝とロシア、アメリカ、フランス、イギリスの間に締結された「天津条約」により、牛荘、漢口、登州(山東)、南京、淡水(台湾)などの10港が開港された。2年後の1860年には、また、清朝とイギリス、フランスとロシアの間に締結された「北京条約」により、北京への入口と見なされた天津もついに開港場の仲間入りを果たした。
その後、中国の開港場には、順次、外国人の貿易活動と居住のための外国租界が開かれるようになった。上海について言えば、開港は、1843年11月のイギリス領事バルフォア将軍の着任からである。上海租界の設定は、1845年の最初の土地章程に基づく。血まみれで動乱の近代に出現した中国各地の外国租界は、近代東アジアの歴史上、一般の植民地とは異なり、特異な位置をしめ、特異な役割を果たし続けるものとなった。……

    (中略)

4 近代東アジア開港場の起点
 世界の中における上海の位置付けと国際競争下の上海開発の実態を踏まえ、本節では「近代東アジア開港場の起点」の意味について説明する。

 まず、上海は、1842年中英の南京条約の締結により開港された中国沿海部の五港、および1854年日米和親条約の締結以降に開かれた日本の横浜、神戸、函館などの中で一番早くかつよく整備された外国租界であった。なおかつ、それは、工部局(Municipal Council, 1854-1948)を中心とした外国人自治体制のもとで開発を遂げた外国租界である。
本書の各章で分析するように、東アジア沿海部の諸港の中で、イギリス、中国と後発の日本により確立された都市整備の制度、体制、資金の捻出方法、および主にヨーロッパから輸入してきた都市整備の技術、都市空間の構成、商業・公共・宗教・住宅の建築様式は、上海租界において最も整っていた。

 ついで、19世紀半ばから上海で蓄積された都市整備に関する専門情報は、人々の移動により、上海から東アジアの諸港へと発信されていった。第1章で取り上げる土地章程の作成と移動過程がその恰好な実例である。例えば、1846年から、上海領事を勤め、イギリス租界の建設に取り組んでいたオルコックは、1855年以降、広州、江戸、北京と転勤し、広州租界、横浜居留地、天津租界の都市整備制度の作成にかかわった。同様に、1895年日清戦争後、上海に赴任してきた珍田捨巳を始めとした日本人外交官らは、上海で日本専管居留地の設置活動を行ってから、その実務経験に基づいて、中国の沿海部と揚子江流域の貿易都市で日本居留地の設置と建設に取り組むことになった。

 最後に、1840年代からイギリス人により建設された上海租界の都市モデルがその後に開港された東アジアの開港場に当地の地形、立地条件に合わせ、応用されたこの点においても上海は東アジアの開港場の起点であると言える。

 例えば、上海租界の都市空間を構成する主要素、すなわち河沿いの遊歩道にあたるバンド、およびバンド沿いに建てられたジャーデン・マセソン商会、バターフィルド&スワイア商会、香港上海銀行をはじめとした近代の主要商会と銀行、また市街地には教会、競馬場、レクリエーション・グランドが、いずれもほかの開港場においても見られる。周知のように、それらの建築群と施設が、今なお、旧開港場都市の象徴的な都市景観を形成している。

 19世紀後半から20世紀初期まで、上海の経済が好調に続いたため、上記の国際商会、銀行、さらに聖書販売の団体である英国聖書公会が上海で東アジア地域の本部を構え、それぞれが自社の商売戦略に基づき、各港での建設活動ならびにビジネス業務を総括していた。英国聖書公会のように、多くのイギリス商会はわざわざ現地に赴かなくても、上海本部で決定された建築プランをほかの開港場の建設に応用した事例が屡々見られた。

5 本書の目的と論点
 本書の目的は、近代上海を取り巻く国際社会、中国社会の情勢を念頭におきつつ、上海、租界(居留地)史研究史上における最も基礎的なことだが、未だに空白な部分である上海外国租界の都市誕生、都市基盤の建設過程、都市空間の形成過程について体系的にかつ具体的に解明することにある。

 とりわけ1840年代から1940年代までの1世紀に渡り、上海租界における実際の都市開発プロジェクトに着目し、それらに関わった各国の政府ならびに各階層の民間人の思惑、利益紛争、交渉過程と妥協点が、どのように、直接、都市の整備制度、形態、空間、人々の居住形態に反映され、その結果によって、上海租界の都市空間が形成されたのかについて論ずる。
主として、英語、日本語、古典漢文、現代中国語、フランス語を含めた多言語の一次史料解読、現地での建築遺構調査を通じ、都市空間形成史に立脚し、近代東アジア外交史とも接続しつつ、「国際交渉と租界開発」という新たな論点を提示し、租界の都市基盤と都市空間の成立過程を動的に捉えることにより、租界(居留地)の都市史、建築史研究に新たな地平を拓くことを目指す。

 ここでの「国際交渉」は以下の二つのレベルに分けられる。マクロ的には、欧米列強、日本、中国が近代東アジアでの利害関係、近代中国の開港場で租界の開設をめぐるそれぞれの思惑と政府レベルでの外交交渉を指す。ミクロ的には、租界都市の開発過程の中において、道路、下水道、住宅地整備と管理、公共施設、都市基盤の開発用地、費用の捻出に関し、各国の民間人と諸国の政府、租界政府との交渉、外国人と中国人との交渉、外国人同士の交渉である。

 前者においては、西洋と東洋の権力側が外交交渉の過程を経てから作成した都市の整備制度が、いかに租界都市の形成に関わるヒト、モノ、カネ、情報を規定していったのかを解明する。後者においては、都市工学的視点から、土地、道路、下水道、建物、港湾を建設する際に生じた様々な関係者の直接衝突、交渉、和解の過程を経て、都市開発の計画案がどのように決められていったのかを究明する。

 換言すれば、国際交渉と租界開発をキーワードとして、都市のインフラストラクチャーと建築空間の成立過程を主軸に、本書は、1830年代のアヘン戦争以前において、南のシャムから中国、琉球、日本の沿岸部、および北の朝鮮半島までの東南アジアの海域で絶えず貿易拠点を模索していたイギリス注13)と当該地域と海域において、圧倒的な「伝統権威」を固持していた清朝の直接衝突を中心に、イギリスと清朝の周辺で働き掛けるフランス、アメリカと日本の動きという大きな歴史的構図を描きながら、近世・近代の交替期並びに東西衝突期における近代上海の都市空間の形成過程を論述する。

 とりわけ、イギリス政府が上海租界の都市開発をめぐる国際交渉の中で優位に立ち、自らの貿易拠点を確保するため、どのような戦略を立て、どのような人材を投入し、そしてどのように各社会階層に属する中国人とも折り合いをつけながら、都市基盤、港湾、公共施設、生活空間と郊外住宅地の整備を実行していったのか、そして最終的に、イギリス人を始めとした外国人が作り上げた都市空間、特に生活空間、および同時に形成された新しい国際社会はどのような特徴を持っていたのかが、本書の主な課題である。

 一方で、イギリス、アメリカ、フランス、日本側の記録史料からは、イギリス人主導の租界開発でありながらも、垣間に様々な中国人の姿が見えてくる。例えば、租界自治体制のバックアップとなった清朝中央政府の官僚と上海地方官の道台、租界にいた旧来の中国人地主、地方から租界に見物しにきた旅行者、建築の建設現場で働く大工と職人、外国人に仕える買辧、使用人、クーリー。要するに、近代、上海に渡航してきた外国人らは、まさに複雑極まりない清朝末期と中華民国期の中国人社会に立脚し、自らの生活基盤を整備しながら、東アジアにおける世界の貿易拠点である上海租界を開発するという命題を実現させていったのである。

 租界(居留地)研究史の中でより大きく捉えれば、本書は、上海に止まらず、東アジアの諸開港場の空間上における近世と近代の接点、大勢の民間人も参入し、近代の欧米の権力と制度が、いかにして近世の東アジアの権力と制度を覆しながら、それらを徐々に解体していくうちに、新しい都市空間と社会を作り上げていった過程を、視覚的に読者に示すとともに、近世・近代交替期、東西衝突期における租界(居留地)の新たな都市空間形成史を描きたい。

 本書の研究対象となる上海「租界」の範囲を、共同租界とフランス租界政府の支配が実際に行き届いた地域と特定した。具体的には、1843年の上海開港から1948年の外国租界の中国返還まで、終始、都市の主要区域をなし、租界政府と民間の人々が入念にそこで都市開発と市街地管理を行い、かつながく貿易活動、生活を営んでいた外国租界と越界築路地区(Extension Area)、及び同時に造成された黄浦江両側の港湾地区を指す(口絵の地図1)。

 一方、呉淞および外国租界のやや北側に位置する江湾地区も近代上海の都市発展を考える上で主要な地区である。例えば、江湾地区は、1930年1月に、辛亥革命(1911年)後に成立した中華民国政府の上海特別市の中心地として指定された。そこで、上海市庁、図書館、博物館、体育館、病院と衛生実験所が、順次、竣工したが、1937年に勃発した上海事変において当該地区の開発の中断を余儀なくされた注14)。1938年に、日本軍が、上海を占領した後、呉淞、中華民国政府の上海特別市の中心区と外国租界を統合する「大上海計画」を打ち出したが、戦時中のため、この計画はほぼ実現されていなかった。なおかつ、1945年日本敗戦に伴い、日本人が引き揚げると、この計画自身も幻と化した注15)。そのため、本書は、近代において、全般的な都市機能と生活環境がうまく造成されていなかったとみられる江湾地区、呉淞地区の都市計画は研究の対象範囲としない。

 21世紀の現在となって、近代中国の租界のみならず、東アジアの開港場の都市基盤と建築が消えつつあり、租界・居留地の概念も薄れつつある。開港場都市の成立に関わった人々の活動に目を向け、近代東アジアの開港場が、今日のグローバル社会の形成に与えた影響、および彼らが残してくれた歴史的都市と建築遺産の価値と意義について改めて思考したいと強く思った。

 本研究は、突然に中国の各地に押し寄せてきた都市再開発の波と競走するかのように、上海を筆頭とした都市の大変貌を目の当たりにしながら、筆者が2004年から本格的に進めてきたものである。目に見える「モノ」としての都市と建築の成立過程に着目し、上海を含めた東アジアの開港場で都市建設にかかわった各国の人々、多くの名前さえ知られていない無名の人々の活動を真剣に探求し、近代世界史の範疇の中で、上海租界が国際都市として開発されたその歴史的事実の意義を再評価するのが本書の最大の狙いである。

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著者紹介
陳雲蓮(Chen Yunlian)
1978年、中国浙江省生まれ。
2010年、京都府立大学大学院人間環境科学研究科博士課程修了、博士(学術)。
日本学術振興会外国人特別研究員(名古屋大学、2010-2012)、ケンブリッジ大学・ウルフソンカレッジ客員研究員(正式在籍、2012-2016)を経て、現在、岡山大学グローバル・パートナーズ(旧国際センター)専任講師(特任)。
〈主な論文〉
「西洋人居留地から日本植民地への移行期における台湾の打狗(高雄)築港に関する研究」(『台湾研究』pp.53-82、拓殖大学海外事情研究所付属台湾研究センター、 2017年3月)、 Making a world harbour in Shanghai, 1908-1920, 11th The International Symposium on Architectural Interchanges in Asia, Tohoku University, Sendai, September 22-23, 2016、「イギリス人建築家及び建築組織事務所による上海での不動産経営の実態と都市開発」『建築史学』 58号、2012年3月、 pp.33-48、など。

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