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いつも躍っている子供たち

聾・身体・ケニア

いつも躍っている子供たち

聾なるがゆえの継時的でない「交感」の様を見つめ、身体の共振という会話(=手話・ダンス)から、言語・社会の始原を省察。

著者 吉田 優貴
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2018/02/20
ISBN 9784894892439
判型・ページ数 A5・356ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに
第1章 共在する身体
 第1節 「雑ざる」ことば動くからだ
 第2節 「でたとこ勝負」の値段交渉
 第3節 「デタラメ手話」で祈る
 第4節 農業ショーでサタンと生首、それは見世物小屋
 ダイアローグ(1)

第2章 協働する身体
 第1節 すれ違いながら一緒にいる
 第2節 ことばを介さないやりとり
 第3節 ことば遊びのリズム
 第4節 同調は時空を超えて
 ダイアローグ(2)

第3章 躍る身体、構える身体
 第1節 歌い躍りしゃべる人たち
 第2節 おしゃべりは賑々しく、インタビューは行儀よく
 第3節 「踊る」と「躍る」
 第4節  躍って構えて躍りはつづく
 ダイアローグ(3)
あとがき
参照文献
索引/image、図表

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内容説明

世界はいつも「躍」っている。
ひとはいかにして他者と生きているのだろうか。聾なるがゆえの継時的でない「交感」の様を見つめ、身体の共振という会話(=手話・ダンス)から、言語・社会の始原を省察。「非文字社会」への人類学の新たな冒険。

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はじめに





……

 本書は、2003年から2006年までと、2011年から2012年までの合計2年あまりにわたり寄宿制の初等聾学校(K聾学校)と子供の帰省先に住み込んで行ったフィールドワークにもとづき、さまざまな場面においてそこに居合わせていた人たちに何が起きていたのか、その過程を記述する試みである。

 例えば、手話を知らない状態で入学した聾の新入生が皆の前で祈る場面、市場で行商人と耳の聞こえない兄妹という初対面の両者が商品をめぐって値段交渉をする場面、耳の聞こえない子供と聞こえる子供が一緒にいるとき、「意思疎通ができているのかどうか」に焦点化してしまうと「すれ違っている」とされがちな場面、互いの手話をほとんど見ない状態で複数人がおしゃべりに興じている場面、聾の子供と聴の子供が入り乱れて躍っている場面など、2人以上が居合わせていた場面で起きていたことを分析する。

 値段交渉の場面でいえば、通例では「兄がその品物を550シリングで買うと言ったところ、行商人が580シリングでないとダメだと言った」、あるいは少し詳細に「彼らは筆談で値段交渉を行った。兄が550シリングで買うと言ったところ、行商人が580シリングでないとダメだと言った」などと、やりとりの「内容」をおよそ1行から2行で記述して終わるだろう。しかし本書では、やりとりがどのように進んでいったのか、その場に居合わせた身体の共振に着目しその過程を詳細に記述していく。つまり「筆談」という2文字で済ませずに、「筆談」と要約されてしまう出来事が身体的出来事としてどのように展開していったのか、具体的に記述し分析するのである。

 さて、本書で着目する「身体の共振」とは何を示しているのか。

……

 文字では記録のとりようがなかった人々との身体の共振において、私が言語で認識せずに振る舞っていた(振る舞えた)ことはどのようなことだったのか。これを突き詰めて考えると、身体の共振のありようは言語で認識し得ないという事実こそが、「言語ができずにどうやって一緒に過ごせたのか」を議論する鍵となることに気づいた。フィールドワーク中は人々とともに生活をすることで必死だった私がこのことに気づかされたのは、本書のベースである博士論文を執筆していく過程で、調査時に撮影した動画データを眺め、何度も再生し、分析し、考察するようになってからだった。

 自らも巻き込まれていった身体の共振という経験を紙の上で記述すること、これが私を最も悩ませてきた課題である。少なくとも、文字言語を記述の中心におくことは都合が悪い。というのも、文字言語で表現するなら、その言語の文法に逆らって記述することはできないからである。日本語の場合、文章に主語と述語があることが前提にあり、「誰それが、なにがしをした」というのが基本構造である。加えて、文字として現れた順序に従って読まれてしまう。「AはBに話しかけたと同時に、CはDに話しかけた」と書いたなら、「同時に」という言葉を使ったとしても、「AがBに話しかける」という出来事の方が「CはDに話しかけた」という出来事に先んじて認識される。文章は通常、一方向にしか書けないし読めないからだ。実際にはAとC、BとDをそれぞれ入れ替えることが可能な出来事だったとしても、文章でそのように表現するには限界があるし、読み手もそう認識することは難しい。さらに言えば、「同時に」という言葉はあくまで時間を軸とした表現であり、時間軸に沿って出来事を理解できても、それ以外の具体的な様態について説明することができない。

 本書では、文字言語での表現の限界を乗り越える方法として独自の視的方法を用いる。ここで言う視的方法とは、身体の共振をめぐるさまざまな事例の分析方法でありかつ表現手法である。本書で提示するすべてのヴィジュアルな素材は、「本文」そのものであり、無駄に使用するものは1つもない。もちろん、現地で撮りためた動画データに基づく「ヴィジュアルな素材」のみで議論するということはない。「文字で表現できないことは映像ならば表現できるはずだ」というような「映像万能主義」の立場に私はない。本書において「ヴィジュアルな素材」は少なくとも、諸研究における文字言語と同等の地位を占めるということである。

本書における視的方法

 本書を支える視的方法については、「写真」自体の性質という一般的な側面と、本書で扱う具体的な事例の側面の両方から述べておかなければならない。

……

 むしろ焦点化すべきことは、文字化した形では「記録」のとりようも「書き起こし」もできない日々の出来事、すなわち私自身も巻き込まれた「身体の共振」のありようだった。それは「語りの内容」ではなく「語りの方法」の分析を、「文字言語」による分節化とは異なる形で行う必要性を伴うものである。本来は「語りの内容」が分析対象になるべき「インタビュー」もまた、「身体の共振」のありようとして捉え直す必要性を私に迫った。「身体の共振」は、その場に居合わせた(調査者であった私も含めた)人たちが言語化しながら行ったことではない。問うべきことは、「居合わせた人たちが何をしていたのか」ではなく、「居合わせた人たちに何が起きていたのか」である。この点においても、私は「写真」を「客観的なデータ」として提示することはできない。

 その代わり、私は私自身の気づきの過程として「写真」を扱いたい。録音した声の例を再び引くなら、「書き起こし」の過程、言ってみれば舞台裏を見せることになる。したがって本書では、ヴィジュアルな素材を指し示すときに「写真」=「真実の写し」という表現を用いず、“image”(像)という語を用いる。そして本書で数多く提示する“image”を、読者のみなさんはただ「見る」だけではなく、ジェイ・ルビーが言うところの「民族誌的だまし絵」として実践していただきたい。


民族誌的だまし絵を実践する

 私は多くの“image”とともにある本書を、何かを考えるきっかけを与えるものとして読者のみなさんに提示したい。それは、アルフレッド・ジェルの言う「終わりなき営み」[Gell 1998: 80]を提供しようする実験的な試みである。本書において、私はフィールドで撮影した動画データから切り出し抽出した(通常「写真」と呼ばれる)静止画に加工を施し、私自身の気づきの過程を表現/分析していく。この私自身の気づきの過程をオープン・エンドな「だまし絵」として参与観察していただきたい。「こんな見方があったのか」とか「こう考えられるかもしれない」など、自分の経験と照らし合わせながら読み進めていただけたらと思う。読者のみなさんには、本書で展開する数々の「だまし絵」をよく観察し、身近な事象と照らし合わせながら、フィールドワーカーとして本書を実践していただきたいのだ。

 本書は建築物のように地盤調査からはじまり、地盤改良、基礎工事を経て鉄骨工事、外壁工事、屋根工事、内装・造作工事、設備工事というように、下から上へ、外側から内側へと結論に向かって1つ1つ議論を積み上げていくタイプのものではない。冒頭の素朴な問いを太陽として、いくつかの惑星を率いる太陽系のような構成だと考えていただきたい。また、惑星によっては、いくつかの衛星を抱えている。従って、最初から最後まで通して読んではじめて結論に至るという構成にはなってはおらず、ネットワークとして各章の議論が互いに強い引力で結びつくような構成である。

 そして、私の気づきの過程をimageとともに表現/分析する章の後ろに、「ダイアローグ」を置いた。各章が、それぞれの場での身体の共振の過程のヴィジュアルな表現/分析であるなら、各ダイアローグはそれぞれの場で起きた出来事を言語の世界で表現/分析したものである。これは私のプライベートな日記ではない。「私たちの人類学的な諸産物は、彼らの物語(stories)についての私たちの物語(stories)」[Bruner 1986: 10; Ruby 2000: 266]である。すなわち「ダイアローグ」は、フィールドで出会った人々と私の対話であり、彼らと生活をともにしていたフィールドワーカーの私とフィールドから時空間的に離れた場所で本書を書いている私との対話でもある。

 聾学校の子供たちがめいめいの帰省先で家族のみならず家の近所の人たちとも付き合いがあったことを、私は何人かの子供の帰省先で直接目の当たりにし、またK聾学校にいるときの子供たちのおしゃべりを通して知ることができた。私が聾学校の内外で直接見聞きしたことや子供たちのおしゃべりを通じて知り得たことをダイアローグとして記述することによって、聾学校の子供の「周囲の」人々がどのような暮らしをしていたのか、そしてまた、その中で子供たちがどのように一緒にいたのかということを詳らかにする。

 同時にこの「ダイアローグ」は、坂部のことばを借りれば「はなしにすじをつける」こと[坂部 2008]を自ら試みたものである。私は、フィールドノートやフィールドで撮影したヴィジュアルな素材、そしてフィールドでの私の「身の記憶」をつなぎ合わせ再構成すること――そこでは、アブダクションが働くわけだが――を通して、私のフィールドでの経験に輪郭を与えた。私は、私がフィールドで「身をもって」何をどういう視点で見ていたのか、そして、その視点がどのような変化を遂げたのか(あるいは結局何も変わらなかったのか)ということを、フィールドワークを行っていた「生の時間」の中に私自身がもう1度身を置きながら「かたり」のスタイルで提示することを通して、フィールドの世界にいた私自身を理解=分節化しようとしているのである。
本書を読んでいく中でいろいろな気づきや感想が湧いて出てくるはずである。反論ももちろん出てくるだろう。本書により、ケニアの(「聾の子供」を中心とした)人々「について」論理的に理解しようとするのでも、フィールドワーカーであり著者である私の経験を「そのまま」追体験しようとするのでもなく、よく観察し自身のさまざまな経験と照らしながら「民族誌的だまし絵」としての本書を経験していただきたい。

私たち人間はいかにして他者と共に暮らすことができているのだろうか。他者と共に居合わせるとき、私たちの身体に何が起きているのか。「言語で意思疎通をはかれない」とされている人との間でも、何かは必ず起きている。


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著者紹介
吉田優貴(よしだ ゆたか)
1975年生まれ。
2012年一橋大学大学院社会学研究科博士後期課程修了。博士(社会学)。
専攻は人類学。
現在、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所研究機関研究員、明治学院大学社会学部付属研究所研究員。
主著書として、『映像にやどる宗教、宗教をうつす映像』(せりか書房、2011年、共著)、『共在の論理と倫理――家族・民・まなざしの人類学』(はる書房、2012年、共著)、論文として、「『一言語・一共同体』を超えて――ケニアKプライマリ聾学校の生徒によるコミュニケーションの諸相」(『くにたち人類学研究』第2号、2007年)、「日常のコミュニケーションを表現/分析する方法――ケニアの聾の子供たちのおしゃべりとダンスを事例に」(『研究所年報』第46号、2016年、明治学院大学社会学部付属研究所)など。

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