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南インドに生きる医療

制度と多元性のあいだ

南インドに生きる医療

伝統的治療師に弟子入りし、非制度的医療の果たす役割を見つめた著者が、「社会システムとしての医療」に迫る。

著者 松岡 佐知
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2020/03/25
ISBN 9784894891586
判型・ページ数 A5・264ページ
定価 本体4,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに
   一 医療へのまなざし
   二 背景
   三 本書の構成

第一章 インドにおける医療多元性
   一 医療多元性とは
   二 制度的医療各論
   三 医療多元性の成り立ち
   四 医療保険制度

第二章 病因論と地域性
   一 病因論の性質と生成
   二 病因論と治療選択
   三 疾病構造と地域性

第三章 調査地の概要
   一 地理
   二 社会
   三 調査地域概要

第四章 地域社会における医療の実態
   一 村落住民の治療探索行動
   二 公立シッダ診療所

第五章 伝統的治療師の実態
   一 目的
   二 ヴァイッディヤについて
   三 患者への聞き取り調査

第六章 地域社会の中の非制度的医療
   一 非制度的な現代の伝統的治療師(ヴァイッディヤ)
   二 薬用植物の知識

第七章 「医療」の外からみた地域医療
   一 インドの医療多元性と地理・文化的特徴
   二 ヴァイッディヤと制度的伝統医療をとりまく患者の行動比較
   三 地域医療にとっての非制度的医療

おわりに──これからの医療

あとがき

引用文献

資料 ヴァイッディヤGの診療所で使用されたことのある薬用植物リスト

索引

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内容説明

人びとにとって真の「治癒」とは何か
アーユルヴェーダから現代医学まで多様な医療が混在するインド。病める人たちは国家制度の範疇を超えて自在にそれらを選択している。伝統的治療師に弟子入りし、非制度的医療の果たしている役割を見つめた著者が、「社会システムとしての医療」の展望に迫る。

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はじめに



一 医療へのまなざし

 生きるという営みの中で、病気を患うという内なる体験をしていることに対して、その外側にある医療という社会システムは何ができるのだろうか。個別性のある体験を見守り、支えることは、ひとつの治療という見方ができるのではないか。なぜなら、「病気をいかに経験するか」は、病気の経過だけでなく、その後の生き方にも大きく関わり、病気の再発や予後にも影響するからである。

 私は薬学部を卒業してすぐに千床以上ある大学病院に薬剤師として就職した。臨床現場における医療従事者の役割は、「いかに治療するか」ということに専門性を発揮することにあった。ただ、その答えは一つではないどころか、明確な正答というものもなかった。生身の人間は連続的で複雑で曖昧で、それぞれが独特な存在である。多くの治療者が現場に出て、学校で身につけた観念的な知識だけでは対応することが困難であることを痛感する。治療者は常に不確実さに対して開かれた態度でいる必要があるように感じられた。病棟のベットサイドに行けば、ひたすら患うことを経験する人たちの姿に触れる。「なぜ自分がこんな病気にならなければいけなかったのか」という葛藤や不安、苦しみ、嘆きがあり、それまでの生き方の問い直しが行われる。そして、大抵の場合は、その問いにも明確な答えはない。自分の中の落としどころとなるような意味を見出しながら、この病気が治るかどうかわからないという不確実さをも受容するプロセスでもある。特に、現代に増えている慢性疾患は、原因が多岐にわたっていて、治療経過について明確な見通しを立てることは困難だ。病気をできるだけ早く治すというよりも、日常の中でどう折り合いをつけて、病気と共にあるかということが問われている。生活習慣病という名の通り、その原因となった生活習慣や思考を変えるには時間がかかる。習慣が変わってから、身体に変化が出るのはさらに時間がかかる。患者は、不確実さと共にあることに耐え、待つことが求められる。治療者は時として、患者の身体や心構えが変化するだけの「時間を稼ぐ」ことが必要となることがあるだろう。

 病気というようなストレスフルなライフイベントからの適応過程を説明する概念として、意味づけがある。体験に対する意味づけを行うことは、その後の適応や人生に対する有意味感への回復につながる[フランクル 二〇〇二]とされる。つまり、病気になるという経験は、患った部分を除去して、元の自分に戻るのではなく、そういった経験を通して、いわば異なる自己になってゆく機会ともなる。つつがない日常があったところで、病気というイベントが起こり、その収束と共にまた質的に異なる日常を紡ぎ始める。慢性疾患であれば、病気というイベントと日常が溶解して、新たな日常を構築していく。患うことを感覚的、社会的、心理的に「いかに経験するか」ということは、その後の人生のあり方にも大きく関わり、病気の再発や予後にも関わるといえるだろう。

 もちろん、それは器質的な疾病に対する生物医学、その他あらゆる治療に代わるものではなく、治療の主題である「いかに治療するか」とは違うまなざしを医療に対して向けたものだ。「いかに経験するか」ということは、「いかに治療するか」と互いに作用しあっているにも関わらず、治療者だけなく、実際に経験をしている患者にも意識的に注意を払われてこなかった。両者の円環的な関係性が本質的な治癒、もしくは症状の軽減の基盤となるだろう。そこで、両者の掛け算で医療という社会的システムを捉え直すことができないだろうかというのが、本書の元となった研究の発端である。

 そもそも医療の定義は、その属する社会や個人の考え方により異なる。生物医学的な根拠に基づく近代医療を医療とする考え方から、伝統医療や民間医療を含む病気や健康に関わる社会・文化的行為を医療とする見方もある。それぞれの国家が医療と認める医療の種類もさまざまである。高齢化が進み慢性疾患が増加する時代にあって、「いかに治療するか」という点では、対症療法中心の近代医療のほかに、身体全体のバランスを調整するような伝統医療など、多様な医療が並存している必要がある。一方で、患うという経験は個人的なものである。患うという経験を意味づけの過程として捉えるなら、意味づけをファシリテートする要素が医療に求められる。ある種の地域に根付く医療の中には病気になった意味を生成する助けをする装置が備わっている。例えば、サハラ以南のアフリカの妖術についての研究レビューでは、妖術は病気などのネガティブな事象をめぐる地域の人による社会的な診断と位置付けられている。つまり妖術によって、受け入れがたい現実に対して、意味を見出し、受け入れ可能なものにしているのである[Moore and Sanders 2001]。

 医療は、還元論体系(現代医療)、体液理論体系(伝統医療)、その他民間医療といった理論体系で分類をされることが多いが、この研究では「制度」という属性に着目した。研究対象とした南インドでは、伝統医療であるアーユルヴェーダは制度に組み込まれ、医師国家資格がある。これとは別に伝統医療を担う医師免許を持たない治療師がいる。かつては、身体感覚を駆使して習得されていた伝統医療が、ある程度マニュアル化され大学で教育された医師によって提供される場合は質的に異なる医療になっているのではないだろうか。妖術が、病気への意味づけの過程を後押ししたように、個人的な問いに対して、均質化されにくい非制度的医療の特質がどのように応答しうるのかに興味を持ったのだ。ただし、非制度的医療である伝統的治療師の民族誌研究をすることが目的ではなく、先に述べた通り、関心は社会システムとしての医療にある。

 南インドは、アーユルヴェーダだけでなく、西洋由来のホメオパシーなども制度に取り込み特異な医療多元性を持つ。多様な制度的な医療が政府の補助により非常に安価で提供される社会において、あえて医療制度の外から地域医療を見る。これにより、既存の医療という枠に捉われずに、社会に生きる人々にとっての医療システムのあり方について議論できるのではないかと考えた。このために具体的には、次の四点を研究の目的とした。⑴南インドで医療多元性が高い地理的・歴史的背景、および、⑵そこでの医療多元性が持つ地域性について、病因論と疾病構造に着目して把握すること、そして、⑶地域社会における非制度的医療と制度的医療との相互関係性を明示したうえで、地域社会において非制度的医療が果たしている役割や特徴を量的および質的なデータによって分析する。

 制度により画一化されない医療や、医療の体裁をとらない社会に根付く医療的な要素にも光をあてることで、新たな医療のあり方が見え、それぞれの人が望む生や死のありかたに寄り添える社会に近接できるのではないだろうか。地域研究という、土着の合理性と普遍性を対照しながら、学際的に研究する分野において、包括的で実存的な地域医療について描出することを目指した。元となった博士論文の執筆から三年近くが経過し、当時得られたデータから新たな視野が開け、ある部分は大幅に改訂した。それでも、当初の試みが実を結んだかというと、不十分な点ばかりが目につき、心もとない。制度と多元性のあいだで揺れる医療というものについて、その奥行きと可能性を伝えることができていていれば、この上ない喜びである。……


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著者紹介
松岡佐知(まつおか さち)
1980年生まれ。
2017年、京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。博士(地域研究)。
専門は、医療人類学、医療社会学、南アジア地域研究。
現在、日本学術振興会特別研究員(PD)として国立民族学博物館に所属。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科 特任研究員。
帝京大学医学部附属病院薬剤師、防衛省技官(薬剤師)、在ガーナ日本国大使館 草の根・人間の安全保障無償資金協力調査員などを経て現職。
主な業績:“The Changing Role of a Vaidya (non-codified traditional doctor) in the Community Health of Kerala, Southern India: Comparison of Treatment-seeking Behaviours between the Vaidya’s Patients and Community Members.”, Journal of Ethnobiology and Ethnomedicine (2015) 11-57, 「インドの土と菌、医療」『農藝ハンドブックvol.2 山と生きる』(あらたま農藝舎、2017)ほか。

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