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せめぎ合う霊力

ケニア、ドゥルマ社会におけるキリスト教と妖術の民族誌

せめぎ合う霊力

妖術・憑依霊・悪魔崇拝が今も生きる社会で、人々の語りに耳を傾けると、彼らにとってのキリスト教の実像が見えてくる。

著者 岡本 圭史
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2020/03/25
ISBN 9784894891098
判型・ページ数 A5・248ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

口絵

序論

 1 本書の対象と調査の経緯
 2 本書の目的
 3 本書の構成

第1章 改宗概念の使用に伴う問題

 1 宗教概念の系譜学と二元論的認識論
 2 人類学的改宗研究と二元論的認識論
 3 宗教概念の投影

第2章 キリスト教徒となることの諸相

 1 身近な脅威としての妖術
 2 調査地における「東アフリカペンテコステ派教会」の概要
 3 キリスト教徒の禁止事項
 4 妖術とキリスト教
 5 「救済された者」となることの諸相
 6 小括

第3章 妖術とキリスト教の相互作用

 1 悪魔崇拝者の二つの側面
 2 暴力正当化の論理
 3 悪魔崇拝者とマジネ
 4 悪魔崇拝者と霊的脅威との対立図式

第4章 キリスト教と憑依霊の観念

 1 非信徒による憑依霊の語り
 2 神の敵としての憑依霊
 3 キリスト教徒達の語り口
 4 語り口の流通
 5 憑依霊と対立の図式

第5章 可能と不可能の境界――悪魔崇拝者と裕福な外国人

 1 妖術のリアリティ
 2 可能と不可能の境界
 3 スポンサーと悪魔崇拝者
 4 両義的外国人像とキリスト教

結論

参照文献

索引

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内容説明

彼らはなぜキリスト教に改宗するのか
「回心」や「伝統宗教から世界宗教へという構図」ではないその理由とは。妖術・憑依霊・悪魔崇拝が今も生きる社会で、人々の語りに耳を傾けると、彼らにとってのキリスト教の実像が見えてくる。妖術研究と改宗研究の交差する地平を示す気鋭の論考。

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序論 より



 ケニア海岸地方に、ドゥルマ(Duruma)と呼ばれる人々が住んでいる。ドゥルマは主にトウモロコシを栽培する農耕民であり、山羊や羊、牛、鶏の飼育も併せて行う。主要な現金収入は、海岸部の都市モンバサでの出稼ぎによる[浜本 二〇〇一:二七]。村の生活は屋敷(mudzi, pl. midzi)を基本単位とし、その典型的な構成員は、主人となる男性とその妻子である[浜本 二〇〇一:三三]。人々が強い関心を向けるのが、妖術や憑依霊の脅威である。その主な対処法は、施術師(muganga, pl. aganga)の行う施術(uganga)である[浜本 二〇〇四、二〇一四]。最近の傾向として、妖術や憑依霊に加えて、悪魔崇拝者と呼ばれる人々も話題となる[浜本 二〇一四、二〇一五、岡本 二〇一七、二〇一九]。近年ではまた、キリスト教徒となることで妖術や憑依霊に対処する人々も増えている。信徒達によると、施術よりも彼等の祈り(mavoyo)の方が強力であるという[浜本 二〇一四:二一六―二一八、岡本 二〇一七:五]。

 ドゥルマ社会におけるキリスト教徒の増加は、最近になって生じたと考えてよい。一九世紀にイギリスの植民地となって以降、ケニアでは早くからキリスト教化が進行した[Gifford 2009]。一八四四年、Church Missionary Societyの宣教師であったヨアン・ルートヴィヒ・クラプフがモンバサに到着する。これが、一九世以降のケニア海岸部とキリスト教の最初の接触であった[Strayer 1978: 3]。海岸地方は、ケニアの中でも、キリスト教と最も早く接触を開始した地域であったと言える[浜本 二〇一五:三五一―三五二]。しかし、海岸部ではキリスト教の浸透が遅れた。浜本によると、一九八〇年代にはドゥルマのキリスト教徒は少数派であり、キリスト教徒が増加したのは九〇年代以降であるという[浜本 二〇一四:二一七、二〇一五:三五二]。更に、妖術告発をめぐる植民地行政官達の報告の中にも、キリスト教が浸透した痕跡は見出されない[浜本 二〇一四:一五章]。

 ドゥルマの間でキリスト教が興隆した理由を、ここで明確に示すことは難しい。キリスト教への改宗動機をめぐる従来の議論は、親族関係内の義務からの解放[Meyer 1999: 213]、出費を伴う儀礼の回避といった物質的利益[Kammerer 1990: 284]、安価な抗妖術策の提供[Pfeiffer 2006: 82]等の理由を挙げている。これらの議論は、今日のドゥルマの状況を十分に説明し得ない。親族関係内部の相互扶助については、キリスト教徒達もまた肯定的に語る。また、信徒達がこの種の義務から解放されるわけでもない。更に、キリスト教徒となることが明確な物質的利益をもたらすとも考えにくい。加えて、施術の費用に焦点を合わせた場合には、キリスト教徒が最近まで少数派であった理由が不明なままとなる。現段階では、キリスト教徒となる利点の特定は困難である。

 改宗促進のコンテクスト解明は、極めて興味深い課題である。しかしながら、改宗コンテクスト解明を専ら世界宗教と伝統宗教の関係と捉えた場合には、当事者の視点が背景に退くのみならず[Meyer 1994: 45]、人々が妖術使いや憑依霊、悪魔、神といった諸存在との間に想像する多様な関係が、世界宗教と伝統宗教のシンクレティックな相互作用へと矮小化されかねない。こうした状況において意義を持つ課題の一つが、改宗概念の効力についての検討である。この問題をめぐる従来の議論は、主に改宗概念のキリスト教的負荷に焦点を合わせてきた[Anderson 2003: 123; Gooren 2010: 10-11]。そこで批判の対象となったのが、改宗研究の中に見出される、以下の二つの視点である。第一の視点はパウロ的回心モデルであり、改宗者の内面において劇的な変化が生じると捉えるものである[Comaroff and Comaroff 1991: 249; Lohman 2003: 120]。このパウロ的モデルを批判する諸研究は、近代ヨーロッパや非西欧諸地域の事例を基に、個人の内面における変化に留まらない、多様な改宗過程を丹念に描き出した[Luria 1996: 30-31; Pollman 1996: 46-48]。第二の視点は、近代化を宗教の合理化や脱呪術化と結び付けるウェーバー的な視座である。この視点の克服を目指す議論は、モダニティの多元性、特にその呪術的側面に焦点を合わせた[Comaroff and Comaroff 1991: 249; Hefner 1993: 22-24; Meyer 1999: xix, 109]。

 パウロ的回心モデルとウェーバー的視座に対しては、既に多くの批判がある。しかしながら、改宗研究の内包するもう一つの視点が、十分に検討されないままに残されている。改宗過程をめぐる従来の議論は、霊的存在の観念や儀礼的実践を伝統宗教として一括した上で、世界宗教としてのキリスト教と対置してきた[岡本 二〇一七:四]。ここで問題となるのが、宗教概念を用いること自体の是非である。人類学や宗教研究において、宗教概念の効力に疑問が呈されている[Asad 1993; see also 磯前 二〇一二、Saler 2000/1993]。この問題に先鞭をつけたスミスの議論は、今なお示唆に富む。スミスによると、古代ローマにおいて儀礼や禁忌等の多様な意味を持っていたラテン語のreligioが、後にキリスト教それ自体を指す語彙となる。更にルネッサンスや宗教改革、大航海時代を経て、世界各地に複数の宗教が存在すると捉えられるに至る。religionという語彙の歴史を辿ったうえでスミスが主張するのは、宗教現象と我々の呼ぶ対象が実在する一方で、その記述に宗教概念が必ずしも適していないという点である[Smith 1991/1962]。改宗概念のみならず宗教概念の効力にも疑問が残る以上、伝統宗教と世界宗教の対置もまた、自明ではあり得ない。本書では、ドゥルマのキリスト教徒達の語りを基に、伝統宗教と世界宗教を対置することの是非について検討を加えた上で、結論において、その先に開かれる展望を提示する。序論では、本書の対象とするドゥルマの紹介に続けて、アフリカ妖術研究とキリスト教研究、更には改宗研究の交差する点に、本書の課題を位置付ける。



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著者紹介
岡本圭史(おかもと けいし)
1980年生まれ。
2017年九州大学大学院人間環境学府博士後期課程修了。
博士(人間環境学)。
中京大学心理学研究科博士研究員。文化人類学、宗教社会学専攻。
論文「人類学的改宗研究の課題――ケニア海岸地方ドゥルマ社会におけるキリスト教徒達の語り」(『文化人類学』84巻4号、2020年)他。

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