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華人キリスト者の越境と宗教実践

中華性とミッションの人類学的研究

華人キリスト者の越境と宗教実践

中華思想や漢族血統主義とは異なる新たな華人像を「発見」。越境の中での中華性という華人研究の「罠」から脱し、新たな視点を開拓。

著者 アルベルトゥス=トーマス・モリ
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2020/02/25
ISBN 9784894891104
判型・ページ数 A5・224ページ
定価 本体4,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

序章 華人キリスト者を描き出すために

  1 先行研究の整理
  2 華人研究のパラダイムの変遷
  3 「華語圏」から考える「アンチ中華」の書き方
  4 「華人キリスト者」の描き方

第1章 華人キリスト者たちの「出自」――ミッション「偉人伝」と福音主義

  1 華人キリスト者たちの「前史」について
  2 「福音主義」という特徴について


第2章 自己主張の始まり――「世界華人福音運動」の登場

  1 「華福運動」の船出
  2 大いなるヴィジョンの展開
  3 華人キリスト者たちの反応
  4 まとめ

第3章 越境的な繋がりの形成――「中国信徒布道会」と文書伝道事業

  1 華人キリスト者の世界とミッション団体
  2 「中国信徒布道会」の創設と展開
  3 伝道雑誌の月刊『中信』
  4 まとめ

第4章 一般人によるミッションの実践――「短期宣教」と参加者たち

  1 「短期宣教」という実践について
  2 ある「短期宣教」プログラムの実施
  3 主催者側の意図と努力
  4 参加者側の様々な反応
  5 まとめ

第5章 あるフロンティアによる報告――「辺境地域」日本におけるミッション活動の現状

  1 日本における華人キリスト者の概況
  2 古い華人教会の態度
  3 新参宣教師のミッション活動
  4 一般的な華人キリスト者のミッション動員
  5 ミッションの実践を巡る大衆動員への反響
  6 まとめ

終章 行動する華人キリスト者たちの可能性

  1 ミッションに取り組む華人キリスト者という現象
  2 「ミッションの実践」という名の装置
  3 系列研究の意義と可能性

あとがき

参照文献

索引

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内容説明

信仰し、行動する者
「世界華人福音運動」など様々な実践の文脈から、中華思想や漢族血統主義といった本質主義的な思考とは全く異なる新たな華人像を「発見」。越境の中での中華性という華人研究の「罠」から脱し、新たな視点を開拓する注目の論考。

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はじめに




 「華人キリスト者」はその名の通り、「華人」と、キリスト信仰とりわけプロテスタンティズム諸派という両者が交差したところの人々を指す。実際これは「華人基督徒」の訳語であるが、おそらく日本語世界において、「華人キリスト者」という表記を使うのは、本書が初めてであろう。

 本題に入る前にまず用語を整理しておく必要がある。漢字を使う日本語世界では、「華人」という表記の意味は未だに十分知られていない。英語の場合、政治的帰属を示す「中国人」と仮に住むことを強調する「華僑」とは区別せず「Chinese」と表記されることも多い。また、文化的帰属を強調する「ethnic Chinese」もよく使われているが、「華人」の場合は他者として語るというニュアンスが強い。それらに対して、本書が扱う「華人」とは、あくまで中国に出自を持つと考え、かつ中国以外で生活している人々のことである。彼らの生活環境や文脈、すなわち「日常」が中国社会と違うことを強調するための「Chinese Overseas」と互換できる。

 「華人社会」の宗教事情といえば、大まかに二種類のイメージが存在している。一つは仏教や道教、さらに祖先祭祀を含む様々な民間信仰であり、主流な宗教と言われている。それらは当事者たちに限らず、世界規模でイメージされている。二〇一三年、アメリカの情報活動を故意に暴露したエドワード・スノーデンは香港に逃亡し、庇護を求めたとき、自身の文化的適性についてカンフーへの興味とともに、仏教こそ自身の宗教だと主張した。また、マレーシアなど国民の身分証に宗教が記載される国では、華人であることで勝手に仏教と振りわけられることが決して珍しくない。もちろん、純粋な宗教研究の視点から見れば、「華人社会」において、個人の内面的な部分であろうと、集団を結束させる儀礼であろうと、仏教または道教を中心とする信仰系統が巨大な影響を有することもまた事実である。

 もう一つは世界各地に散在する「華人」を一つのカテゴリーに括って語る際、特に経済活動において、一九八〇年代以降、多く持ち上げられている「儒教」関連の言説である。かつて工業化及び顕著な経済成長を実現した韓国、香港、台湾、シンガポールが「アジア四小龍」と呼ばれていた頃、それらの社会の歴史的背景から「儒教」という共通項が見出され、活発な経済活動の動力源と考えられる観点があった。そこで、韓国を除くすべてが「華人社会」ともされているため、「儒教」が「華人」を定義する必要条件であるかのように、ある種の神話となって広がってきた。無論、国際政治経済の視座から見れば、当時の高度成長はあくまで戦後アメリカが主導する世界分業の一環であった。しかし、数多くの企業家たちを中心に、自己成就予言のように「儒教」という名称を用いることがすでに慣習のように定着している。ただそうしている人々の大半は四書五経を読み込めず、むしろ『弟子規』のような前近代的道徳の啓蒙書に満足している。

 この二つのイメージに対し、「華人社会」におけるキリスト教のイメージはというと、決して鮮明とは言えない。東・東南アジア全域では、キリスト教と「近代化」と結び付く印象は、今でも強く存在している。英語教育出身だから、植民地的伝統を有する社会のエリートだから、というような理由でキリスト教が多いだろうと片付けてしまうような言説は、研究者の間であってさえ、時々見かけられる。結局、「華人」に関わるキリスト教事情を巡る研究、あるいは少なくとも最初の発想にとって、参照可能なイメージが曖昧であればあるほど、マジョリティの諸宗教の研究スタイルや視座に頼りかねない。後述もするが、それで「華人」を主体としたうえ、宗教信仰をそれに付随する多様なパーツの一つに過ぎないと考えるような思考パターンに繋がってしまいやすい。逆に言えば、そのような状況に陥られないために、全く新しい視座が必要になる。

 そこで、本書は二〇〇九年より始めたフィールドワーク、とりわけ日本、香港、台湾、マレーシア、シンガポール、インドネシア、及びネット空間において行った調査の結果に基づき、「華人キリスト者」と自称する、またはそう呼ばれる人々が地球の表面に存在しており、かつ信仰、とりわけ宗教実践をもとに新しい連結を形成していることを証言したい。言い換えれば、従来の「トランスナショナルな華人社会におけるキリスト者」という認識ではなく、「トランスナショナルな華人キリスト者」という新たな主体を提案したい。

 ちなみに、「キリスト者」という表記は信仰関連の表現において、とりわけ自己への呼称として荘厳なイメージがある。この表記を採用したのは、「クリスチャン」というカタカナ表記ならではのハイカラなイメージ、及び「教徒」という他者目線のニュアンスなどを取り除くためでもある。「華人」全体の中では、「華人キリスト者」の割合は数パーセントしかないが、東南アジアと北米を中心に世界中に散在している。彼らが礼拝など日常的な宗教実践を目的として多数集まり、かつ運営の主導権を持つような個々のコミュニティは「華人教会」と呼ばれる。さらに、「華人キリスト者」という名称を自己認識として常に強調し、それにまつわる様々な実践に精力的に取り組む人々がこの地球上に散在しているすべての「華人キリスト者」による集合体の文脈をイメージする際にも「華人教会」という名称がよく使われる。

 ただし、人間の移動及びモノや情報の流通がますます拡大している今日の地球において、彼らは特別に目立つわけではなく、また周囲にとって極めて受け入れがたい存在でもない。彼らを巡る学術的な記述は未だに少なく、かつ大半は個別事例の報告にとどまり、地域や研究領域によって分断されているのがほとんどである。無論、一から少しずつ蓄積していくことは重要だが、本書の元となるフィールドワークの経験から言えば、「華人キリスト者」は決して偶発的な事象ではなく、また孤立的な断片の積み上げでもない。

 そのため、本書は従来の研究と違う視点で彼らを捉える方法を提言したい。とりわけ前述したフィールドワークをもとに、その名の下で生きている人々のことを主人公とする、一つの物語として記述するよう試みたい。


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著者紹介
アルベルトゥス= トーマス・モリ(Albertus-Thomas Mori )
2017 年立命館大学大学院先端総合学術研究科一貫制博士課程修了。
博士(学術)。
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所ジュニア・フェロー、
立命館大学初任研究員、関西大学他兼任講師。
専攻は文化人類学、宗教社会学、華人世界研究。
西太平洋沿岸各所を中心に積極的に活動中。

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