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エルサレムのパレスチナ人社会 別巻19

壁への落書きが映す日常

エルサレムのパレスチナ人社会

国際政治の狭間に置き去りにされながら、理不尽な立場を生き抜く人びと。壁の落書きからは、彼らの叫び声が聞こえてくる。

著者 南部 真喜子
ジャンル 人類学
シリーズ ブックレット《アジアを学ぼう》 > ブックレット〈アジアを学ぼう〉別巻
出版年月日 2020/10/15
ISBN 9784894892842
判型・ページ数 A5・66ページ
定価 本体800円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

◆コラム――パレスチナのグラフィティ

一 はざまに位置する街
1 東エルサレムという場所
2 深まる孤立

◆コラム――パレスチナ問題とは

二 イスラエル社会に身を寄せる
1 イスラエルで学び働く
2 ヘブライ語を学ぶ女性たち
3 市民権か抵抗か

三 若者たちの「インティファーダ」
1 抵抗
2 逮捕と投獄
3 死後の遺体

四 この地にとどまるということ
1 立ち退きと家屋破壊
2 #出ていかない
3 路上の集団礼拝

五 パレスチナ社会とエルサレム
1 表象のなかのエルサレム
2 壁を越える
3 バラディ、バラディ

おわりに

参考文献
パレスチナ・エルサレム関連年表
あとがき

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内容説明

「この地にとどまるということ」
国際政治の狭間に置き去りにされながら、ヘブライ語を学び、ユダヤ人社会で働き、理不尽な立場を生き抜く人びと。超えがたい壁に日々書き付けられるグラフィティからは、彼らの心の奥底からの叫び声が聞こえてくる。

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 …… 本書では、このエルサレムという街の東側に位置し、パレスチナ社会の中核を成す東エルサレムという場所を中心に、この地で暮らす人々の日常と、それらを取り巻く占領の現状を書き表してみたい。二つの社会が混住しているとは言え、エルサレムのなかのイスラエル人の居住地区とパレスチナ人の居住地区には確かな棲み分けが存在し、その違いは通りを歩きながらもたやすく感じることができる。

 旧市街を出て、新市街方面へと進むと西エルサレムの街が広がる。メインストリートには路面電車(トラム)が走り、カフェやレストランで賑わう繁華街で耳にする言葉や店先の看板はヘブライ語である。一方で、旧市街から東に向かうと、パレスチナ人の営むコーヒー店やスパイス屋、両替所が立ち並び、通りではアラビア語の会話が交わされる。路上では、パレスチナの伝統刺繍をあしらったドレスを着た女性たちが、地元で採れたハーブやブドウの葉、手作りのチーズを売っている。店名もアラビア語、書店で売られているのもアラビア語だ。トラムの代わりに、バスが東エルサレムの村々と、さらにはパレスチナ被占領地の西岸地区とを行き来する。

 なかでも東エルサレムの通りを歩いていて目をひくのは、色とりどりのスプレーで壁に落書きされた数々のアラビア語の文字、グラフィティ(壁への落書き)だろう。その多くは、占領に反対するスローガンである。「闘え」「エルサレムはアラブだ」「自由とは日々の実践である」――そんな言葉が、道沿いの壁、建物や家の外壁、電柱に並ぶ。

 これらの書き手は誰なのだろう。新しいグラフィティは、人知れず現れる。スローガンのそばに政党のロゴマークが記されているものもあるが、匿名のものも数多い。ある朝、当時住んでいた村のメインストリートの両側の壁がペンキで白塗りされ、その上に前日とは全く別のグラフィティが現れた。ある党派に属する村の若者たちが、党の指導者の命日を記念して夜中に書いたものらしかった。一夜にして景観が変わったのが面白くて、以来、路上の落書きに目を向けるようになった。すぐには意味が分からないものも含めて写真に撮り、あとで友人や近所の人たちに意味を教えてもらいながらグラフィティを集めることが次第にささやかな楽しみにもなった。

 グラフィティは書いては消され、また上書きされる。時代の空気感を瞬間的にとらえる壁の言葉は、鋭く、また儚い。書き手は、何を訴えているのか。一見すると、自然なほど風景に馴染んでいる「壁の落書き」といった、文化・生活空間に表出する、ときに言語的でときに非言語的な「声」を糸口に、東エルサレムの社会を見ていくことはできるだろうか。

 パレスチナと占領の問題については報道で耳にする機会も多い。しかし、東エルサレムにおける占領の実態はつかみにくい。世界で有数の聖地を擁する場所でありながら、それゆえ隣合うイスラエル社会への全面的な抵抗は行いづらい。市行政を管轄するイスラエル当局による居住権のはく奪や、家屋破壊、警察暴力や逮捕などが頻繁に見られる東エルサレムでは、ナショナルな抵抗運動よりも、市の住民として税金を納め、イスラエル人と働きながら、生活空間への侵入といった、その一つ一つは小さい日常の暴力からコミュニティの生活基盤を守ることが、先決すべき課題となってきた経緯があるからである。

 今では、パレスチナ人社会の多数派を占める西岸地区で展開するナショナルな動きの中心からも外れ、いわば見過ごされたコミュニティであると言える。とくに二〇〇〇年代以降は、西岸地区とイスラエルの間の分離壁の建設によってパレスチナ人同士の往来も制限され、東エルサレムの孤立が進んでいる。イスラエルによる東西エルサレムの統合(街のユダヤ化)と、パレスチナ社会との分断のはざまで、東エルサレムのパレスチナ人住民はパレスチナ側にとどまるのか、イスラエル社会で生きていくのかといった過渡期を迎えているとも言えるだろう。
……

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著者紹介
南部真喜子(なんぶ まきこ)
1986年、兵庫県生まれ。
東京外国語大学大学院国際総合学研究科博士後期課程在籍。
主な論文に "Heroism and Adulthood among Arrested Youth in East Jerusalem," (The Project on Middle East Political Science Studies 36 Youth Politics in the Middle East and North Africa)、「パレスチナの壁の落書き」(東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所編『フィールドプラス』 no.21)などがある。


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