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雑草たちの奇妙な声

現場ってなんだ?!

雑草たちの奇妙な声

私の奇妙な教育・研究生活のなかで出会い、交わった友人たちの「思い」や「考え」の一端をまとめたもののようだ(松田素二)

著者 松田素二とゆかいな仲間たち 編著
ジャンル 人類学
シリーズ 風響社あじあブックス
出版年月日 2021/03/28
ISBN 9784894892958
判型・ページ数 A5・466ページ
定価 本体3,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

まえがき

●巻頭言●知的な生きものの光と影──情報人間学的一考察 (磯部卓三)

●第1部 とびこむ

モトジのこと (川西史子)
田舎生まれの私がどう海外の開発協力の現場を見てきたか (林 泰子)
「未知なる日常」漂流記 (大野哲也)
フィールドにとびこむ・とびこませる (古村 学)
まず行って、そこでなんとかする (川西健登)
マツダ式フィールドワーク (ベナード・オプド/グラディス・マレシ/エラム・オディンガ/モニウィル・アンビチェ(構成:田原範子))
熊野が好き、でも海は近くて遠い (彌重桃子)

●第2部 であう

水平線の白い光──飛び立つこと (田原範子)
アドバイザーとその公共性――「目ん玉怪人」回想録 (梅屋 潔)
しなやかな生き方──マーケットで教わり、商人たちと経験し、彼女らの学ぶ姿勢から学んだこと (坂井紀公子)
私がタンザニアの「障害者物乞」に学べるようになるまで (仲尾友貴恵)
合同社会調査実習「熊野調査」が熊野に残したもの (久保 智)
Such a humble person that I have ever met. (アムリット・バジュラチャリャ)

●第3部 たたずむ

「夢の痕跡」を書く)
  ――尾呂志学園から学ぶ人口減少社会における「理想」の学校像 (森田次朗)
移行期正義の再検討と「犠牲者」のポリティクス (高 誠晩)
性への個人化への抵抗実践としてのカミングアウト (戸梶民夫)
「出会う」老人の性とセクシュアリティ (翁 和美)
ニンビィをめぐる「迷惑」の必要性と受容 (土屋雄一郎)
場をともにし、学問する (木原弘恵)
おわらない歌 (高見 守)

●第4部 つなぐ

あたらしい風にのって (松居和子)
北タイの環境保全運動 (福浦一男)
生き方としてのフィールドワーク (中川大一)
関わりあいからの人間学 (伊地知紀子)
尊敬すべき先輩・松田素二さんのこと (谷合佳代子)

●第5部 ひらく

異質な「他者」をどのように捉えていくのかという問題について (岩谷洋史)
複数の境界線の交点上を生きる (田多井俊喜)
在日コリアンのダブルスタンダード性をめぐって (金 泰泳(井沢泰樹))
“関わる”意味を考える (阿形恒秀)

●あとがき●「奇妙」な本の成り立ち (松田素二)

●資料編

エピソード年表

編集後記 (伊地知/大野/田原/土屋/林/松居)

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内容説明

「在野」門下たちの縦横の活躍、そして人生

本書は、感動的な「私の履歴書」になるのかもしれないが、そのようなものとは対極にあるものだった。私の奇妙な教育・研究生活のなかで出会い、交わった友人たちの「思い」や「考え」の一端をまとめたもののようだ(松田素二)。

半年間や一年間、フィールド調査に出かける学生や、留学などを予定する学生は「そこで暮らして、それがごく自然な日常となるような状態」を作ってほしい(松田素二)。

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まえがき




 私たちは松田さんを囲んで「現場に学ぶ」という営みについてあらためて考えることにした。私たちとは、松田さんと松田さんのフィールドワークに触発されて、つい現場に行ったり、うっかり研究を始めたり、そしてそこでまたあらたな出会いを得た人びとのことである。

 松田さんにはフィールドが四つある。アフリカ(ケニア)、アジア(タイ、ネパール)、日本における社会運動、日本における環境問題だ。そうした四つのフィールドをとおして私たちは松田さんと出会った。私たちは、それぞれの持ち場(現場)で、つまずいたり、立ち止まったり、そしてまた歩み続けたりしてきた。そうした行為は時に、私的で孤独な営みにも感じられたが、実のところそれは松田さんとその周囲の人たちとの共同作業であった。こうした共同作業をとおして、私たちは、何を考え、何を育て、そして何に育てられてきたのだろう。本書は、松田さんと共に、「現場で学ぶこと、現場と学ぶこと、現場に学ぶこと」を自由に描き出すものである。

 フィールドワークは、ポーランド出身の人類学者B・マリノフスキ(一八八四―一九四二)によって確立され、社会学や人類学における調査法として定着した。たとえば、マリノフスキはフィールドワークの四条件として、①現地における長期間の滞在、②現地語の習得、③現地社会の成員として認められること、④現地の人々とのラポールの確立、を提示した。しかし「マリノフスキ日記」における現地人への蔑視が明るみになることで、フィールドワークの根幹は大きく揺らぐことになった。また、そもそも現地社会の人びとは現地調査など望んでおらず(フィールドワークは、する側からの一方的なアプローチで突然始まる)、そのような状況で「ラポール」を構築した(と調査する側が確信した)としても、それはする側の独りよがりだという批判もある。

 一方、一九七〇年代には、中野卓と似田貝香門がフィールドワークをめぐって激しい議論を繰り広げた。調査する側とされる側による「共同行為」としてフィールドワークを再定位しようとする似田貝に対して、中野が、する側とされる側は決して対等ではなく、「共同作業」などという言葉はする側の権力性を隠蔽する甘言にすぎないと厳しく批判したのである。

 フィールドワークの困難をめぐる論議はさまざまに展開されてきた。たとえば、オリエンタリズム、フィールドワーカーの権力性、文化の翻訳可能性といったフィールドワークの実践をめぐる学問内部の課題や、学問の枠を超えたフィールドワークの可能性を探求する実践的民族誌、社会運動への人類学者の参加などがある。実はこれらの議論は、フィールドワーカーに限られたものではない。対象を捉え、分析考察し、その内容を記述する作業すべてに当てはまるのである。

 本書では、これらの課題を乗り越える可能性を探るべく、松田さんが培ってきた学びの実践を再検討し、「現場」に関係する人びとを、多声的に記述することを試みる。松田門下生は、フィールドワークはデータの収集ではなく、地域からから何かを学ぶ営みであるという認識を共有している。そして、ある現場で出会った者同士が、研究という経験をどのように理解したのか、それは自身やコミュニティにとってどのような経験だったのか、それによって何が変わったのか、もしくは変わらなかったのかについて考えたい。かつて岩田慶治がフィールドワーク論で展開した「ともに自由になる」とは何なのかを考える本である。

本書の構成

 本書は、「とびこむ」「であう」「たたずむ」「つなぐ」「ひらく」の五部構成となっており、磯部卓三の論考から始まる。
磯部は、知を「情報」と捉え、人間存在と人間社会を成立させる最も重要な要素の一つを「情報の送受信」にあるとする。そして、生活世界の困難やコンフリクトを考察しながら、人間の「生き方」と人間社会の新しい可能性を展望する。現代社会においては、「情報の科学性」と「情報の合理性」こそが絶対的正義である。こうした知性や理性を最上級のものとする主知主義によって、今や、人間は宇宙空間で生きていけるようになった。

 しかし、果たしてそれは絶対的真理だろうか。人間とは、実は、非科学的かつ非合理的で矛盾だらけの存在なのではないか。そして、脆くて永遠に未完成な存在としての人間だからこそ人生は苦しみながらも面白く、人間社会は闇があるがその漆黒を抜けた先に希望の光が輝いているのではないか。磯部の、ヒューマニズムに溢れたこの指摘こそが、本書に収められた、一見まったく関連性がないエッセイと論考を貫くテーマである。

〈第1部〉

 個々人が、それぞれの人生の一場面を振り返りながら、もっとも自分らしい「生き方」を悪戦苦闘しながら模索し選択する、その瞬間を「とびこむ」と表現しているのが第一部である。

 京都で青春を謳歌した学生時代の出会いとその後の生の軌跡(川西)、アジアの国々で国際協力の現場に没頭したあの時(林)、自転車で世界を放浪した末にたどり着いた人類学(大野)、インドア派がフィールドワーカーに変身するまでの葛藤(古村)、何のあてもなくウガンダの病院に突撃して目の前にいる患者のためにとにかくなんでもやってみた経験(川西)、ケニアで絶対的貧困に悪戦苦闘しながらもその中で発揮される自助と共助(オブド・オディンガ・アンビチェ)、三重県熊野で自分らしい生き方を模索し続ける日常的実践(彌重)。

 第一部の登場者は、人生の新しい地平に第一歩を踏み出すまさにそのとき、松田素二と一瞬交錯する。その瞬間、自己の内部で起きる「化学変化」を、オートバイオグラフィーの手法を用いながら分析している。(大野)

〈第2部〉

 フィールドワーカーたちの「であい」は、同時に現場の人びとにとっての「であい」でもある。第二部「であう」には、ウガンダ、ケニア、タンザニア、熊野、ネパールにおける出会いを配した。偶然的に出会い、こわごわと知り合いになり、共に食べたり飲んだり、笑ったり、喧嘩したり、議論したり、連帯したり、そして時に訣別したりする。こうした現場における人びとが織りなす化学反応が描かれている。生の邂逅は奇跡でもある。長年のフィールドワークのなかで、たとえ旧知の仲となったとしても、「であい」に終わりはない。互いの自由や不自由をその都度ごとに認め合い、共感し、時に補完しあいながらも、不完全な主体として異なる生を生きていく。ここに今、共に生きているという実存に対峙することは、「であい」から始まる。(田原)

〈第3部〉

 心をひかれたり、感動したり、茫然(ぼうぜん)としたりしながらある場所にしばらくとどまる。その場所、そこで暮らす人たちの雰囲気と一体となって融合しているような情緒的で継続的な営みが、フィールドワークであるといえるのかもしれない。立ち止まり、じっとその場所にて、そのあたりをうろつきながら、立ち去ることができない。目の前の広がる風景に編みこまれた問題をぼんやりとながめ、何か考えあぐねる。解決のためになにができるのか、それによってなにがもたらされるのかを思いフィールドにたたずむ。

 第三部に収められた論考は、「理想」の学校像、移行期正義の見直し、カミングアウト、性とセクシェアリティ、ごみ問題、場の共有、ローカルがローカルである必要性をテーマに筆者がそれぞれのフィールドでたたずむ世界である。(土屋)

〈第4部〉

 私たちは、「つなぐ」という言葉を見聞きすると何を想うだろう。本書のテーマから思いつきやすいとすれば、自分のいる場所と調査研究で出かける地域、調査する者とされる者の間を「つなぐ」と答えるだろう。それだけではない。学び始めたときの自分と今の自分、かつての調査地の反応と今の応対、当時の現場の様子と現在の姿。自と他、過去と現在、あちらとこちらといったあらゆる界面が変幻自在につながる。つながることで、時として感覚や感情が未分化な状態へと巻き込まれ、たたずむ。これぞフィールドワークの醍醐味である。もちろん、フィールドワークとは物理的に空間移動することだけを意味しない。自身を旅する術であってもよいのである。

 多様多層な界面は、であうことでつながる。ただ、とびこんだ側に圧倒的アドバンテージがある。そこで求められるのは、つながることで得られた経験に居着くことなく次へ「ひらく」ことである。どのようにどちらへひらくのか。解の定まらない問いを携え、私たちは新たな界面をひらく一歩を踏み出すのである。(伊地知)

〈第5部〉

 本書を締めくくる第5部は、「ひらく」である。

 とびこんで、であって、ちょっとたたずんで、つながって、そしてその未来にひらかれるのはどんな世界だろう。ここで登場する四本の論考は社会的に周縁化され弱者の立場に置かれた人々の視点から、この世界について展望している。岩谷は「ゲイ」の人々、田多井は「トランスジェンダー」の人々、金は「在日コリアン」、そして阿形は競争原理が浸透・支配する学校で学ぶ「子ども」たちをとりあげる。いずれにも共通するのは、「周縁化された人々」の生きづらさをもたらしているのは、その人々を抑圧する構造や諸力だけではなく、それに「異議申し立て」をする側の思考や言説(「マイノリティに同一性を強要する(岩谷)」「トランスジェンダーを捉えるドグマ(田多井)」「あるべき在日コリアン像(金)」「大きな物語(阿形)」)であり、それらを直視することで、新たな世界がひらかれるというメッセージなのである。(松居)

伊地知紀子・大野哲也・田原範子・土屋雄一郎・林泰子・松居和子



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編著者〈松田素二とゆかいな仲間たち〉について
 私たちは、松田先生に教えを請うという志をもっていたはずだった。ところが、松田さんを囲んで一緒に飲んだり食べたりしているうちに、いつのまにか身についたのは、松田さんのものまねだった。しだいに松田さんの友人たち、フィールドの仲間たち、松田さんのライフワークである「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」に関わる人たちや在韓被爆者の方たちとも知り合うことになった。
 こうして世代も仕事も地域も超越した奇妙な仲間が生まれてしまった。別名は、「松田病にかかった人たち」(風響社の石井さん命名)である。病の程度は、軽症・中症・重症・難症とさまざまだが、こんな私たちが「本を作りたい」と言ったら、松田さんは「雑草本か?」と即座に名づけてくれた。(仲間たち一同)


本書に関わったゆかいな仲間たち(50音順)

阿形恒秀(あがた つねひで) 鳴門教育大学教職大学院生徒指導コース教授
アムリット・バジュラチャリャ(Amrit Vajracharya) ネパールでエスノフォトグラファー
磯部卓三(いそべ たくぞう) 大阪市立大学名誉教授
伊地知紀子(いぢち のりこ) 大阪市立大学にいます
岩谷洋史(いわたに ひろふみ) 姫路獨協大学教員
梅屋 潔(うめや きよし) 神戸大学大学院国際文化学研究科教授、挿絵担当
エラム・オディンガ(Ellam Odinga) ナイロビでメッセンジャー出稼ぎ生活を経て、西ケニアのビヒガ県ケロンゴ村で農業
翁 和美(おう かずみ) 現在は京都にある大谷大学を拠点に飛び回っています
大野哲也(おおの てつや) 桃山学院大学教員
川西健登(かわにし たけと) 国立ハンセン病療養所を定年退官後浪人中
川西史子(かわにし ふみこ)
木原弘恵(きはら ひろえ) 関西学院大学社会学部非常勤講師
金 泰泳(きむ てよん)・井沢泰樹(いざわ やすき) 東洋大学社会学部教授
久保 智(くぼ さとし) 熊野調査現地世話人(熊野市議会議員)
グラディス・マレシ(Gladis Maresi ) ナイロビで家事労働者の出稼ぎ生活を経てリフトバレー地域のナンディ県チェプソノイ村で農業
坂井紀公子(さかい きくこ) 金沢星稜大学人文学部教員、専門分野はアフリカ地域研究(おもにケニアとウガンダがフィールド)
坂部晶子(さかべ しょうこ) 名古屋大学人文学研究科准教授、装丁画担当
高 誠晩(こそんまん Koh Sung Man) 済州大学社会学科助教授
高見 守(たかみ まもる) 熊野調査現地世話人(ネットファーム代表)
竹村一夫(たけむら かずお) 大阪樟蔭女子大学学芸学部教授・副学長、年表に登場
田多井俊喜(たたい としき) 京都大学非常勤講師
谷合佳代子(たにあい かよこ) エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)館長
田原範子(たはら のりこ) 羽曳野丘陵地にある四天王寺大学の教員です
土屋雄一郎(つちや ゆういちろう) 京都教育大学教員
戸梶民夫(とかじ たみお) 京都大学文学部行動文化学系ゼミナール非常勤講師
仲尾友貴恵(なかお ゆきえ) 国立民族学博物館外来研究員、京都大学非常勤講師など
中川大一(なかがわ だいいち) 1986年から出版社勤務
林 泰子(はやし やすこ) 国際開発コンサルタント、関西学院大学非常勤講師など
ベナード・オプド(Benard Opudo) ナイロビで雑業の出稼ぎ生活を経て、リフトバレー地域のナンディ県チェプソノイ村で農業と製粉所
福浦一男(ふくうら かずお) 桐蔭横浜大学教員
松居和子(まつい かずこ) 2018年京都大学を退職後、オフィスまつい(代表)
松田素二(まつだ もとじ) 京都大学大学院文学研究科教員、紹介は本文1〜30章参照。
モニウィル・アンビチェ(Moniwill Ambiche) ナイロビで日雇い労働の出稼ぎ経験を経て、西ケニアのカカメガ県シャンボコ村で農業fと農村雑業
森田次朗(もりた じろう) 中京大学現代社会学部教員
彌重桃子(やしげ ももこ) 主婦
山口 智(やまぐち さとし) 年表に登場

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