ホーム > 朴泰遠を読む

朴泰遠を読む 55

「植民地で生きること」と朝鮮の近代経験

朴泰遠を読む

代表作「小説家仇甫氏の一日」「路地の奥」に描かれた市井の人びとを深く読み解く。混沌の中から文学、そして作家が生まれた。

著者 相川 拓也
ジャンル 文学・言語
シリーズ ブックレット《アジアを学ぼう》
出版年月日 2021/10/25
ISBN 9784894892965
判型・ページ数 A5・62ページ
定価 本体700円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

一 朴泰遠の生きた植民地期朝鮮
1 植民地都市・京城
2 京城のモダン文化と植民地期朝鮮文学

二 小説家の誕生――「小説家仇甫氏の一日」を読む
1 朴泰遠の小説と言語表現
2 仇甫と「幸福」
3 「小説家」の誕生

三 京城の路地の歳月――「路地の奥」を読む
1 都市の街路から路地の奥へ
2 路地の内と外
3 植民地で積み重ねられる時間

おわりに

参考文献
関連年表
あとがき

このページのトップへ

内容説明

京城の1930年代と朴泰遠のモダニズム
代表作「小説家仇甫氏の一日」「路地の奥」に描かれた市井の人びとを深く読み解く。ぎこちなくうごめくモダン文化、独立運動、左翼思想── 混沌の中から文学、そして作家が生まれた。

*********************************************

  朴泰遠(一九一〇―一九八六)という小説家がいた。代表作の「小説家仇甫氏の一日」(一九三四年)や『川辺の風景』(一九三八年)は日本語にも翻訳されており、韓国・朝鮮の文学に関心のある読書家にとっては、もしかすると耳に覚えのある名前かもしれない。日本の植民地となって「京城」と呼ばれるようになった現在のソウル都心で生まれ育ち、漢学、朝鮮王朝時代のハングル書き小説、さらに当時最先端のモダニズム文学を貪欲に吸収し、庶民の哀感を味わい深く描いた作家。韓国や日本での朴泰遠のイメージを簡潔にまとめるならば、このようになるだろうか。

 わたしが朴泰遠の作品にはじめて触れたのも、これらの日本語訳を通じてであった。小説の舞台となった一九三〇年代のソウルの様子が、当時としてはさぞ斬新だったに違いない、実験精神にあふれる文体で活写されていた。大学に入ったばかりで、いわゆる戦間期のアヴァンギャルド芸術にぼんやりとした関心をいだいていたわたしにとって、自分が専攻する朝鮮語でもそうした文学が書かれていたという事実は励みになるものだった。もっとも、語学力のじゅうぶんでなかった学部時代には、朴泰遠の書いた朝鮮語原文の機微や味わいは、日本語訳の向こう側に想像するほかないものだった。

 朴泰遠はまた、朝鮮が日本の植民地支配から解放され、南北に分断されてから、主に北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)で活動し、歴史大河小説の大家として名声を得た作家でもあった。北朝鮮文学や、解放後に北へ渡った作家の研究がまだ韓国でタブーだった時代、戦後日本で日本語訳された朴泰遠作品のひとつが、中国東北で抗日パルチザン闘争を展開した若山・金元鳳を扱った『若山と義烈団』(一九四七年)だった。こうした事実からうかがえるように、朴泰遠は、朝鮮と日本がたどった二〇世紀の歴史を身をもって生きた作家だったと言える。

 この小著では、朴泰遠の起伏に富む生涯の全容を紹介する余裕はないため、わたしの当初よりの関心であり目下の研究テーマでもある、一九三〇年代の京城を描いた小説を主題とする。なかでも主たる分析対象とするのは、「小説家仇甫氏の一日」と「路地の奥」(一九三九年)の二作品である。この二作品は、小説文体のうえで意欲的な試みがなされているとともに、それぞれの時代的特徴――一九三〇年代前半にすでに爛熟しつつあった京城のモダン文化と、日中戦争勃発(一九三七年)を契機にした戦時体制化――をよくとらえ、集大成している。こうした点で、この二作品は、小説家としての朴泰遠の代表作として取り上げるに値する。……

 日本語で書かれる本書で、植民地期の朝鮮語で書かれた小説について語ることには、おそらく困難がともなう。だが、本書ではできるかぎり精密に、小説の言葉の持つ意味を時に深く掘り下げながら、小説をとおして見えてくる植民地での生の経験を読み解き、朴泰遠作品のおもしろさを読者に追体験してもらうことを目指す。まず第一節では、朴泰遠が生きた植民地期朝鮮について、小説世界の導入として概説する。第二節では、「小説家仇甫氏の一日」を読みながら、京城の街を歩きまわる作家の分身「仇甫」の脳内をそのまま覗き見るような文体に着目しつつ、植民地で生きる「小説家」という存在について考える。第三節では、「路地の奥」で物語られる一家の主「令鑑」の半生を軸として、「植民地で生きること」という本書の中心的な主題に迫ってみたい。仇甫も令鑑も、朴泰遠の生みだした魅力的なキャラクターであるとともに、読者を導く良き案内人になってくれるはずである。

 なお、本書ではここまで用いてきたとおり、「京城」や「内地」など大日本帝国の植民地支配を背景とした用語や、「朝鮮人」など日本の植民地主義により日本語のなかで差別的な意味が付加されるようになった用語を使用する。これらは、当時の時代的文脈を踏まえた歴史的用語として用いるものであり、それ以外の意図はない。本来、歴史的用語としてカギ括弧を付して使用するのが適当と考えられるが、煩瑣を避けるため、強調や引用の場合を除いてカギ括弧は省略する。また、引用文中で、現在では不適切とされる観点からの記述が含まれる場合があるが、それらも当時の世界観を反映したものとしてそのまま引用することをお断わりしておく。

……

*********************************************

著者紹介
相川拓也(あいかわ たくや)
1987年、甲府生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士課程満期退学。一般財団法人日本エスペラント協会事務局長。
共著に、『言語態研究の現在』(山田広昭編、七月堂、2014年)、『한국 근대문학과 동아시아 1――일본』(김재용・윤영실 엮음、소명출판、2017年)、翻訳に、権寧珉「李箱、そして1930年代の東京」(『朝鮮学報』246、2018年)、李恵鈴「社会主義運動とモダンガール:韓国近代長篇小説の様式のある秘密」(飯田祐子・中谷いずみ・笹尾佳代編著『女性と闘争:雑誌「女人芸術」と1930年前後の文化生産』青弓社、2019年)など。


このページのトップへ