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或る中世写本の旅路 別巻23

イブン・ハルドゥーン『イバルの書』の伝播

或る中世写本の旅路

各国に残る数多の『イバルの書』写本。その来歴を「モノ」としてつぶさに追い、「思想」の伝播の実際に迫る。

著者 荒井 悠太
ジャンル 歴史・考古・言語
文学・言語
シリーズ ブックレット《アジアを学ぼう》 > ブックレット〈アジアを学ぼう〉別巻
出版年月日 2021/10/25
ISBN 9784894892972
判型・ページ数 A5・66ページ
定価 本体700円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに
   イブン・ハルドゥーン研究と本書の目的

一 イブン・ハルドゥーンと『イバルの書』
   1 イブン・ハルドゥーンとその時代
   2 『イバルの書』とその思想

二 写本の足跡を辿る
   1 写本とは?――近代以前における知の媒体
   2 写本系統と伝播の足跡
   3 図書館と『イバルの書』所蔵傾向

三 『イバルの書』写本の足跡
   1 同時代人のまなざし――一五世紀
   2 伝播と受容――オスマン朝
   3 筆写から印刷へ――近代エジプト

終わりに――イブン・ハルドゥーンの近現代

注・参考文献
関連年表
あとがき


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内容説明

主著の道行きから「文明史家」を再考する
トルコ、エジプト、チュニジア、モロッコそしてヨーロッパの各国に残る数多の写本。その数は『イバルの書』の価値と影響を物語るに十分だろう。本書はそれらの来歴を「モノ」としてつぶさに追い、「思想」の伝播の実際に迫る。

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 ……本書はこのような時代に産み落とされた学問的遺産の一つである、あるアラビア語史書の足跡を辿るものである。それは一四世紀の末にエジプトで完成をみた後、やがてオスマン朝に伝わり、イスタンブルから各地へ、ついにはフランスを通じてヨーロッパへと、数百年の時を経て伝播していった。しかもその構想はエジプトからさらに西方のマグリブで練られたものであり、完成の後にはエジプトからマグリブにも伝わり、読み継がれてきた。活版印刷技術の未発達であった時代、これらは手作業で筆写された「写本」と呼ばれる形態をとり、時に政治的、時に文化的交流を通じて伝播していったのである。この書物の名は『イバルの書』、その著者はイブン・ハルドゥーンという。

 本書の目的を一言で述べるなら、歴史的実在としてのイブン・ハルドゥーン(一三三二―一四〇六)とその思想の伝播を、写本という「モノ」を手掛かりに跡付けることである。しかし、そのような作業が必要なのは何故であろうか。また、なぜイブン・ハルドゥーンをその対象として取り上げるのであろうか。その背景を予め紹介しておきたい。

 イブン・ハルドゥーンとは、ハフス朝(一二二九―一五七四)が支配する北アフリカのチュニスに生まれ、政治家・歴史家として活躍した人物である。後年にはエジプトに移住し、司法や教育にも携わった。その生涯は政治的栄達と失脚の連続であり、波乱に満ちた生涯のなかでカスティーリャ王ペドロ一世(残忍王、在位一三五〇―一三六九)やティムール(在位一三七〇―一四〇五)といった、世界史に名を残す大物を相手にしての外交交渉も経験した。その代表作である『イバルの書』は全七巻に及ぶ歴史書であり、とりわけその第一巻である「序説(ムカッディマ)」は、『歴史序説』或いは『世界史序説』の名称で世界史の教科書等にも取り上げられている。彼はこの「序説」のなかで、歴史学のあるべき方法論を論じ、続いて「ウムラーン」という概念を固有の主題とする独自の学問的枠組みとして「人間社会の学問(イルム・アル=ウムラーン・アル=バシャリー)」を提唱したことで知られている。また第二巻から第七巻までは人類の歴史の叙述に充てられている。こちらでは、人類をアラブ人やベルベル人などの民族ごとに区分し、それぞれの世代、王朝ごとに歴史を整理するという独特の方法が採られている。……

 イブン・ハルドゥーンの思想の受容史は、近代すなわち一九世紀以降の動向に主な関心が払われてきた。それ以前の時代については、マムルーク朝やオスマン朝について若干の研究があるものの、その関心の範囲は現状ではかなり限られている。この種の議論は従来彼の思想が後代の著述家にどのような「影響」を与えたか、あるいは「後継者」は存在したのかという切り口でなされることが多く、後代の著作にはイブン・ハルドゥーンと共通する社会観や権力観が限定的に見出されるという結論に留まってきた。こうした見方は、中世の人々は「近代的」なイブン・ハルドゥーンを理解できず、その思想の真価は近代ヨーロッパで初めて再発見されたという「西洋における再発見」言説とも通ずるものがある。

 しかし写本というモノの観点からみれば、状況は全く異なってくる。というのも、中東や北アフリカに未だ活版印刷の普及していない一九世紀以前には、書物の製作には膨大な時間と手間を要した。書物の流通数も現代とは比較にならないほど少ない。人々の理解を得ず、読まれもしないような書物が手間をかけて筆写されるはずもなく、そのような書物は散逸するのが常であった。しかるに、イブン・ハルドゥーンの著作群はトルコ、エジプト、チュニジア、モロッコ、そしてヨーロッパの各国などに、現在確認できるだけでも一〇〇点以上が伝存している。このように多くの写本が伝存している事実自体、近代以前から彼がいかに人々の関心を集めてきたかを示す証拠なのではなかろうか。

 本書はこの事実にこそ着眼したい。後代への「影響」や「後継者」の有無という評価基準からは一度離れ、イブン・ハルドゥーンのテクストがどのように読み継がれ、今日の我々の手に伝わったのかを、写本というモノの伝播を通じて可能な限り跡付けるのが本書のねらいである。……

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著者紹介
荒井悠太(あらい ゆうた)
1990年、茨城県生まれ。
早稲田大学大学院文学研究科後期博士課程。日本学術振興会特別研究員DC2。
主な関心は前近代アラビア語歴史叙述、イブン・ハルドゥーン研究。
主要論文に「歴史叙述におけるアサビーヤ――イブン・ハルドゥーン『実例』の分析」(『イスラム世界』87、2017年)、「イブン・ハルドゥーン著『実例』テクストに関する諸問題――スレイマニイェ図書館所蔵Damad İbrahim Paşa 863-869の検討から」(史料研究、『東洋学報』第100巻2号、2018年)など。



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