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フィリピン女性たちの流産と中絶 56

貧困・贖罪・ポリティクス

フィリピン女性たちの流産と中絶

妊娠・出産はなかなか思うに任せない領域だが、中絶が違法とされる国では更に複雑である。女性たちの困難な選択に寄り添う。

著者 久保 裕子
ジャンル 人類学
シリーズ ブックレット《アジアを学ぼう》
出版年月日 2021/10/25
ISBN 9784894893023
判型・ページ数 A5・52ページ
定価 本体600円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに
1 経験者として、研究者として
2 「選択」を捉えなおす
3 フィリピン社会における流産・中絶
4 流産や死産の経験にみるつながり

一 フィリピンの性と生殖をめぐるポリティクス
1 リプロダクティブ・ヘルス(RH)とは何か
2 フィリピンの母子保健と家族計画
3 RH法制定後の混乱とその後

二 宗教解釈に基づく罪(Sin)としての流産と中絶
1 RH法に反対した宗教団体
2 プロ・ライフ派の思想
3 罪を認め、償いの活動をする女性
4 マリアとジジの流産・中絶
5 カルマを断つカウンセリング

三 スラム街での流産・中絶の経験
1 調査を拒絶され続けた一年間
2 女性の権利を求め続けて
3 言葉にあらわれない苦しみ
4 妊娠三ヵ月の境界線
5 主体的に選択する若い世代

おわりに

注・参考文献
あとがき

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内容説明

「罪」の意識と喪失感のなかで
妊娠・出産はなかなか思うに任せない領域だが、中絶が違法とされる国では更に複雑である。宗教的「罪」とその償い、貧困と流産・中絶、生命や女性の権利……立ち会った女性たちの困難な選択に寄り添う。

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 ……調査開始時の私の研究テーマは、「プレグナンシー・ロス」という言葉で表される妊娠期における喪失全般についてであった。当時の私は「プレグナンシー・ロス」を、流産・死産・そして人工中絶を含むすべての現象のことを指す言葉として意識的に用いていた。つまり、中絶は、私にとって主要な研究関心のひとつであり、あくまで流産・死産と同等の、喪失現象の一つという位置づけでしかなかったのだ。日本をフィールドにしていたのなら、倫理的問題において議論の余地はあるものの、水子供養に見られるように、どのような事情であれ、胎児の死を悼む文化的実践が根付いていることもあり、あまり違和感なく研究を進めることができただろう。

 しかし、フィリピンでは違った。フィリピンにおいて流産と中絶は全く異なる現象として捉えられており、そこで展開される問題関心も全く異なっていた。特に中絶は、二〇一二年に制定された「家族計画ならびに母親とその子供の健康に関する法(The Responsible Parenthood and Reproductive Health Act 通称:RH法)」をめぐって起こった、プロ・ライフ派とプロ・チョイス派の激しい政治的対立の爪痕が、調査を行った二〇一七年当時も色濃く残っていたために、とりわけ中立的な態度で研究することが難しいトピックとなっていた。……

 フィリピンにおいては、女性の権利として合法的な人工妊娠中絶は、そもそも認められていない。中絶自体が「憲法」のなかで禁止されており、違法である。刑法上では、中絶を行った場合、中絶した女性・関与した者に対して、禁固二年から最大六年の刑が処される。それゆえ、フィリピンにおいて起こったプロ・ライフ派とプロ・チョイス派の対立は、人工妊娠中絶の合法の是非や女性の堕胎の権利をめぐる対立ではなかった。

 フィリピンで議論されたのは、RH法案に盛り込まれていた条項に関する内容、すなわち、コンドームや避妊薬を用いた避妊の是非と、中絶した女性の傷ついた身体に対する医療的ケアとしての母体の保護などであった。なぜなら、避妊薬は中絶薬と同義のものであり、プロ・ライフ派の立場をとる医療従事者たちからすると、中絶した女性の身体のケアは宗教的解釈から、倫理的な葛藤を引き起こすためだ。ローマ・カトリックの教義に基づき、いかなる場合も受胎された時点で、それは保護されなければならない命であるとするプロ・ライフ派からすると、避妊薬や器具の使用は、中絶行為にあたり許されない。一方、プロ・チョイス派は近代的手法を用いた避妊は女性の身体を保護するために有効であると主張する。プロ・チョイス派は、ピルやIUD(子宮内避妊具)といった近代的な避妊方法に異を唱えることこそが、危険な中絶の実践というリスクを高めるとするからである。……

 中絶が生存権と女性の権利を対立軸にポリティカルな問題の中で常に論じられる一方、流産・死産の経験そのものは、あくまで私的な経験とされており、人口増加という経済成長と関連付けられた人口統計学的な問題以外で、社会問題として取り上げられたことはなかったのである。フィリピンで調査を進めるにつれ、調査開始以前に想定していたものと現実との違い、そして女性たちの流産・中絶の経験の語りにおける一括りにはできない多様なライフヒストリーは、私に多くの戸惑いと混乱をもたらした。

 たとえば、フィリピン社会で違法行為とされる中絶に対し、罪の意識に苛まれている女性もいれば、中絶ではなく、続けて経験した流産に対して、より強い想いを抱いている女性もいた。彼女たちの話は、多様かつ複雑で、取り留めのないもののように思えた。そして、なぜ中絶は罪深い行為とあれだけ言われているにもかかわらず、実際の聞き取りの中では、違法な中絶や自然流産といった差異とは関係のない基準で、それぞれに固執した経験と固執しない経験があるのか不思議に感じた。こうした違和感は、フィリピンにおける違法・合法といった社会的規範をいったん脇に置き、妊娠期に起きた喪失という現象そのものを扱い、どのようにしてそうした現象が起こったのか、そのメカニズムを探究したいという考えに繋がった。それが〝「女性の意志」や「権利」という言葉から連想される「選択」〟を捉え直すという考えに至った背景である。……

 本書は妊娠期の喪失をテーマに、女性たちと信仰、そして多層的な社会関係や社会構造が複雑に絡まっている女性たちの喪失経験の結び目をほどいてみる一つの試みである。


……

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著者紹介
久保裕子(くぼ ゆうこ)
1979年、宮崎県小林市生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程在籍。
主な論文は、「医療人類学においてヘルスコミュニケーションをどう論じるか――フィリピン・メトロマニラの多言語状況における“Abortion”の「誤用」と齟齬の考察を手掛かりに」( 『ことばと社会』22号 特集〈からだ〉のことを伝える〈ことば〉2020年)など。



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