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ラオス山地民とラム歌謡

内戦を生き抜いた宗教・芸能実践の民族誌

ラオス山地民とラム歌謡

歌い継がれてきた在来音楽の電子媒体化は、大衆と芸能者の「場」、音楽を楽しむ人間の身体経験をどのように変えていくのか。

著者 平田 晶子
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2023/02/20
ISBN 9784894893368
判型・ページ数 A5・368ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに
凡例

●第Ⅰ部 オンライン状況下の在来音楽の民族誌的記述に向けて

第1章 序論
 1 問題の所在
 2 研究対象への接近
 3 本書の構成

第2章 民族誌的探究の背景──調査村の概観
 1 サワンナケート県の地理的・歴史的概況
 2 村の形成史
 3 民族構成、家族・親族
 4 村のエスニシティ──重層的なエスニシティの使い分け
 5 言語環境の変化
 6 生業
 7 祖先崇拝と仏教の力のせめぎあいのなかで

●第Ⅱ部 五感統合の軸──伝統文化の維持
第3章 ラムとは何か
 1 聴覚重視の音楽的行為
 2 山地ラオの旋律と言語の関係

第4章 民間治療とラム歌唱──紡がれる祖先と子孫の社会関係
 1 村の「伝統病院」
 2 ラム歌唱能力と呪術的実践の併存
 3 治療で使われる供物とラムの旋律
 4 感覚的経験を通して生成される祖先表象
 5 社会関係の再活性化
 6 小括

第5章 感覚器間相互作用を活かした創造的な調整行為──仏教化を背景に
 1 外部社会から招いた守護霊
 2 神々に捧げるラムの旋律
 3 新米──出安居の儀の事例
 4 酒壺と酒──清祓の儀の事例①
 5 カー・ソー語の響き──清祓の儀の事例②
 6 小括

第6章 五感統合の音楽的行為──複数の精霊との遊びの事例
 1 仕掛けの布置
 2 統合的五感の身体的経験
 3 小括

●第Ⅲ部 五感分断の軸──在来音楽配信のオンライン化
第7章 多感覚の減縮に伴う音楽経験
 1 つながることへの期待──音環境の変化のなかで
 2 複製技術の高度情報化にみる多感覚の縮減的身体経験
 3 生き残る感覚的経験
 4 小括

第8章 総括と討論
 1 各章のまとめ
 2 民族共同体を超えた社会関係やコミュニティの形成にみる身体の働き
 3 五感統合の身体的な感覚経験を活かした音楽

あとがき
参考文献・初出一覧・付録資料・索引・写真・図・表一覧

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内容説明

在来音楽にとってオンライン化とは!
歌い継がれてきた在来音楽の電子媒体化は、音楽を楽しむ人間の身体経験に劇的な変革を要求している──。五感統合の従来型から視聴覚に傾斜した今日の受容のあり方は、大衆と芸能者の「場」をどのように変えていくのだろうか。

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はじめに






 なぜ人は音楽を奏で、そして音楽を聴くのか。また、なぜ人は音楽を身近な生活のなかに取りこみ、ともに生きようとするのか。その答えは、千差万別であろう。本書は、この地球上にある一つの小さな国で受け継がれてきた歌謡を題材に、音楽を愛する人びとの営為を追うとともに、これらの問いに答えるものである。

 音楽といえば、これまでの民族音楽学や芸術研究の領域において聴覚だけの話として考えられてしまいがちであった。ある楽器を奏でるときは、どのような音を奏で、どのように聴かせたのかという、聴覚への訴えに関心が寄せられたりもする。作曲するときには、正確に伝えることができるようにより正しい音を記録できる技法を身につけることが求められ、作曲家は音に耳を澄ませる。聴覚以外の働きは、おそらく何らかのメッセージを込めた記号としての身ぶりや手ぶりを楽器の演奏や歌唱に持ち込んで、聴衆を魅了することを意識した、パフォーマンスにおいて必要とされるのだろう。多くの人が、それをいつの間にか純粋の音楽を記述していると錯覚しがちである。

 しかし、実際に、音楽とは、それが実践される場というものの重要度が非常に高い。我々が日頃接する音楽は、決して人間の視聴覚だけを使った音楽的行為ではない。人びとが「音楽はやはりライブが一番だよね」というのは、決して商業主義の経営の罠にはまっているからではなく、現実の世界で音楽を体験すること自体に価値を見つけだし、何よりもそれは価値があることだと理解しているからである。ライブハウスで聴く音楽とは、視聴覚の話だけではなく、隣に誰がいるのか、誰と一緒に聴いているのか、誰の音楽を会場で聴いているのか、自分ではない他者との関係が重要な要素として入り込んでくるものである。たとえば、音楽家は、たった一人の観客であっても、来てくれた客に対して音楽を披露するだろう。しかし、「ライブハウスでの音楽」を期待して聴きに来た客は、一人ぼっちで音楽を聴いていてもどこか物足りなさを感じるかもしれない。むしろ、音楽は、ジャンルにもよるであろうが、誰と一緒に聞くのか、誰と一緒に演奏しているのかなどが、聴衆にとっても演奏する側にとっても大きな要素になるのではないだろうか。

 つまり、音楽とは、誰かと共に経験しているなど、自分以外の他者の存在があって音楽を楽しむことに特別な意味を含ませることもある。自分と自分ではない誰かがそこに共にあることが音楽することの重要な要素の一つでもあり、自分以外の他者との相互行為があって音楽を楽しむことができる。

 勿論、音楽の楽しさは、その音楽を聴いたときにどんな香りがその空間を漂っていたのか、何を飲んでいたのかなど、五感に訴える経験も重要な要素に挙がるかもしれないが、決して五感という感覚的な経験の語りだけでは伝わらない音楽のおもしろさの伝え方があるのではないだろうか。むしろ、誰と一緒に楽しみ、その場を経験したのか、というのが実は重要な要素に含まれることもある。それは、たとえ録画・録音のための複製技術が進展し、音楽空間がライブハウスからオンライン上へと移行したとしても、その音楽にアクセスしようとする人びとの感覚的な経験への共感に留まらず、歴史的な歩みや社会関係が織り込まれてくる。

 本書が扱うカップ・ラムないしモーラム歌謡と呼ばれる芸能音楽は、東南アジア大陸部のラオスという小さな国で歌い継がれ、この半世紀のうちに政治的・経済的な社会変化の中で奏でられてきた。1986年に打ち出された「チンタナカーン・マイ(新思考)」 以降、ラオス国内は市場経済化が進み、カップ・ラム歌謡ないしモーラム歌謡は新たな展開を迎えた。この政策以降、国内の市場化は、音楽業界における在来音楽の商品化を促した。音楽メディアはLPレコードやカセットテープなどのアナログのメディアから、デジタル複製技術開発の恩恵を受けてCDやVCD(ビデオCD)へと商品化していった。電子情報化されたデジタル・メディアは、インターネット環境下であれば、どこからでも音楽を配信でき、また視聴することを可能にした。国内の音楽家や音楽会社の関係者は、国外から複製技術を輸入し、VCDやDVDなどの音楽商品を生産し、音楽市場に流通させてきた。こうしたメディア媒体の変化は、音楽の聴き方そのものを変化させており、ラオスの人びとも、わざわざ音楽公演に行かなくても、いつでも、どこからでも音楽を愉しむことができるようになった。市場経済化は、音楽市場を動かす人、モノ、金、情報を徐々に国外にも開き、外国製の電気製品や電子機器の輸入と活用を受け入れ、国境を越えた音楽活動を促してきた。

 2000 年以降、インターネット接続環境のインフラ整備が国内に拡充したことで、本書が対象とするモーラム歌謡は、インターネット上に形成されるオンライン・コミュニティの環境に移されることになった。オンライン・コミュニティの台頭により、在来音楽の視聴や消費のあり方自体は、村落社会で視聴していた既存のライブによる音楽鑑賞の様式とは異なるものとして新たな視点から理解することが求められる。明らかなのは、在来音楽の電子媒体化は、音楽を楽しむ人間の身体経験に劇的な変革を要求している点である。ライブハウスで音楽を聴くときに働いていた人間の五感は、視聴覚に限られるようになり、それ以外の感覚器はディスプレイ画面によって遮断される。在来音楽の配信のオンライン化は、モーラム歌謡の音楽の身体経験に一体どのような変化をもたらしているのだろうか。たとえ視聴覚に限定された身体経験へと一変してしまったかのようにみえたとしても、誰かと共に聴く音楽の愉しみ方は根本的な部分で何も変わらないのではないだろうか。







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著者紹介

平田晶子(ひらた あきこ)
1983 年、東京都生まれ。
東京外国語大学大学院修了。博士(学術)。
筑波大学、慶応義塾大学、東海大学などで非常勤講師として「文化人類学」「地域研究」系科目を教授。
主要著書に、共編著『萌える人類学者』(東京外国語大学出版会、2021年 )。
主要論文に、「序 暮らしのなかのシェーン・オペラトワール――量化可能性とその限界をめぐる技術的実践の比較民族誌」(『物質文化』102:1-12)、「倫理価値と安全保障の創造――東北タイ芸能集団の技術的選択の事例から」(『物質文化』102:53-72)、「ケーンの吹奏をめぐる『男らしさ』の創成――ラオスのラム歌謡と性別役割分業の一考察」(『文化人類学』82(3): 290-310)など。

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