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辺境からの中国

黄海島嶼漁民の民族誌

辺境からの中国

辺境の島だからこそ顕著になっている諸現象を明らかにすることで、中国社会の実態とその未来が俯瞰できる

著者 緒方 宏海
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2023/03/25
ISBN 9784894893245
判型・ページ数 A5・298ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに

凡例

序章 辺境の離島から中国を俯瞰する

  一 中国の辺境、黄海離島島嶼社会の所在
  二 「島嶼性」とはなにか?──島嶼に生きる人々の特徴に関する先行研究の構図
  三 「島嶼性」からこぼれ落ちていた人の相互行為──本書の視座
  四 「差序格局」モデルから中国社会の新たな個人、「複数的個人」論への転換
  五 本書の構成

第一章 長山諸島の島民の歴史的経験

  一 自然誌と産業
  二 島への移動とコミュニティの形成
  三 初期の移民の移動

第二章 島嶼における産業の成立

  一 外国による島の支配
  二 日本による漁業政策の開始
  三 島嶼の植民地経験

第三章 中華人民共和国建国後の島嶼漁村社会

  一 「漁覇」の打倒と平等性の確立
  二 集団労働の形成と漁業生産
  三 文化大革命の動乱から個人の富の獲得

第四章 島嶼生活の網目

  一 島の経済、若者の個人化と通婚圏
  二 島嶼における宗族組織
  三 系列「分家」と世帯本位の暮らし
  四 漁業世帯の経営と女性の躍進
  五 近隣関係、格子状の女性のつながりと漁師の社会関係

第五章 島の村民自治

  一 中国の村民自治をめぐる諸問題
  二 村民自治に見る島の政治空間
  三 女性を媒介とした村の政治空間
  四 リーダーの手腕

終章 辺境の島嶼社会から中国をみる

  一 島民の相互行為と非同一的な動き
  二 展望──現代中国研究における新たな視座

あとがき

参考文献

写真・図表一覧

索引

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内容説明

本書のねらいは、従来の研究において空白地帯であった黄海辺境の島嶼社会の実態から、巨大な中国を俯瞰することである。辺境の島だからこそ顕著になっている諸現象を明らかにすることで、中国社会の実態とその未来が俯瞰できる。隣国の離島に住まう人々の実際の暮らしとその歴史について、ぜひとも理解を深めていただきたいと願う。(はじめにより)

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はじめに

 

 

 

 

 荒波に飲まれそうな小船、船のエンジンの白煙が唯一の酔い止め。中国本土から船に揺られて三時間、日本ではあまり知られていないが、黄海北部に中国最東端の長山諸島の島々が浮かぶ。どこまでも奥行きのある広大な中国だが、その中でも長山諸島は、「陸地」農村や少数民族が暮らす地域とは異なる様相をもつ。

 二〇一九年八月、筆者は長山諸島の各島にて、一五度目のフィールドワークに取り組んでいた。ここには黄海の豊かな漁業資源を生かして提供される、贅を尽くした海の幸や南国情緒の島の景色に魅せられた観光客が大勢大型フェリーで港に押し寄せる。島の若者は、港に集まりボロボロの中古トヨタ・ハイエースで忙しく観光客を島の宿に運ぶ。島の漁師(漁夫 yufu)とその妻は、陸地からの出稼ぎ労働者とともに大漁の漁獲物を船から運ぶ。陸地からの観光客は北京や河北省、東北三省の人々が多い。彼らの多くは「海を見たことがない、美しい海を見たい、海鮮を楽しみたい」という余暇のある富裕層だ。このような人々の期待に応えるために、経済的な潤いが最も得られる観光シーズンを迎えた長山諸島の島々は、至る所に島民の笑い声と活気が満ちあふれていた。

 こうした島の光景は、島が観光を始めた一五年前と比べると変わっており、二〇一九年にはリゾート地を演出する島民の「こなれた感」が日常生活に溶け込んでいた。しかし、定着してきたかのような島の活気の裏側では、近年外部企業に雇われた出稼ぎ労働者と島民との小さな軋轢が生じており、その結果、どこかしら不穏な雰囲気も島中に漂っていた。

 本書が対象としている長山諸島は黄海北部海域に位置し、一九五 (有人一八島)の島が集まって形成されている島嶼地域である。中国で唯一の島嶼国境県でもある。

 筆者が長山諸島へフィールドワークに初めて出かけたのは二〇〇四年八月のことだった。その時に乗船したフェリーの船長は、海域使用権をめぐる島民と外部企業の対立から発展した暴動事件があったことを例に挙げ、島民には明確に、「島上人心斉」(島の人々の心は一つである)があることを熱く語ってくれた。確かに、長山諸島のいくつかの島の村をざっと調べるだけでも、海沿いで、ベンチに腰を掛けて海を眺める古老たちは自分たちを中国語で「島里人」(daoliren島の人)と呼び、現在島の外からやってくる労働者を憚らずに「外拉子」(weilaziよそもの)と呼ぶ。また付け加えるならば、「外拉子」は今では島の外からやってくる農村の出稼ぎ労働者を指すのだが、かつては島の外の人間という意味で誰にでも用いられた言葉である。この対比は、「陸地」農村においても耳にすることができる「村里人」(村の人)というニュアンスとは少々かけ離れている。後述するように、「我以小島求生存、小島以我求発展」(私は小島に生存を求め、小島は私によって発展していく)という島民等のスローガンから溢れだすような、島の人間であるということへの誇りがあり、島が「陸地」農村に勝ち誇っているような思いを感じさせられる。確かに、島嶼社会の島民は、漠然としながらも確固とした一定のまとまりのある特徴を持つ。だが、この漠然としたまとまりは、喩えるならば、ある文脈で看取できるいっとき静的造形美をなす組み立て体操のようなものである。

 ポーランドの人類学者B・マリノフスキーは「毎日、村を歩き回っているあいだ、いくつか小さな出来事……ある形式がくりかえし目にうつったならば……印象を書き集め整理する」[マリノフスキー 二〇一〇:五九]と述べているが、「島里人」と「外拉子」は、まさに当該フィールドワークで筆者が繰り返し耳にした「形式」であって、書き集める語の中でも第一に書きとめねばならない語であった。ただし、長山諸島の郷鎮志[大長山島鎮志編纂委員会編 二〇一〇:七五〇]にも方言として紹介されている、この「外拉子」という言葉は、現在島の古老を除けば、今日、島民全員が一律に憚らずに発する言葉ではない。これには、フランスの社会学者のB・ライールが言うように、諸個人が多様な社会化を経験し、一個人が複数の行為者である[ライール 二〇一三]ということを想起させられる。

 本書では、この時の体験とフィールドワークに基づき、中国黄海島嶼社会において観察されるいくつかの相互行為を明らかにし、かつその相互行為が共同体として経験してきた歴史、黄海島嶼社会の形成、社会秩序とどのように結びついているかを分析することで、地理学の指摘するところの「離島」という辺境性から生じる相互行為の特徴について論証する。つまり、地理学が指摘するところの離島という辺境性から生じる社会的場所における人々の相互行為の特徴はどのようなものかを追求し、そうした相互行為が彼らの黄海島嶼社会の在り方、社会秩序と共同体として経験してきた歴史とどのように結びついているかを研究したいのである。ここでの相互行為とは、個人の気儘で恣意的な相互行為ではなく、彼らの共同体において外部観察者が観察できる行動規範に依拠した相互行為である。すなわち、島の共同体において島の人々が求められている慣習性と拘束性をもった行動規範、砕いて言えば、島民等が自らにふさわしいと考える振る舞いである。それらは島民を団結させる相互行為と言うこともできるため、本書ではこれらの様相を明らかにする。

 近年、中国農村社会に関する優れた民族誌や研究書が日本で数多く出版されている。このような動向の背景には、一九八〇年頃より、外国人が中国本土において研究調査を行うことに対して、中国政府側の門戸開放がいくらか見られたことがある。それ以降、研究者の精力的な調査によってそのベールの向こう側が明らかにされつつあるが、その上、欧米の人類学者が言うように、研究の世界ではフィールドワークは以前にも増して、課題解決型、都市型フィールドワークと、複数のフィールドを点々と移動しつつマルチサイトで行われるようになってきている[Pieke 2014: 125]。つまり中国というフィールドは依然として中国政府の許可が必要ではあっても、今や外国の研究者にも開かれてきているということである。さらに、フィールドワークに訪れる外国人の研究者を暖かく迎えてくれる中国の地元の人々のことも忘れてはならない。

 本書が扱う黄海の離島島嶼漁民社会は、中国大陸よりも日本との地理的な距離が近い。だが、日本のメディアによって取り上げられたことがなく、日本にとって中国大陸の農村よりも更に一層、見知らぬ土地である。

 従来の人類学及び中国研究ほか周辺分野においても、黄海離島島嶼社会というフィールドは研究上空白地帯のままであった。

 本書のねらいは、従来の研究において空白地帯であった黄海辺境の島嶼社会の実態から、巨大な中国を俯瞰することである。辺境の島だからこそ顕著になっている諸現象を明らかにすることで、中国社会の実態とその未来が俯瞰できる。隣国の離島に住まう人々の実際の暮らしとその歴史について、ぜひとも理解を深めていただきたいと願う。


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★第40回大平正芳記念賞(公益財団法人大平正芳記念財団、2024年2月1日、受賞決定)。
https://ohira.org/40-ohira-award

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著者紹介
 

緒方宏海(おがた ひろみ)
2010年 東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。
現在、香川大学経済学部准教授。博士(学術)。
主な業績:「現代中国農村における家族の個人化と新家族主義の展望─世代関係の複雑さと婦女主任の躍進が織り成す村の家族のかたち」『現代中国』(96号、2022年)、「日本の漁民社会における媽祖と船霊信仰の現代的諸相─香川県と青森県大間の事例を中心に」『香川大学経済論叢』(95巻3号、2022年)、「島嶼における家族の個人化の地域的特徴─香川県の小規模離島の事例」『島嶼研究』(23巻2号、2022年)ほか。

 

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