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天津の鬼市

路上古物市場をめぐる〈空間〉と〈場所〉の人類学

天津の鬼市

「沈黙交易」に由来する「鬼市」。改革開放を経て巨大な市場経済国家となった中国でなお命脈を保つその謎に迫る。

著者 櫻井 想
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2023/03/25
ISBN 9784894893375
判型・ページ数 A5・328ページ
定価 本体4,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

まえがき

序章 本書の問題背景と枠組み

  一 本書の問題背景
  二 本書の視座
  三 本書の構成
  四 調査対象地域の概要
  五 調査の概要

●第Ⅰ部 本書の問題意識と視座

第一章 攤販をめぐる「空間の政治」および〈空間〉と〈場所〉の人類学

  一 攤販をめぐる「空間の政治」
  二 〈空間〉と〈場所〉の人類学
  小結

●第Ⅱ部 天津における都市空間の生産過程と鬼市の歴史的変遷

第二章 都市空間の近代化と鬼市の成立・発展

  問題の所在
  一 近代以前における都市空間の特徴
  二 鬼市の起源と変遷およびその要因
  三 近代における都市空間の生産
  四 鬼市の実態と特性
  五 日本の統治時代・敗戦後における鬼市
  小結

第三章 毛沢東時代における都市空間と鬼市の社会主義改造

  問題の所在
  一 国民経済復興期(一九四九―五二年)における攤販の合法化
  二 社会主義改造期(一九五三―五六年)における攤販の合作化
  三 大躍進期(一九五七―六〇年)における天明市場の整風運動
  四 国民経済調整期(一九六一―六五年)における闇市の勃興と南開区廃品旧物市場の成立
  小結

第四章 改革開放以後における都市空間の再開発と古物市場の変遷

  問題の所在
  一 改革開放初期における天宝路旧物市場の創設と住宅改造(一九七七―九八年)
  二 都市形象の重視と「鬼市」の表象および変遷(二〇〇〇年以降)
  三 〈特色ある空間〉の生産と古物市場の規範化
  小結

●第Ⅲ部 「鬼市」という〈場所〉の創出

第五章 天津の人々にとっての「鬼市」──〈場所〉の名づけと記憶・伝承

  問題の所在
  一 鼓楼天街古玩市場は「鬼市」ではない
  二 「ホンモノの鬼市」
  三 「ホンモノの鬼市」としての天宝路旧物市場
  四 「現在の鬼市」
  小結

第六章 長江道綜合市場における古物の売買と〈場所〉の創出

  問題の所在
  一 長江道綜合市場の概要
  二 長江道綜合市場に集う人々
  三 長江道綜合市場における古物の売買
  四 古物の種類と顧客化の関係性
  五 長江道綜合市場と古物の流通
  小結

終章 〈空間〉と〈場所〉の視点からみる鬼市の歴史的変遷と存続のあり方

  一 鬼市の歴史的変遷と〈空間〉および〈場所〉
  二 「鬼市」の存続とアンビバレントな〈空間〉の力学
  三 今後の課題

あとがき

参考文献

索引

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内容説明

中国の「蚤の市」は死なない!?
異民族同士が接触を忌避するかたちでおこなっていた「沈黙交易」に由来する「鬼市」は、天津において100年余の歴史を持つ古くて新しい存在だ。改革開放を経て巨大な市場経済国家となった中国でなお命脈を保つその謎に迫る。

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まえがき

 

 

 

 


 本書は、中国天津市において「鬼市」の名で知られ、一〇〇年以上の歴史を有する路上の古物市場について取り上げる。そして、同市場の変容と持続のあり方に焦点を当て、〈空間〉と〈場所〉の人類学の視点から考察するものである。

 天津は、北京・上海・重慶とならぶ直轄市(省と同格の一級行政区画)の一つである。西北に首都の北京、東に渤海湾が面していることから華北地方最大の港を有し、経済的には広東省の珠江デルタならびに上海近辺の長江デルタに次ぐ地域として知られる。天津に進出する日系企業も少なくない。その地の利から歴史的にも植民地期には欧米の列強国ならびに日本が積極的に進出を目論んだ地域でもあった。

 二〇一三年、筆者は中国語を学ぶために天津の南開大学(周恩来や温家宝といった中国の元首相を輩出したことで知られる)に留学した。多くの留学生が大学内の寮に寄宿する中、庶民の暮らしに関心を抱いていた筆者は、自身で市内のアパートを借りて暮らした。天津には日本租界という戦前に建設された日本人居住区や当時の建造物が今なお多く残されている。古い街並みや庶民の活気が残る雰囲気が気に入り、筆者は日本租界時代に建てられた古びた建物の一室を借りて暮らしていた。

 筆者が借りた部屋の向かいには八〇代の老婆が暮らしており、彼女の五人息子の誰かが毎日やってきて母親の面倒をみていた。もっとも頻繁に面倒をみにきていた長男は、老婆の食事づくりや入浴介助のほかに、ありあわせの棒と布を使って床を磨くためのモップをつくったり、共同便所の水栓の補修をしたり、練炭ストーブの配管を交換したりと日曜大工のような作業をよくおこなっていた。しばしば筆者は興味深くその作業を眺めていた。

 ある日、筆者は話しの流れで日曜大工に用いる道具や材料をどこで手に入れているのかを彼に尋ねた。彼は、「鬼市で買ってきた」と教えてくれた。当時、中国語を学び始めたばかりの筆者は聴き慣れない市場の呼称に戸惑った。それまで耳にしたこと、実際に行ったことがあったのは野菜などの農産物や食材を売る「菜市場」(「農貿市場」、「自由市場」ともよばれる)だけであった。聴き慣れない市場だったため、その市場ではどんな物が売られているのかと筆者が尋ねると、彼は、「何でもある」と答えた。「鬼市」という変わった名前と響き、そして「何でもある」という市場がどのようなものなのか好奇心を搔き立てられた筆者は市場の場所を教えてもらい、後日訪ねてみることにした。

 現地に着くと、市場の雰囲気と熱気に筆者は圧倒された。旧市街の中心に近い西関大街という通りの両側と通りの側の広い空き地を占拠するかたちで、中古の自転車部品・工具・家具・電化製品・古着・価値がありそうな骨董品・本物かどうか疑わしい高級酒や煙草、一般的には販売を禁じられているはずのポルノ関連の品々、はたまた木材の切れっ端や用途不明のガラクタなど、ありとあらゆる物が並べ売られ、通常の歩行が困難なほど沢山の人で賑わっていた。多くの人に「鬼市」とよばれ親しまれていたものの、正式には「西関街旧物市場」という名称がつけられたこの市場では、地面にあらゆる物が雑多に並べられ、人がひしめきあい、あちらこちらで値段交渉や雑談が繰り広げられていた。まさに「混沌」という形容がふさわしい市場であった(表紙写真参照)。

 留学から帰国した後、結婚や子供の誕生といった出来事が重なり二年ほど大学院を休学していた筆者は、二〇一六年に研究を再開するにあたり、思い切って民俗学から文化人類学へと専攻を替え、研究対象も日本の農村から天津の鬼市へと転換することに決めた。フィールドを農村から都市へ、それも日本から海外へと変更したために、当初現地調査は困難をきわめた。そのため、天津の図書館で文献史料の収集作業を優先的に進めることにした。

 二〇一八年五月、鬼市の歴史的背景の整理を終え、大学の夏季休暇を利用して本格的にフィールドワークを始めようと計画を立てていた矢先、日本にいる筆者の耳に、「西関街旧物市場が強制的に撤去された」、という知らせが入ってきた。この報を知った筆者は、この研究を継続することができるのだろうか、と先が真っ暗になった。その前年、西関街旧物市場で知り合い、連絡先を交換していたある古物売りの男性に、「もう調査ができなくなるのではないか」と微信(SNSの一種、日本では「ウィーチャット」の名で知られる)で相談したところ、彼は、「問題ない!」とあっさり答えた。

 二〇一八年夏、西関街旧物市場の強制撤去から二ヶ月後の天津に訪れた筆者は、先ほどの男性の言葉が決して筆者をなぐさめるためのものではないことがわかった。西関大街の強制排除を受けた後、古物の売買をおこなう人々は度重なる取り締まりを経験しつつも、天津市内の様々な路上や空き地を転々と移動し活動を継続させていたのである。そのとき、西関街旧物市場で知り合ったある男性と偶然再会した。西関街旧物市場に毎日通うことを趣味にしていた彼は筆者に対して、「鬼市は死んでいない! 鬼市は死なない!」と語ってくれた(二〇一八年九月一日)。本論で詳述するが、市場への取り締まりは、鬼市の成立の起源とされる清朝末期から現代に至るまで、一〇〇年ほどの歴史的なスパンでみれば継続的におこっていたことであり、鬼市に集う人々にとっては特別珍しいものではなかったのだ。しかし、一方で、「現在の鬼市はすでに伝統的な意味での鬼市ではなくなった」(二〇二一年三月二八日)、と語る天津の人々も少なくない。

 このような現地での経験から、度重なる取り締まりを経てもなお「鬼市」が死なないのは何故なのだろうか、「伝統的な鬼市」と「現在の鬼市」とはどのような違いがあるのだろうか、という問題を考えるようになった。「鬼市」のようなインフォーマルな路上市場の存続と変容の問題は、天津という一地域に限らない経済発展が進む諸都市で広くみられる問題であろう。本書はこうした問いに答えるための筆者なりの拙い一つの試みである。

 

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著者紹介
 

櫻井 想(さくらい そう)
1986年生まれ。
2022年龍谷大学大学院国際文化学研究科博士課程修了。博士(国際文化学)。
専攻は文化人類学、中国研究。
現在、(中国)紅河学院民族研究院 講師。
主論文として、「近代天津における鬼市の変遷と都市管理」(『中国:社会と文化』33号、2018年)、「天津の「鬼市」:中国都市部における路上古物市場の特質に関する一考察」(須藤護ほか編『民俗学の射程』晃洋書房、2022年)など。


 

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