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民族の語りの文法

中国青海省モンゴル族の日常・紛争・教育

民族の語りの文法

チベット化したモンゴル族の調査を通し、日常さまざまに語られる「民族」を掬い上げ、語られてきた側からの主体的自画像を探る。

著者 シンジルト
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2003/09/10
ISBN 9784894890169
判型・ページ数 A5・358ページ
定価 本体4,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

序文
地図

第一章 理論研究における民族の語り
 はじめに
 一 理論一般における民族の語り
 二 族団論
 三 多元一体論
 四 族群論
 五 中国の民族学研究史にみる民族の語りの変遷
 おわりに

第二章 モンゴルイメージと河南蒙旗モンゴル社会
 一 モンゴルに関する学問的な語り
 二 河南蒙旗の民族史
 三 河南蒙旗という社会

第三章 日常生活における民族の語り
 はじめに
 一 ソッゴHと「ソッゴH的なもの」
 二 自治県内部におけるソッゴの語り
 三 自治県外部におけるソッゴの語り
 四 河南蒙旗社会外部におけるソッゴ
 五 民族の語りのパターン、語りの文法――結論

第四章 牧地紛争における民族の語り
 はじめに
 一 河南蒙旗の牧地紛争経験
 二 紛争当事者の語り――西部の事例を中心に
 三 牧地紛争と仲裁者
 四 河南蒙旗にとっての紛争と民族
 おわりに

第五章 教育運動における民族の語り
 はじめに
 一 背景
 二 高揚
 三 衰退
 四 語り
 五 考察
 おわりに

第六章 結論――民族の語りの文法
 一 語りのパターン
 二 語りの文法
 三 語りを扱う本研究の意義

あとがき
引用文献
写真・図表一覧
索引

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内容説明

チベット化したモンゴル族の調査を通し、日常や紛争・教育の現場でさまざまに語られる「民族」を掬い上げ、巨視的な議論が見落としてきた等身大の民族像を呈示。語られてきた側からの主体的自画像を探る。


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序文



本書は民族の語り、そしてその語りの文法に関する民族誌的研究である。ここで、「語り」を強調するのは、民族は実体としてどこかに「ある」ものでないという筆者の認識に基づくものである。語りの「文法」を強調するのは、語りは恣意的でないという筆者の観点を表明するためである。「ある」ものではないにもかかわらず、民族がそれを語る者にとってリアルであるのはなぜか。これが本書の主題である。


筆者は本書において、民族が客観的に存在するかどうかを確認するというよりも、むしろ、人間の語る行為に民族が登場するという争う余地のない事実に注目したい。というのも、この語る行為、つまり、語りの分析を通じて、民族現象の実態を捉えることが可能だと考えているからである。


民族について語る主体は、階級や国籍を問わず一般の人から学者や為政者までと幅広い。学者、為政者、民族主義者の語りは、「理論」、「政策」、「主義」として注目を浴びてきた。そのいずれでもない、「○○族」とされる人々の言論は、たとえそれが「某氏の話」とされても、公の場(政治的、アカデミックな場)に登場することはほとんどなかった。つまり、民族について語る主体は常に同じ土俵にないのが現状だったのである。


しかし、「理論」にせよ、「話」にせよ、いずれも民族に関する人間の語りであることに変わりはなく、したがって本書では総じて「語り」と称する。その中でも、疎外されてきた「○○族」の人々の語りに注目することが大事である。彼らの語りは疎外されてきたからこそ、民族という現象を理解するにあたっては新たな視点を提供してくれるであろうからである。こうした観点から、本書においては主体を中国青海省河南モンゴル族自治県のモンゴル族の人々に設定し、彼らによる民族の語りを分析していく。


中国は五六の民族によって構成された多民族的な複合社会(国家)である。これは、内外ともに認識する事実である。そこで、この(「科学的な民族識別」に基づき)公定された民族を問題にしようとする人々が多く現れてきた。中国国内においては、おおかた『中華民族誰也離不開誰的故事』[鄭 一九九五](中華民族各構成員は互いに離れることができないという物語)のように、「中華民族的多元一体格局」[費 一九九九]論的な国民統合的志向で、つまり国家主導のもとで体制や秩序の維持や安定のため為政者と学者は民族を語り合ってきた。それを「国家型語り」と名づける。


中国国外においては、概ね自由・人権・平等の名の下で、多くの人々、とりわけ国家に対する反感を抱く学者たちが少数民族へ関心を寄せ、つまり「国家型語り」と対抗する形で、少数民族を近代国家への抵抗のシンボルとして賛美的に語ってきた。それを「学者型語り」と言っておこう。


両者の語りに思惑や方向の違いこそあれ、同一基準(国家の民族識別による公定基準)で民族を語ってきたことに変わりはない。これを、総じて「権威的語り」と呼んでおく。そこで語られた少数民族像は、公定少数民族像である。


他方、語られてきた少数民族側はといえば事情はやや複雑になる。一口に少数民族といっても、学者や官僚そしてナショナリスト的なポジションにある人たち(少数民族エリート)は基本的に民族の代弁者と自認しながら、権威的語りの基準に則って民族を語るケースが多い。その一部は国家型、一部は学者型語りにそれぞれ片寄っている。


では、そうではない少数民族を生きる人々(少数民族民衆)はどうなのか。彼らは自ら背負う「少数」や「民族」の現状に無関心ではなく、何らかの形でそれに言及し、解釈を加えている。権威的語りにはめられ公定少数民族像を演出する者もいれば、そうではない者もいる。彼らの語りには国家型あるいは学者型語りのどちらかに近似する部分があれば、時と場によって両者を混同する部分もある。更に、これらと異なる語りの場合もある。「複雑」だが、彼らにとってそれは「矛盾」ではない。彼らも同時代の一人ひとりの人間として、身のまわりの既存秩序を時には遵守し、時には違反する必要があるからだ。これは、彼らの「自家製語り」と言ってよい。彼にとってはそれが主体的なものでもある。その意味で、彼らは「少数」でもなければ「民族」でもない「普通」の「人間」である。


したがって、常に「少数民族」と名づけながら彼らの事象を考察しようとすれば、彼らの現状や心情を見逃すことになる。これは今まで歴史・政治学的な接近法で行ってきた少数民族研究の特徴であり、限界であった。例えば民族紛争や民族運動をみる際、それを安易に葛藤や運動といった巨視的な次元で取り上げるのでは、彼らの実状の理解には至ることができない。微視的な接近法で、少数民族の社会現実問題に注目すれば、従来の少数民族研究に現れてこなかったいくつかの景観がみられる。その社会的現実問題とは、どこの社会の誰にでも一度は経験しうる日常的な出来事や、隣り同士での摩擦や衝突、そしてそれらに対する人々の判断や行動である。その中でみられる景観とは、個々の人間の様々な行動様式や人々自らその行動に付与する意味である。出来事、とりわけ紛争に関する人々の意識は、状況によって民族を基軸とした意識へと傾斜する。そこで、問題の原点はいくつかのコンテクストの中で展開される人間同士のやり取りと、それに関する人々の解釈および語りにある。本書では、現代中国における民族のあり方を考察するひとつの手がかりとして人々の語りに注目したい。



以上を踏まえて筆者は、中国で言う青蔵高原(青海チベット高原)に居住するモンゴル族の民族的自己認識の動態を民族誌的に描いてゆく。方法論的には、個人というキーワードに力点を置き、様々な人の語りから民族をみるという接近法をとる。語りの素材は個人の日常経験、集団的実践としての土地紛争と教育運動の三つである。ここで言う人々とは、「チベット地域」のモンゴル族の人間であり、彼らは一連の「社会劇」[ターナー 一九八一(1974)]の主役となる。主な相手方はチベット族の人々や、他地域のモンゴル族の人間である。舞台は、彼らが所在する特定の地方自治体、周囲との境界線地帯、他のモンゴル地域などである。舞台背景には国家(それを管理する政府、政府による政策など)や、宗教的権威(寺院、宗教団体や高僧)などがある。


本書は、「少数民族とされる個々人の日常経験」、「異なる少数民族同士の相互作用」、「同一少数民族内部での相互作用」の三つの問題に特に注目し、六章によって構成される。


第一章「理論研究における民族の語り」では、広い意味で本書に関連する先行研究をレビューする。そこでは、主に人類学における民族に関する諸理論を概観し、それから中国国内の民族学研究における民族理論の流れを確認する。


第二章「モンゴルイメージと河南蒙旗モンゴル社会」では、モンゴルを研究対象としてきた学問分野におけるモンゴル表象問題に言及し、本書の対象地域やその近隣地域における研究成果や地域的な情報を紹介する。その上で、研究対象地域の歴史的社会的な事情を紹介する。


第三章から第五章までは本書の中核となる民族誌的な部分である。第三章「日常生活における民族の語り」では、主に個人の経験に注目し、人々が日常生活においてなぜ、どのように、民族を語っているのかを分析する。ここで登場する「人々」をその置かれた歴史や社会的状況の特徴などから三つに分類し、「日常生活」の場として主に地域社会(生活圏)内部と外部の二つを想定する。「民族の語り」の内容に関してはまず、チベット語でモンゴルを言い表す「ソッゴ」という語の使用状況を紹介し、それに纏わるいくつかの「ソッゴ的なもの」を検討する。その上で、モンゴル族とチベット族との間に現れた民族的帰属の変更に纏わる諸事象を考察する。最後に、漢族や回族そして他地域のモンゴル族との関係、すなわち地域社会外部におけるソッゴの語りを検証し、語りのコンテクストの重要性を強調する。その中からいくつかのパターンを見出し、それからの考察の土台とする。


第四章「牧地紛争における民族の語り」では、紛争というコンテクストの中で、人々はどのように民族を語っているかを考える。当章での人々の紛争相手は主に近隣チベット族となる。まず日常化する紛争経験を提示する。中でも、チベット族からモンゴル族に民族的帰属を変更した一地域の住民の紛争事例を中心的に取り上げ、紛争の進行過程、被害状況、様々な立場にある人々の対応策などを検討する。それから、宗教団体などの民間的権威や地方行政、国家的権威などが紛争やその調停にどのように関わったのかを検討する。最後に、紛争経過や紛争調停に関する語りにおける民族の比重を考察し、いかなる過程を経て紛争は民族紛争になるのかを分析する。


第五章「教育運動における民族の語り」では、日常生活や紛争における経験、そしてその中で現れてきたマクロな政治的な情勢変化などの要素を踏まえて、運動として地域社会で現れた民族や民族言語へのこだわりを分析する。この章での人々の交渉相手は主に他地域モンゴル族となる。そこで、まず「ソッゴ的なもの」の対比として現れた「モンゴル的なもの」の諸相を提示する。そして、運動の高揚から衰退までの過程を詳細に記述する。それから、運動の裏にあった人々の語りから運動の動機や実情を明らかにする。最後に、それらの語りを分析することで、運動における民族の位置づけ、民族に対する人々の新たな認識変遷を考察する。


第六章「結論――民族の語りの文法」では、河南蒙旗における民族に纏わる語り分析を統括し、民族意識の動態を考察する。その上で、本書で展開してきた研究の意義を確認して締めくくることとする。……後略


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執筆者紹介
シンジルト(Shinjilt 新吉楽図)
1967年 中国内モンゴル自治区生まれ。
1989年 中国西北民族学院歴史学部卒。
1993年 内蒙古社会科学院歴史研究所勤務を経て来日。
2002年 一橋大学大学院社会学研究科博士課程修了。
博士(社会学)。専攻:人類学。
現 在 一橋大学大学院社会学研究科助手。
論文に「中国青海省河南モンゴル族自治県におけるモンゴル語教育運動」『一橋論叢』119(2)、「文化変容と民族的アイデンティティの変遷」『地域研究論集』2(2)など。

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