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韓国人類学の百年

韓国人類学の百年

植民地時代・戦後の混乱期を含め、困難な自画像にあえて挑戦した渾身の著作。丹念かつ冷静な歴史の発掘から人類学への問いかけ。

著者 全 京秀
岡田 浩樹
陳 大哲
ジャンル 人類学
シリーズ 人類学専刊
出版年月日 2004/03/20
ISBN 9784894890268
判型・ページ数 A5・568ページ
定価 本体6,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

日本語版によせて
 はじめに──人類学の土着化のために
 関係地図・凡例

1 韓国人類学を議論する基盤

 一 議論の範囲
 二 私の理解する人類学
 
2 植民地支配と韓国人類学

 三 韓国人類学の黎明──近代性と近代化の混在
 四 日本帝国の植民地統治と人類学的知識の動員
 五 アカデミズム人類学の出現
 六 朝鮮民俗学会の統合力
 七 人類学の周辺で活動した学者たち

3 人類学の専門化における短い復興期──解放と戦争の間

 八 国立民族博物館と宋錫夏(石南)
 九 朝鮮人類学会、そして大韓人類学会へ
 一〇 「宋錫夏・孫晋泰」
 一一 人類学科の始まりと終わり──「京城大学」から「国立ソウル大学校」へ

4 韓国人類学のながれ

 一二 人類学的アイデアの復活
 一三 北朝鮮学界の動向──「社会主義民俗学」から「主体思想民俗学」へ
一四 中国東北における朝鮮族の民俗学
 一五 近年の韓国人類学の国内における傾向
 一六 制度的次元での変化──学会と学科
 一七 外国の学界における韓国研究
 一八 人類学的方法と研究の拡張

5 韓国人類学の反省と展望

 一九 既存の「学史」類に対する見解
 二〇 韓国において人類学とは何なのか──分離から統合へ
 二一 総括と展望

 訳者あとがき(陳大哲)
 解題(岡田浩樹)
 参考文献

付録

 一 一九世紀末の欧米人の韓国に関する人類学的研究
 二 著者別論著目録データベース(一九四六─一九九五年)
 三 アメリカの大学の韓国人類学関係の博士論文目録(一九八七─一九九五年)

 参考文献(原文)
 表一覧
 事項索引
 人名索引
 関係略年表
 英文目次

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内容説明

植民地時代・戦後の混乱期を含め、描くことの困難な自画像にあえて挑戦した渾身の著作。丹念かつ冷静な歴史の発掘から、植民地主義・オリエンタリズムの対象となった民族からの、「人類学研究」に対する真摯な問いかけが浮かび上がる。


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日本語版によせて


シカゴ大学のジョージ・ストッキング博士はグローバルなレベルで「人類学史」というジャンルを一つの分科として設定し、これまで多くの業績を生み出しているが、その内容を見ると、日本および東アジアの人類学について関心を示していない。こうした「東アジアの人類学」に対する学問的な認知度の低さについて、私は非常に残念に思い、反省の声を高めていきたいと思っているのが今の率直な心境である。私は「東アジアの人類学」を志向しており、グローバルなレベルで進められている人類学史の一翼に東アジアも含まれるべく、一連の作業を続けている。本書はそのような認識の枠組みを目指した進行形の作業の第一歩と言える。


歴史を学ぶ姿勢は基本的に自省(reflexivity)を目標にしており、そのプロセスは徹底的なメタ・ディスコース(meta-discourse)であると思う。言い換えると、ディスコースのディスコースを構成することが歴史を学ぶ核心であり、人類学史は人類学を構成してきたディスコースに対するディスコースとなるわけである。このプロセスにおいて客観性と代表性を立証する基本は、正確で密度の濃い資料の蓄積であることは言うまでもない。正確な事実に基づかず、基本資料があいまいなディスコースは、学問ではなく、言葉の遊戯に過ぎないと言い切ってもいいであろう。


原著『韓国人類学百年』の出版に先だって、私は「屈折と跛行の韓国人類学百年」というタイトルで学術誌である季刊『韓国学報』にその主要な内容を発表してきた。論文のタイトルが示すように韓国人類学が辿ってきた道は、一言で「屈折と跛行」の歴程であったと思う。もちろん、これらの成果が、まだ微々たるものに過ぎないことは自認しているが、日本の帝国主義による植民地支配と、米・ソのスーパーパワーが主導してきた冷戦時代の破壊的な戦乱の過程が、学問の領域まで刻印し、韓国の人類学に「屈折と跛行」を定着させ、制度化させた主役であったことが、概略的ではあるが立証できたと思っている。


歴史に降りそそいだ支配と破壊のメカニズムによって基本資料のほとんどが隠滅されたことも確認できた。また最近発表された韓国の人類学史に関する研究の一部にも、意図的な排除の疑惑があったと思わざるを得なくなってきている。私は経緯の如何を問わず、隠滅されたに違いない基本資料を求めて古本屋と図書館を探し回り、非公式なインタビューを続けてきた。いつの日か正確な事実に基づく基本資料のみにより、本書の改訂増補版を完成することを心から願っている。基本資料を破壊、隠滅した意図やその過程に対しても、学問の名において厳粛な告発の章を付け加えたいと念願している次第である。


本書の相当部分は、「日本人類学史」にあたる内容構成と重なっていることをあらかじめお断りしておきたいと思う。日本による植民地支配という歴史的特殊性が韓国および韓国の人類学史というジャンルを覆っているため、本書で論じた多くの部分は「日本人類学史」の延長線上で熟考されるべき問題であるとも言える。このような理由から、本書を読まれた日本の読者は、多次元の自省と重層的な他者化(otherizing)が交差する過程を経験することになろうかと思う。そのような経験に基づいて本書の内容を厳しく批判し、忌憚のない叱声をお待ちしている。


最後に、翻訳を快く引き受けて下さった岡田浩樹博士(神戸大学)と陳大哲博士(中部高等学術研究所)の粉骨砕身の作業に敬意を表したいと思う。お二人の努力と熱情がなかったならば、本書の完成はなかっただろう。また、(財)日韓文化交流基金からは本書の出版に対し助成金を交付して頂き、風響社の石井社長には原著の刊行に先んじて本書の出版を引き受けて頂いた。このことが今日の結果を生み出す契機になったと思っている。日韓文化交流基金と風響社のさらなる発展を心より願いつつ、皆さまへの感謝の言葉にかえさせて頂きたいと思う。


二〇〇三年常春の冠岳山で                     全 京 秀


はじめに


人類学の土着化のために


粗雑なリズムで踊ることくらい、あきれたことはないだろう。人類学に入門してから三〇年少しの経験しかないのに、学史整理に乗り出すのは立場をわきまえない行為だと自分でも率直に認めざるを得ない。とはいえ、粗雑ではあってもそれなりに形にしなければ、けっきょく円熟した姿もお見せすることができないかもしれない、という焦りから、作業が中途のまま上梓することにしたわけでもない。未熟なものが円熟した姿に育つその過程こそがより重要だと考えて、私はこの作業をはじめた。学問というものは、その過程が重要である。また私は、どのような状態であれ過程を明示する人間が学者であると考えている。だから、学者になりたいという思いから出発した私という人間の生き様をお見せする作業の一環として、未熟な試行錯誤の過程をお見せすることにしたのである。


一九九四年秋、ある学術雑誌の編集者から韓国解放(独立)後五〇年間の韓国人類学を整理してくれないかという注文を受けた。その当時までではあったが、この地(韓国)の人類学という学問の始まりから現在までの物理的な時間は、学説史をまとめるまでの道程の長さに至っていないという認識が支配的であったため、かなり躊躇する余地のある作業ではあった。が、他の学問分野で「解放(独立)五〇年」の雰囲気を整理するということだったので、それに参加しないことから予想される韓国学界全体における疎外感から逃れるために、恐れもしらず先学たちの業績を整理する仕事に縛り付けられることになってしまった。


韓国の人類学に関しては、「一九五八年韓国文化人類学会が発足し、同じ頃大韓体質人類学会が、そして一九六一年にソウル大学校文理科大学で考古人類学科が設置されたことにより、公式的な教育機関で人類学という学問がはじまった」という世間一般の見解がある。こうした背景に加え、不明瞭ながら「解放直後には大韓人類学会というものがあった」という簡略なコメント程度の言及がひとつかふたつなされてきたような人類学会内部の状況があった。人類学は相対的に「少数派」の地位にあって、韓国の学会でそれほど大きな勢力を育て上げることができなかった。そのような現在の韓国人類学界の弱い立場もあって、解放後五〇年間の韓国人類学学説史を整理しようという意欲を、後押ししようとするような余裕もない雰囲気であった。しかし私の作業は結果的に一〇〇年の歴史を整理することになってしまった。


今回の作業で集中的に明らかにしようとした部分は、本書の第三部である。現在からの圧力が、過去を明らかにしようとする時もっとも強い障碍になる、という点が、時間がたつにつれはっきりしてきた。第三部において韓国人類学の過去を暴いて見せる際に、もっとも強い障碍物であった問題点が、時間が経過するつれ、少しずつはっきりした姿であらわれ始めた。


まず先学たちの個人のレベルで問題が現れ、ついにはこれが巨大な時間の壁が立ちはだかるかのような構造的レベルの問題であることを把握するようになった。つまり個人の問題ではなく、全体の問題であり、それは時代の問題であると考えるに至ったのである。左翼(共産主義)に関連すると推測される部分については、すべてが終始口を閉ざしているような雰囲気もあった。むしろ、人類学は被害者であるという意識の表れとして、とにかく事実を隠蔽しようとした形跡も見受けられた。まったく、なにものかの手による強力な操作が加わっていなければ、事実がこれほどにも徹底的に消えてしまったり隠れてしまったりするものだろうか、という思いに至るほどであった。こうした状況も、私たち韓国人が同時代に作り上げつつある韓国文化の重要な側面だと認識したい。そして思想的偏向と学問の間にあって、学ぶ人間はどのような立場にたつべきかという問題には苦悩せざるを得ない。


私は平素、イデオロギーで飾り立てた国家や民族という用語・概念に対し大きな疑念をもって生きている人間である。国家や民族というものは、その名のもとにどれだけ多くの個人を犠牲にしてきたかということを常に考え、学んでいる。犠牲を強要するこの全体の力に対し、我々は積極的に対処する過程を示さなくてはならないと考えるようになった。なぜならば、韓国人類学史を整理する作業を通して、私は国家や民族という次元に関わり、この避けることのできない大きな問題についてはっきりした立場を持つことができ、歴史とは本質的に規模の問題であると考えるようになったからである。


このごろ人類学で流行しているライフヒストリー(生活史研究)は、個人の生活を基礎にし、文化の全体像に迫っていこうという方法である。ライフヒストリーを登場させる前に、まず一定規模の社会単位を対象とした歴史を整理することが順序であると、私は考えるようになった。モダニティがポストモダニティの母であることを見失い、ポストモダニティのうわべだけの形式に追随することは、解体もできないのに斧や金槌を振り回すようなものだ。学界の全体的な枠組みの中でモダニティをいったん整理し直す過程があってこそ、ポストモダニティの議論が光を放つことができると思う。ポストモダニティを追求するためには、解体すべき対象をまず構築しておくのが順序ではないか。学問の歴史を整理する際には、このような歴史性に内在する規模の問題をおさえてゆくことが必要だと認識することが、問題意識の出発点になければならないことを強調したい。
そうしてこの五年の間、私は少なからぬ図書館と古書店を訪れた。直接訪問が難しいところは司書を通すか、あるいはそこにつながりを持つ同僚たちを通して、かすかな期待をもって「もしかしたら」と尋ねるしかなかった。「もしかしたら」はほとんどの場合「やはり(出てこなかった、無理だった)」という結果に終わったが、それでもときおりその姿を垣間見せる破片に接した喜びから、モザイクを作るような作業を続けた。


破片たちは、それらが現れる背景からすればたいてい「例外的なもの」として扱われるものが大部分であった。そのような「例外」ばかりを集めてひとつに構成してみると、やがてそれらを「例外」としてではなく他の姿で見ることができるようになった。そのため、歴史とは作り出していくものだ、と考えるに至り、また伝統とは常に創造されるものだということを痛切に感じるようになったようだ。


もう一つの経験を示そう。過去に出版された雑誌目次は大部分、論文、書評、彙報、雑報などから構成されている。内容を示す最後の部分に注目すると、編集後記が付されている場合が多い。論文と書評、そして回顧などは目次に題目が掲載されているが、雑報や編集後記がどのような内容であるかは情報がない。雑誌の人名や論文名を追跡する作業の際に、見過ごすことのできない部分が雑報と編集後記であった。そこにある雑多な情報は、当時の学界の構成と動向を脈絡づけるのに大きな助けとなった。最近の学術雑誌に、そのような情報をほとんど掲載することがないことは大きく反省すべきであると、あらためて考えさせられた。個人の論文のみ掲載された学術雑誌は、学界全体の流れを見ることのできる内容を排除してしまうものである。


これらの作業を行って本当につらかったことは、埋もれた破片を発掘する作業によるものではなかった。すでに既成観念となった学界の掲げる先入観や偏見、さらに先学の業績、これらに対し疑いを持つようになってしまったという精神的なつらさである。しかし疑いの次には、かならず落ち着きを取り戻すことができることにも気づかされた。国家や民族という枠、そして特定のイデオロギーで武装された政治の側によって遠隔操作された学界、その学界が活動する過程で作り上げてきた思想的閉鎖性を打破しなくてはならない、という精神的な負担こそが、この地で学問が生み出してきた業績を評価するにあたって、もっとも大きな障碍であったという点を、率直に吐露せざるを得ない。今日でも学問的業績と思想的傾向の狭間で出版物が直面する状況により、我々は未だに学界の業績の整理をまっとうすることが困難である。思想的な閉鎖性に接近しようとすると、さまざまな方法で遮断するわなが隠されていることも多い。ともあれ「反共」を前提にした現代版の「焚書坑儒」に対し、学界が審判できる道が開かれる日が待ち望まれる。


今回の作業に際して、私はどのような個人による業績であれ、また個人がどのような人間であろうと関係なく、その出版物の人類学的価値についてのみ評価しようと試みた。また、その出版物の立場になってみようと試みた。これは学者の人物と業績を整理する人間の基本的態度であろう。しかしさまざまな事情で、出版物そのものが存在しないということも多かった。このような状況が累積してきたため、現在も韓国の学界は蓄積がないまま新規構築を繰り返しているのだ。


この地(朝鮮半島)が分断される以前に人類学が始まったことは事実である。そのため、その後分断された一方から他の一方の人類学がどのように歩んでいったのか、はっきりと確認することができない。しかも、思想的検閲が私自身にまで及ぶような雰囲気がいまだ消え失せていない構図の中では、資料整理に限界があることをまず確認しておきたい。一九二〇年代と三〇年代に生み出された多くの優れた研究が現在読まれていない理由、また解放直後に雪解け水のごとくあふれた業績が今日全く取り上げられない理由は何なのか、自問せざるを得ない。つまり、思想的な監視体制の中で成長してきた学問状況こそが、先学たちの成果に顔をそむけて見ない風土を助長する最大の強力な要因であったと考えられる。この結果、韓国の学界は、先学を顧みず後輩が先輩の業績をあまり引用しない雰囲気ができてしまい、そのような雰囲気の延長として、学問がこの地に根付きにくくなってしまったと考えられる。そうした意味で私は、国家と民族を前提にして展開されているイデオロギーという怪物と、学問活動との間に結ばれた不可分の関係を指摘しておきたい。


本書の執筆を通し私は、サルトル(Sartre)がレヴィ=ストロース(Lvi=Strauss)を批判するために使った人類学者の現実逃避という問題については、言語道断であるとこの機会にあらためて確認することができた。そもそもアナーキズムの影響の強い人類学という学問は、その生まれからして現実逃避などできるはずがないのだと再確認するに至ったのである。人間という存在の普遍性という面に注目すれば、任意に設定する境界線はその時その場所での意味を提示するだけである。人類学者たちは、任意に設定した境界線が提供する「その時その場所の意味」に相対性と命名し、これを御神体のように祀ってきたのである。人類学というものが持っている境界や、韓国というものが持っている境界なども、すべてそのような意味での(その時その場所での)境界性を前提としたものであると考えるようになった。
ところで、韓国における近代的意味での学問体系のほとんど大半が日本を通して受容されたという状況を認めたならば、我々のどのような学問分野であろうと日本との関係に対して緻密な計算と点検をすべきであろう。そうしなかったならば、韓国の学界は植民地時代とその時代に生まれた業績を無視できないのが一般的であろう。このような問題に対して積極的に対処するためにも、私は日本で一年間の研究生活を送ることに躊躇はなかった。


一九九七年度の海外研修期間と研究費をソウル大学から受け取り、当初は米国の大学から招請を受け、研究室を与えられる手続きをした。これについてはワシントンにあるジョージ・ワシントン大学の人類学科およびグリンカー(Richard Grinker)教授の助力があった。しかし、一九九六年後半まで収集した韓国人類学史とそれに関する資料は、私の行く先を日本に向けさせた。大阪にある国立民族学博物館の杉田繁治副館長(当時)と朝倉敏夫教授が私の立場を理解し、一年間滞在する研究室と住居を用意してくれた。「民博」が物心両面で援助してくれたおかげで、私は日本にある植民地時代とそれに関する資料を相当数集めることができた。特に博物館の図書館の司書の方たちが私の作業を助けてくれたことに対して深い感謝を申し上げたい。


植民地期の日本側資料と比較すると、解放直後の韓国側資料は、ほぼ国内にあり、隠されてはいてもすべてが消滅したのではなかった。予想以上に多くのものが、破壊され断片化された姿となっていた。当時の旺盛な学問活動は左派知識人たちが中心となっていたため、業績を掲載した論文集や雑誌は簡単には手に入らなかった。反共を国是とした長い期間、左派に関連した研究業績は徹底的に探し出され、破壊されてきたのである。植民地時代と関連した資料を探し出すことよりは、むしろ解放当時に作られた資料や研究成果を見つけだすほうがはるかに困難な作業となった。このような分断状況において学問することの意味がわかったように思えたのも、ひとつの収穫であったといえようか。これに関連しては書誌学の呉永植先生に大変お世話になった。


最近の資料を収集する中では、現在人類学の分野で活躍している同学からの全面的な協力と激励を頂いた。まだ多くの補足部分を残しているが、ほぼ関連資料の全容を収集することができたと思う。二年余の期間にわたって収集された個々の情報はデータベースにまとめた。その作業では、尹敏瑛君が献身的に手伝ってくれた。
本書のもととなったのは、一九九七年から一九九八年まで五回にわたって『韓国学報』(一志社)に連載した「屈折と跛行の韓国人類学百年」である。それに一九九八年度の韓国文化人類学会全国大会で発表した、韓国人類学会の四〇周年に関連し韓国人類学の未来を展望した論文(「未来の韓国人類学のための提言」)も付け加えた。それら六つの論文のタイトルと初出は、以下のとおりである。


一九九七a「屈折と跛行の韓国人類学百年(一)」『韓国学報』八六:二─五六
一九九七b「屈折と跛行の韓国人類学百年(二)」『韓国学報』八七:二─五二
一九九七c「屈折と跛行の韓国人類学百年(三)」『韓国学報』八八:一四八─二一二
一九九七d「屈折と跛行の韓国人類学百年(四)」『韓国学報』八九:一三五─二四五
一九九八a「屈折と跛行の韓国人類学百年(五)」『韓国学報』九〇:一八六─二七六
一九九八b「未来の韓国人類学のための提言」『韓国文化人類学』三二(一):二八七─三一二


これらの論文のタイトルと内容は、私の恩師を「戸惑わせ」[韓相福 一九九八:一八八]たりした。最後のものを発表した時は、韓国文化人類学界の六人の元老から厳しい批判と叱責を受けたし、父クロノスを殺したゼウスに喩えて、私を「このままほうっては置けない」[姜信杓 一九九八:二〇九]という「呪術的な言葉」すらも頂戴した。このような反響に対して私は、申し訳ないというよりは感謝の気持ちを抱いている。姜信杓は私の作業に対して「死」という用語を用いるなど、極端な反応を見せている。今回試みた私の作業は韓国人類学の百年の大筋を探ってみる入門の段階に過ぎない。これといった具体的な個別のレベル、個人のレベルでの問題ではないことを前提にしておきたい。個人的ではなく学問的に「殺せる」ほどの業績を生産してきた先輩学者についてじっくりと考えることは、私に残されたこれからの課題である。


学史を論じるというのは過去を顧みることであり、現在の座標を認識し、未来を指向するための方向を探るといった、自己を位置付ける過程である。この本が志向する究極の目標は人類学の韓国での土着化である。韓国で生まれた業績をきちんと読みこなして批判し、批判に対しては表現上多少の無理があるとしても批判の内容を謙虚に受け入れる過程が土着化の近道であろう。輸入品や免税品の陳列棚を思い起こさせる学界の風土から一日も早く抜け出て自らの道を開拓しようとすることが学問の土着化であり、これは先輩の業績を熱心に読み、批判した結果を蓄積していく以外に道はない。決して特定の個々の学者について褒め讃えたり、業績を誹謗中傷するための作業ではない。このような誤解をもたらすような議論は、私は断固拒否したい。


一年余にわたって発表した論文に補足と修正の作業を加えてようやく出版の段階にきた。既刊の論文の中で間違った部分は、今回のこの書において責任を持って手直しした。もちろんこれからも私は関連資料を継続して収集し、機会あるたびに再修正の作業を行っていくつもりである。


韓国人類学百年の大筋を描き出すというこの作業は、基礎的な情報と資料の蓄積なしには不可能である。筆者の要請に応じて韓国文化人類学会の会員が送って下さった資料は、簡単な整理段階を経て本書の付録として添付した。個人情報を快く提供して下さった皆さまに心から感謝の言葉を述べたい。故任皙宰先生、故張信堯先生、李杜鉉先生、李彩煕女史(故金載元博士夫人)、任東権先生、張籌根先生、故金宅圭先生、金正鶴先生、孫宝基先生、李明馥先生などには電話を差し上げ、長い時間お話を聴かせて頂く機会を頂いた。熱心に、そして誠実に記憶を辿りつつ、過去を証言して下さった元老の先生に、心より感謝を表したい。


過去に出版された関連する文献資料の収集過程で手助けして下さった方にも、この場を借りて感謝を気持ちを表したい。その方々のお名前(敬称略)は次のようである。朝倉敏夫(国立民族学博物館教授)、伊藤亜人(東京大学教授)、嶋陸奥彦(東北大学教授)、津波高志(琉球大学教授)、松本誠一(東洋大学教授)、本田 洋(東京大学助教授)、金学(全南大学教授)、金良柱(培才大学教授)、金鎮(韓国カトリック大学医科大教授)、金珍弘(韓国外国語大学教授)、朴賢洙(嶺南大学教授)、呂重哲(嶺南大学教授)、呉永植(普成高等学校教師)、李徳成(慶北大学考古人類学科教授)、李廷徳(全北大学教授)、李鐘哲(韓国国立民俗博物館長)、李熙秀(漢陽大学教授)、任敦姫(東国大学教授)、趙慶萬(木浦大学教授)、趙換(ソウル大学教授)、趙昌洙(スミソニアン博物館研究員)、韓敬九(江原大学教授)。


本書のタイトルを『韓国人類学の百年』と題した「百年」という基準について、一つ説明を付け加えておきたい。今まで「人類学百年」というタイトルで出版された書籍の中で次の二冊が広く知られている。一つはペニマン(T. K. Penniman)が一九三五年に著述した『A Hundred Years of Anthropology』であり、もう一つはブロウ(J. O. Brew)が一九六八年に編集出版した『One Hundred years of Anthropology』である。前者が「百年」と題した理由はダーウィンがビーグル号に乗ってガラパゴス諸島に向かった年を起点にし、一八三五年から一九三五年という時間を設定している。後者はハーバード大学にピボディ博物館が設立された時点(一八六六年)を起点にし、一九六六年までの期間を一〇〇年に設定した。この二冊は、人類学についての意味がかなり異なっており、表現方式の差も感じられる。私は一八九六年に高羲駿が著述した人類学の論文を起点にし、一九九六年までの「百年」を韓国人類学という枠組みに結びつけた。


日本で私の論文をまとめて出版しようという提案もあったことは、本書の補完および修正作業を促される基盤となった。一年にわたり五回にわけて論文の掲載を許してくれ、激励まで惜しまなかった『韓国学報』の編集陣(金允植教授、愼夏教授、韓永愚教授)には、衷心から感謝の言葉を申し上げたい。そのような紙面を提供していただいたおかげで、私の作業がなんとか続いていくこととなった。厳しい出版事情、特に学術書籍の販路が極度に厳しい状況で、出版を受け持って下さった一志社の金成哉社長と編集長の金裕珍さんには物心両面で大きな借りを作ってしまった。出版の過程で校正と索引の作業を担当した金東周君に対しては、彼の学問への道が無事に開かれることを願っている。
いつも私を心配しつつも見守ってくれる家内にはさらなる負担を押しつけることになった。人生は「空手来空手去」(何も持たず備えず来たり、何も持たず備えず去る)というが、私の人生はたぶん「空手来借手去」(何も持たず備えず来たり、人の手を借りて去る)に終わるかも知れない。孔子は「知天命」(五十にして天命を知る)と言ったのではなかっただろうか。私は満五〇歳でこの作業を完了した。新しい千年紀が始まる前にこの作業を完了したことで安堵の息を吐いたのであった。


同学の叱正と鞭撻を期待しながら、本書をこの地韓国の大学で初めて「人類学概論」を教え(一九四六年の春)、大学で初めて「人類学科」を開き(遅くとも一九四六年の春)、アジアで初めて国家機関として「人類学博物館」を創設した(一九四五年一一月)、故宋錫夏先生の霊前に捧げたい。


一九九九年中秋 冠岳山下 小禾齋にて              全京秀著す


訳注
《1》 原著では「体質人類学」が主に使われているが、日本の学会の呼称にしたがって「形質人類学」を訳語として用いた。ただし、固有名詞としての学会名等はそのまま「体質人類学」とした。
《2》 韓国の総合大学は、「大学校(日本の〈大学〉)」─「大学(日本の〈学部〉)」─「学科(〈学科〉)」と組織されている。大学校と大学(単科大学ともいう)は、universityとcollegeの関係にあり、日本の「学部」と較べると独立性が高い。


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著者紹介
全京秀(チョン・ギョンス、Chun Kyung-soo)
1949年、ソウル生まれ。
1971年、ソウル大学校文理科大学考古人類学科、1977年、同大学院卒業。
1982年、米国ミネソタ大学大学院人類学卒業(人類学博士)。
現在、ソウル大学校人類学科教授
著書
1984年、Reciprocity and Korean Society. Seoul : Seoul National University.
1990年、 Water Supply and Sanitation in Korean Communities. Seoul : PDSC.(Han,.Kwon,Moonと共著)
1991年、『ブラジルの韓国移民』ソウル:ソウル大学校出版部
1992年、『糞は資源だ:人類学者の環境論』ソウル:トンナム
1992年、『韓国の落島民俗誌』ソウル:集文堂(韓相福と共著)
1993年、『ベトナム日記』ソウル:トンナム
1993年、『在ソ韓国人』ソウル:集文堂(李光奎と共著)
1994年、『文化の理解』ソウル:一志社
1994年、『人類学との出逢い』ソウル:ソウル大学校出版部
1994年、『韓国文化論:上古編』ソウル:一志社
1994年、『韓国文化論:伝統編』ソウル:一志社
1995年、『韓国文化論:現代編』ソウル:一志社
1995年、『韓国文化論:海外編』ソウル:一志社
1995年、『統一社会の再編過程』ソウル:ソウル大学校出版部(徐炳哲と共著)1996年、『世界の韓民族:中南米』(世界韓民族叢書6)ソウル:統一院
1996年、『世界の韓民族:中東・アフリカ』(世界韓民族叢書9)ソウル:統一院
1996年、『文化で解いてみる貿易方程式』ソウル:未来人材研究センター
1997年、『森と水と文化の村:梼原』ソウル:ソウル大学校出版部(金良柱、鄭炳鎬、韓敬九と共著)
1997年、『環境調和の人類学』ソウル:一潮閣
1999年、『地域研究:どのようにするか』ソウル:ソウル大学校出版部
1999年、『済州農漁村の地域開発』ソウル:ソウル大学校出版部(韓相福と共著)
1999年、『文化の理解』(第2版)ソウル:一志社
1999年、『韓国人類学の百年』ソウル:一志社
2000年、『文化時代の文化学』ソウル:一志社 
2002年、『糞は資源だ:人類学者の環境論』(改訂版)ソウル:知識マダン
2003年、『文化は飯の種:人類学者全京秀教授の貿易の話』ソウル:知識マダン
翻訳書
1984年、『文化とパーソナリティ』ソウル:玄音社(Linton, R. 1945 The Cultural Background of Personality)
1985年、『現代文化人類学』ソウル:玄音社(Keesing, R. 1981 Cultural Anthropology. New York: HRW.)
1985年、『通過儀礼』ソウル: 乙酉文化社(van Gennep 1960 The Rites of Passage)
1992年、『通過儀礼』(改訂版)ソウル: 乙酉文化社(van Gennep 1960 The Rites of Passage)
編著
1987年、『観光と文化:観光人類学の理論と実際』ソウル:カッチ
1992年、『韓国漁村の低発展と適応』ソウル:集文堂
1987年、『観光と文化:観光人類学の理論と実際』(改訂版)ソウル:日新社
2002年、『カザフスタンの高麗人』ソウル:ソウル大学校出版部

訳者紹介
岡田浩樹(おかだ ひろき)
1962年、岐阜県生まれ。
総合研究大学院大学文化科学研究科地域文化学修了。博士(文学)。
現在、神戸大学国際文化学部助教授。
著書に、『住まいに生きる』(共著、学芸出版、1997年)、『装いの人類学』(共著、人文書院、1999年)、『両班:
変容する韓国社会の文化人類学的研究』(風響社、2001年)等。

陳大哲(チン・デチョル、Jin Daecheol)
1961年、釜山生まれ。
1990年、韓国啓明大学校日本学科卒業、1992年、東京外国語大学研究生修了、1995年、中部大学大学院国際関係学研究科(修士課程)、2001年、中京大学大学院社会学研究科博士課程(社会学博士取得)。
現在、中部大学中部高等学術研究所研究員。
論文に、「在日韓国・朝鮮人の祖先祭祀における文化変容:理想的祭祀と現実的祭祀」『民族学研究』60-4、1996年、「在日韓国・朝鮮人の祖先崇拝の一考察」『日本・東アジア文化研究』3、2004年3月、『マダン劇をめぐる韓国文化誌:歴史・民衆文化運動・社会的実践』(博士論文、2001年11月)等。

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