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民衆道教の周辺

民衆道教の周辺

残された旧中国の姿を追った台湾・香港の調査行と、文献渉猟から描き出す民衆道教の実像。「道教とは何か」を知る最良の入門書。

著者 可児 弘明
ジャンル 民俗・宗教・文学
シリーズ アジア・グローバル文化双書
出版年月日 2004/08/25
ISBN 9784894890992
判型・ページ数 4-6・318ページ
定価 本体2,500円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はしがき

第一部 民衆道教の周辺

 一 扶鸞雑記
 二 人形芝居と道教
 三 誼子の慣行について
 四 農暦七月の台湾農村──公普、搶孤
 五 「太平清」小考

第二部 流通する儀礼

 六 絵入り紙符に関する一考察

   1 前言
   2 香港使用の紙符、金銀紙、紙衣
   3 紙符
   4 金銀紙・紙衣
   5 考察

第三部 道教研究の現場

 七「残された中国」の現地研究

   1 中国大陸から「残された中国」へ
   2 先行する欧米人の現地研究
   3 道教的文化と文献史学、民俗学
   4 イベント的な総合調査
   5 新しき芽生え

 あとがき
 図表一覧
 索引

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内容説明

人形芝居や中元の儀礼、様々な絵入り紙符に込められた民衆の祈り。残された旧中国の姿を追った台湾・香港の調査行と、文献渉猟から描き出す民衆道教の実像。「道教とは何か」を知る最良の入門書。写真多数、「現地研究の歩み」を付す。


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はしがき


本書は初出一覧にあげる旧稿七編を三部に分けて一書としたものである。各編とも部分的な加筆、省略、修正を行なっているが、論点や記述に大きな訂正はない。


中国研究に入る数多い道程の中で、私の場合、華南との機縁、具体的には一九六五年一〇月から翌六六年一〇月にいたるまでの間、香港中文大学新亞研究所東南アジア研究室に留学したことによる。留学の当初目的は、陸上に土地・建物を所有せず、船で生まれ船で一生を送る香港の水上生活者「蜑民(たんみん)」の生活実態にふれ、日本の「家船」研究に還元することであった。その当時、香港は解放前の廣州にかわって、中国大陸で「蜑民」がもっとも多く居住するところであった。しかも廣東省各地から集まっており、香港にいながら廣東水上社会の地方性を大握みにできる好条件さえ備えていた。今日の海南省がまだ廣東省の一部であった時代であるが、廣東省が全国海岸線の二三%近くを占める中国で一番海岸の長い省であったことを考えると、廣東ジャンクの地方型をいくつも見ることができるだけでも大きな利点であった。


この留学が切掛けとなり、六七年一月から六九年三月、七一年二月から七三年三月までの再度、香港中文大学日本研究講座に出向し、公務の余暇に水上生活者を含む中国民俗の調査を行なう機会をえた。続いて故大淵忍爾教授を研究代表者とする海外学術調査「道教儀礼に関する調査」が七〇年度から組織され、おさそいをいただいたことが道教の周辺に足を踏み込む契機となった。調査は香港、マカオ、台湾を対象地域として七五年度まで断続的に実施された。本書の記述は主として右の期間中に断続的に香港と台湾において見聞したところを素材にしている。これに関してあらかじめ記しておきたいのは、先ず取材期間がどのような時代であり、また香港、台湾がどのような社会であったのかということである。このことは本書で提示される観察モデルが、王朝末期とか民国初期などと具体的な比定ではなくとも、どの程度歴史的な継続性を持つか読者が判断を下す助けになると思うからである。


七二年八月下旬、台湾の縦貫線車中で、私は、「日本が日台条約を失効とし、中国と国交樹立を目指す共同声明を用意しているが、台湾はこれにどう対処すべきか」という世論調査班にであった。手渡された回答用紙の項目中に、台湾海峡の封鎖、領空を通過する日本の航空機撃墜などと過激な文言があったのを覚えている。日中共同声明が調印されたのは同年九月二九日、ニクソン訪中の七カ月後のことであるから、私の調査期間はアジアの冷戦構造の末期、米中接近によって「竹のカーテン」がようやく風穴をあけはじめた時期であったといえる。しかし中国国内の現実はといえば、新作京劇の『海瑞免官』批判(六五年一一月)を切掛けに毛主席の五・一六通知で発動(六六年五月)した文化大革命が八月には全土に波及、その後事態が収拾されぬまま七一年九月の林彪事件、七四年一月以降の江青らによる批林批孔運動と混迷が続いた。筆者の調査は、大陸でいえばその終結が七七年八月の一一全大会で宣言される文化大革命に時期的にほぼ重なるのである。「四つの近代化」とまだ無縁の時代の中国であった。


これにたいし大陸と地続きの香港は、文化大革命の間接的波及を免れることはできなかったが、香港返還交渉はまだ深刻に意識されず、イギリスの傘の下でひたすら経済成長を目指していた。六四年四月から七年半にわたる総督トレンチの時代に香港は第一次工業化に成功し、また香港生まれの中国人が初めて過半数を越え、在住中国人の香港定着指向の深まりを示した。続いて総督マクルホースの時代(七二─八二年)に香港経済は国際的な新勢力に脱皮し、植民都市のパラダイムを遥かに越える近代都市生活を完成させるのである。筆者の調査時期は、香港でいえばトレンチの時代、それにマルクホースの時代の当初数年ということになる。「香港人」という固有の地域アイデンティティが芽生えるのはマルクホースの時代であるといわれる。その背後にあったのは、先進諸国の水準に肩を並べる独自な都市住民であるとする共通意識であるという。しかし調査中に私自身は中流意識をもつ香港のホワイトカラーからさえも「香港人」という自己認識を聞くことがなかった。とすれば香港開港以来ここの中国人が胸中でいささかも揺るぎなく持ち続けた中国への帰属意識がまだ濃厚であった時期に違いない。この中国人意識が現実の国家とか政治にかかわりのない文化的アイデンティティであることはいうまでもない。もともと香港は町々で英語が通用し、欧風の文化、生活スタイルを身につけた土地柄のように信じ込まれがちであるが、それは一八四二年以来の長いイギリス統治の歴史と絵葉書にあるビクトリア港の都市景観を鵜呑みにした香港イメージである。香港を見る際には香港の過去、現在を通して人口の九四─九八%を常に中国系が占めたことや、一九七一年センサスの時点でさえ男性の六六%、女性の八〇%が英語を話さないという初歩的な認識が先ず必要なのである。


八〇年代以降、香港の変容はすさまじいものがある。図1は一九六八年に現在の沙田・新翠邨辺りから現在競馬場になっている沙田海を撮影したものである。九龍市街からライオンロック・トンネルを抜けて新界へ向うと、間もなくこうした田園風景が眼に入った。干拓工事は既に一部で始まっていたが、入江が城門河の川口近くまで達しているのがわかる。また陸と長い桟橋で結ばれた水上レストランがあった。桟橋の先がマーケット・タウンの沙田墟であり、広九鉄道の沙田駅へと続いていた。丘麓と入江の間をレトロなディーゼル機関車が走っていたが、大囲駅も火炭駅もまだ開設されておらず、線路沿いの田野にはトンボが飛び、蝶が舞っていた。入江の奥が「大眼鶏」と呼ばれるエビ底曳き網漁船、水上レストランの近くが苫ぶきの小舟で刺網漁業を営む「東莞艇」の集団が舫う根拠地であった。これが今や人口六五万人の衛星都市沙田の、沙田駅、競馬場一帯の一九六八年当時の旧観なのである。しかし景観だけで伝統的な生活スタイルや意識をもつ中国系住民の所在を自明とするのは、ビクトリア・ハーバーの都市景観から欧風化した中国系住民の所在を自明と断ずるのと同じだという批判もあろう。確かに見聞した当時でさえ香港は活力ある経済成長の最中にあったし、植民地特有の積極的不介入政策も行政コストのかさむ介入政策寄りへとようやく路線を修正しつつあった。日常生活や文化面でもそれまでになかった新しい要素が続々と出現してきた。しかし農暦に従ってめぐってくる年中行事や神仏の誕日祭は市販の「通書」どうりに行なわれていたし、市街地、農漁村の別を問わず寺廟の信仰、路傍の俗信を随所で見聞することができたという意味では、伝統文化における変化は経済、政治におけるパラダイム・シフトほど激しいものではなかったといえる。洋装で政府の結婚登記所に出向くカップルも、その前後にとり行なわれる行事は中国の婚俗に従っていたのであり、宗族を中心とした父系血縁主義の土壌を十分感じとれるものがあった。


また、喪葬のばあい清明節に柳の一枝を戸口に挿す「清明柳」の習俗は普遍的に見られなかったが、清明節の前後には■(人+午)作工という職業人に依頼して祖先の墓の封土を除き、棺を開き、先祖の遺骨を取出し、金塔と称する樽型陶器にしゃがんだ姿勢で骨を組み上げた上、祀り墓に移す「洗骨」ないし「執金」の風習がみられた。■(人+午)作工を統括する棺材店か葬儀社につてを求めれば、洗骨の作業を写真撮影することも不可能ではなかった。
歴史的な定形どうりかどうかは別にして、いわゆる近代化と抱き合わせで香港の中国人が、人によって強弱はあるにしても、どこかで古い民俗慣行、信仰の伝統を保持してこられたについては、旧秩序の仕組みを利用して間接的に統治を行なったイギリス植民政策の仕組みを思わざるをえない。香港占領の当初、イギリスは在住中国人にたいし中国の法と慣習により管理されるという「中国人自主の原理」を保証した。この政策は十数年で撤回されるが、その後も在住中国人相互の関係については定めがなく、強行的な法に抵触しない限り中国の法と慣習によって律するとされたのである。この政策が中国人の民族文化にたいする強い誇り、愛着と相まって、中国人社会の伝統的な諸体系、民事慣行を香港で死滅させない力となったのである。極端な例をあげれば、養女を名目とした少女の人身売買は中国の通念では「溺女」(嬰児殺し)を防止し貧家を救済する「善挙」とされた。売買養女は香港では一八七九年以来論議の対象となったが、制度として否定されるのは一九二九年一〇月になってからである。また香港が中国人の婚姻に登記という明確な法的手続きを強制して一夫多妻婚を否定するのは一九七一年になってからのことである。また信仰の面でみれば、信仰の自由が保証される一方で、一九二八年以後中国寺廟は条例によって政庁管轄下の委員会への登録が義務付けられた。しかしその目的は寺廟を財務面で監督、制御するものであった。香港のステロタイプとされるのは実利主義、経済至上主義であるが、寺廟が信者の信仰につけこんで巨額の蓄財を図るのを防止しようとしたのである。宗教政策の基本は経済政策同様「なすに任せよ、行くに任せよ」であったといってよい。
台湾もまた、こと信仰に関するかぎり歴史的変化におけるモノ、いいかえれば経済の規定性を重視しすぎることの危うさを実感させられたところである。本書の対象となった時代の台湾は蒋介石総統(七五年歿)の末期に当り、戒厳令がまだ続いていた。国連が台湾追放を決議したのは七一年一〇月であるが、中国大陸の伝統文化否定に対抗し、国民党は伝統文化への回帰、あるいは文化的中国を求心力にして統治を進めていた。だが、国民党のいう伝統文化、文化復興とは儒教的倫理道徳や京劇、書画など正統的ないし大伝統的な文化伝統であったとされる。


民間庶民的な宗教行事、地方色の濃い芸能、民事慣行を見聞する上で気がかりであったのは、台湾のばあいでも、やはり地方的な伝統文化に経済発展があたえているであろう打撃であった。工業化によって、近代化が進み合理的思想が広がり、農村社会の性格が希薄化してしまったのではという懸念である。調査の時点の台湾が、工業の成長が農業従業者の都市流出を主導し、工業化と都市化によって台湾全体の社会経済が大きく転換しつつあることは疑いなかった。その頃台湾南部の農家に行くと、庭先に泥土づくりの稲倉を見ることができた(図3)。竹を球形に編み、外側を泥土で塗り固め、石灰または桐油で上塗りし、頂上をワラぶきにして仕上げた土倉である。つくるのに大人二~三人がかりで二日ないし三日要するが、この土倉一基でモミ三〇〇〇斤と甘藷澱粉若干を湿気やネズミの食害から守ることができるということであった。台湾県の佳里鎮や塩水鎮では「鼓亭笨」と呼んでいた。高雄県阿蓮郷には同じ泥土づくりだが形が横長の椀形をした「茄厨」(家框)があった。ところが実際に稲倉として使用されている鼓亭笨はほんの僅かになっており、什器・雑貨の収納庫に転用されているものや、倒壊したまま放置されているものの方が多かった。農業で生計を立てることに見切りをつけて働き盛りの年齢層が農村から流出した結果であり、あるいは農業を続けていても、モミ米を屋内の木桶、アルミ桶に貯蔵するように農家の生活が変化したからである。しかし族党や街坊の伝統的連帯を衰退に導くほどには社会変化は進んでおらず、民俗行事の基盤として十分機能していた。調査の対象地はあらかじめ諸条件を入念に検討して選択したものばかりでなく、その時その時ごとに入手しえた情報で選定したものも混在したが、たまたま農村人口の都市流出というレベルにまで達していなかった地方に当たったのであろう。国家と個人が直接結び付けられた中国大陸では否定され、消滅したにちがいない日常生活や行動をどうにか研究できる程度には地方色の濃い中国の文化伝統をどこでも残していた。本書の随所で「旧中国的」とか「旧中国風」というのはこの意味で使っているのである。信仰面でいうと、当時の台湾は社会における道士、僧尼、法師、地理師、択日師などの存在が香港以上に鮮明であったし、どこへ行っても寺廟に行き当たった。廟祭や■(酉+焦)祭は香港のそれよりはフォーマルであるように感じられた。民俗行事、霊媒のカウンセリングなどを見聞しても、ヒトが神仏や死者と折にふれて交わり、信仰が民間庶民の暮らしと不可分の関係にあることを実感することができた。旧中国風のものを全部は手放さずにいる庶民の日常生活、素顔は、今思えば、中国的な伝統への愛着だけでなく、本省人・外省人の矛盾・対立構造のなかでの台湾ナショナリズムの無言の発露であり、それが在地の伝統保持につながったと理解すべきであったのかもしれない。


次に付言したいのは、本書の各所で使用し、かつ書名にも取り入れている「民衆道教」の語についてである。この語は、道教を教団道教(成立道教)・民衆道教(民間道教)に区分し、道観を中心にして行なわれる道教を教団道教、道観以外において行なわれる道教を民衆道教と呼ぶ二分法に出ている。これによると、香港と台湾で行なわれる道教はすべて民衆道教ということになる。両地ともに仏教寺院に対比される意味での道観がついに出現をみるに至らなかったところであるからである。香港の青松観は道観としての一面を備えるが、あくまで一面にとどまり道観の範疇に入れがたい存在である。
ところで私自身が民衆道教の語を用いるようになったのは台湾の鸞堂に関する所見を発表したときからである。鸞堂は民間の庶民自身がつくりだした公開の宗教結社であり、善書を刊行し、三教合一の信仰内容をもつので、民衆道教の語を用いることに何のためらいもなかった。しかし、私の調査対象は民間宗教結社だけでなく個人個人がみせる信仰をも含んでいる。これは私の個人的な研究関心によると同時に、香港の地域的特性にもよるといってよい。香港には地域集団によって維持運営される寺廟、信者集団によって維持運営される寺廟が少なからず存在するが、信仰している宗教が何かを聞かれた中国人の多くが答えるのは「仏教」であり、道教という人は少ない、儒教だと答える人に至っては皆無な土地柄なのである。ところが、「仏教」と答えた人も、必ずしも釈迦を唯一の教祖とあがめ、組織された仏教教団に所属し、教義どうり生活しているわけではない。このことは台湾やシンガポール華人社会においても共通に体験するところである。あくまで「 」つきの仏教なのである。ではなぜ道教よりも仏教と答えるものが多くなるのであろうか。理由は幾つもあるにちがいないが、道教を低俗な迷信であると認識して、職業道士を尊敬せず、時には蔑視さえはばからない社会通念が大きくかかわっていることは間違いない。香港では超幽度死、加持祈、時の吉凶判断、運勢占いなどによって生計を立てる職業道士を「喃嘸■(人+老)」という。調査当時香港と九龍で二〇〇人以下、新界に至っては十数人とされ、人数からしても微弱な存在にすぎなかった。喃嘸が廟で道教の儀礼を執行するのは稀であり、多くの場合、クライアントである個人、団体の許へ依頼のつど出向いて、家宅、殯儀館、墓地、その他もよりの仮設広場などで儀礼を行なうという意味では社会的存在ではなく、個人的ないし商業的存在に近いのである。ちなみに香港でいう喃嘸■(人+老)には正規の道士となるための儀礼はなく、世襲によって道士となったものと、数年間師父に弟子入りして経文や行事儀礼を習得したものとからなり、前者には古くからの香港居住者と新しい移住者とが含まれる。いずれにしても道士というより、「道士的」存在であることに疑いの余地はない。
一方、地縁集団の管理組織によって維持、運営される廟の場合、廟には雑役を担当するかたわら参詣者に香燭・香油・紙符・紙銭などを販売する管理人(廟祝)が常住するだけである。また日本の氏子のような固定した信者組織が存在しない。そのかわり主神の誕日のような重要祭日には、複数の特定祭祀集団が恒例によって組織されて、一時的に活動するのである。そのときは人が大勢出て賑わうが、普段の廟は熱心な信者が参詣にやってきて、誰の助けも借りずに祈を済ませて帰路につく。こうした参詣人には二類あって、一は廟内の主神、従祀、寄祀のすべて、または一部特定の道像、仏像に線香をあげて願いごとや願返しをしていくものであり、他の一は廟のもよりの個所で儀礼を行なっていく別種の個人祈願者である。後者は呪いごとのように見え、廟に限らず路傍や家宅の門口でも見かけることができる。本書六章で述べる「打小人」はこのよい例である。


説明がまわりくどくなったが、香港で日常的によく目に入るのはこうした個人の信仰行為なのである。まとめておくと、原則として喃嘸■(人+老)が不在もしくはその宗教活動や影響力が希薄な社会で民間庶民である個人が日常的に行なう災厄・病気・不和・衰運などの解消、あるいは招福、招財などの個人祈願である。しかも、そのつど宗教職能者の助けを直接借りることなく、庶民自身が普段着姿のままで廟、家宅、街路などで行なう儀礼であって、用意されるのは香燭と僅かな供物、紙符・紙銭、それに神意を占う道具「■(竹+告)」にすぎない。研究者によっては民間信仰とか俗信というにちがいないのである。あるいは何故これを民衆道教というのかという問いがでるにちがいない。道教研究者の間で一九七七年以降成立道教・民間道教の二分法的枠組みに否定的な見解が提起されているのであればなおのことである。否定論とは民衆の信仰には民衆儒教、民衆仏教としての側面があり、かつ道教は民衆から皇帝まで同じような信仰をもつなどの理由から、民衆道教の語は現実に妥当しないとして異議をはさみ、成立道教以外は民間信仰であるとする見解がその代表である(窪徳忠『道教史』山川出版社 一九七七年、四〇頁。『道教の神々』平河出版社 一九八六年、五七─六七頁)。これにたいして「中国の民族宗教である道教を、社会史的に総合的に把握しようとする立場からは疑問に思われる」(奥崎裕司「民衆道教」『道教』第二巻、平河出版社 一九八三年、一三七頁)という反論もある。また台湾の道教について、劉枝萬博士のように台湾の道教は道教そのものというより法教が主流であり、道士の実態は巫覡とかわりなく、「道教的」存在でしかないとし「道教も民間信仰に包括されてよかろう」(『台湾の道教と民間信仰』風響社 一九九四年、一一七頁)と明言する立場の研究者もある。


こうした潮流のなかで私が旧稿どうり本書で民衆道教の語を襲用し、民間信仰とか民俗宗教(渡邊欣雄『漢民族の宗教 社会人類学的研究』第一書房、一九九一年、三頁他)の語に従わないのは次の理由による。信仰の担い手の殆んどが婦女子である。その多くが低学歴か不就学者であった関係で、祈願する神明の由来、職能その他について豊富な知識をもたず、また儀礼のレパートリィにも限りがあったのは否定できない。まして、信仰の対象としている神明の主流が道教に根ざすことなど認知することもないのである。しかし仮に庶民の間で伝承されてきた日常的な信仰を民間信仰とすると、それよりは源流がはっきりしており、既成宗教である道教が著しく風化しつつ民間庶民の間に残存したことが認知されるのである。本書の第二部で記述する紙符はその好例である。道教は雷神信仰のような民衆の畏敬する、あるいは民衆の間で人気のある民間信仰を巧みに取込んで成長してきた。それと逆に道教の教義、儀礼が次第に削ぎ落とされ、民間に脱落、退化し、体系を失なっていくという見方もできるはずである。中国の周縁部において漢族文化が地方化していくプロセスが念頭から離れなかった著者の立場からいうと、これは目配りをはずせないところであったし、今もそうである。民間庶民の信仰に沈殿する道教的な残滓を強調し、これを記録する意味からすると、しばらくは旧稿どうり民衆道教のままにしておきたいのである。



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著者紹介
可児弘明(かに ひろあき)
1932年生まれ。
1967年、慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程(東洋史)修了。
現在、慶應義塾大学名誉教授。
著書に、『近代中国の「苦力」と「豬花」』1979年、『シンガポール 海峡都市の風景』1985年(いずれも岩波書店)。編著に、『香港および香港問題の研究』1991年 東方書店、『民族で読む中国』朝日選書595 1998年、『新版もっと知りたい香港』1999年 弘文堂、『華僑華人事典』2002年 弘文堂。その他、監修『大図解九龍城』1997年 岩波書店など。

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