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植民地人類学の展望

植民地人類学の展望

日本民族学史に光をあて、日本の「オリエンタリズム」の功罪を、旧調査地から振り返り、人類学の今日的意義を再検討する。

著者 中生 勝美
ジャンル 人類学
シリーズ アジア・グローバル文化双書
出版年月日 2000/08/15
ISBN 9784894891005
判型・ページ数 4-6・278ページ
定価 本体2,500円+税
在庫 在庫あり
 

目次

はじめに 

序論 植民地人類学の射程  中生勝美

 一 人類学は何のために──リーチ・費孝通論争 
 二 人類学の宿命──リーチ『高地ビルマの政治体系』をめぐって 
 三 植民地人類学とポスト・コロニアル批評 
 四 「大日本帝国」の残像と日本民族学 
 五 記憶のありかた 

大東亜共栄圏のインド
   ──戦中の邦語文献におけるカーストと民衆ヒンドゥー教  田中雅一

 はじめに 
 一  インド人の国民性 
 二 密林としてのヒンドゥー教 
 三 犠牲者としてのインド 
 四 大東亜の指導者日本 
 五 東洋的国家の可能性 
 六 ポスト大東亜共栄圏としての現代 
 おわりに 

北進と民族学──河野広道の軌跡を通じて  百瀬 響

 はじめに 
 一 思想背景 
 二 学問的背景とその業績 
 三 北進論と北方文化論 
 四 大興安嶺総合学術調査の軌跡 
 おわりに 

日本統治下の青年団政策と台湾原住民──アミ族を中心として  宋 秀 環

 はじめに 
 一 日本近代青年組織の歴史的性格 
 二 台湾の青年組織の動き 
 三 アミ族の概況 
 四 アミ族の社会構成 
 五 青山集落の事例 
 結び 

日帝植民地時代と朝鮮民俗学  崔 吉 城

 はじめに 
 一 同化政策と民俗学 
 二 日本人学者の研究 
 三 朝鮮人学者の研究 
 四 韓国の民俗学における植民地 
 五 秋葉隆の学問と植民地観 
 結び 

内陸アジア研究と京都学派──西北研究所の組織と活動  中生勝美

 はじめに 
 一 西北研究所設立の背景としての蒙疆政府の政策 
 二 西北研究所設立の経緯 
 三 研究所のプロジェクト──モンゴル研究とイスラム研究 
 四 西北研究所の末期から終焉 
 結論 

あとがき 
索引 

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内容説明

植民地と戦争の影に隠された日本民族学史に光をあて、先学達が「時代の流れ」の中でどのように研究し、いかなる成果を残してきたかを解明。日本の「オリエンタリズム」の功罪を、旧調査地から振り返り、人類学の今日的意義を再検討する。


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はじめに 中生勝美


今日、植民地の問題を語るとき、エドワード・サイードの『オリエンタリズム』(平凡社、一九八六年)に代表されるポスト・コロニアル批評は避けて通れない。近年、人類学の分野でも、山下晋司・山本真鳥編『植民地主義と文化』(新曜社、一九九七年)や栗本英世・井野瀬久美恵編『植民地経験 人類学と歴史学からのアプローチ』(人文書院、一九九九年)、青木保他編『思想化される周辺世界』(岩波書店、一九九六年)、橋本和也『キリスト教と植民地経験』(人文書院、一九九六年)、春日直樹編『オセアニア・オリエンタリズム』(世界思想社、一九九九年)など、相次いで人類学と植民地の関係に関する本が出版されている。


これらの論文の大半は、オリエンタリズム、ポスト・コロニアルの研究の紹介、あるいはその潮流に触発され、自らのフィールドに引きつけて議論を展開するものが主流である。フランスやイギリスにとってのアフリカ、イギリスにとってのインドや東南アジア、オランダにとってのインドネシアなど、日本の人類学者がフィールドにもとめる地域が、かつて欧米の植民地であったことから、欧米の植民地主義についての論考が大半である。


しかし、東アジアや東南アジアでフィールドワークをする場合、日本による植民地統治や戦争の歴史に必ずといっていいほど遭遇するのは事実である。またフィールドの現場だけでなく、調査に出かける準備作業として、過去の研究史を調べるため文献探索をするとき、そしてフィールドワークで得たオーラル・ヒストリーを歴史文献で裏付けるとき、かつての日本の植民地調査資料に頼ることが多い。さらに日本統治や占領について、現地でインフォーマントから直接聞かされたり、フィールドワークそのものを日本語教育を受けた老人からの聞き取りで日本語で行う場合もある。


このような、フィールドや文献資料で遭遇する日本の植民地支配・戦争・占領の歴史的事実を、現在の人類学者はどのように受け止めていけばよいのだろう。また先行研究を批判的に継承するには、どのような方法が最善といえるのだろうか。さらに、サイードの『オリエンタリズム』で指摘された、社会科学の政治性と植民地学への批判の視点に向き合い、研究の歴史的背景を浮き彫りにすることだけで、従来の研究史を「脱構築」(デコンストラクション)することはできるだろうか。


本書は、特別な研究会の成果でもなければ、科学研究費の報告でもない。前述の問題意識から、一九九五年の千葉大学で開催された第四九回人類学・民族学連合大会で、編者が「日本の植民地と民族学」というシンポジウムを企画(中生勝美・百瀬響・崔吉城・佐々木亨の四人が発表)した事に始まる。以後、相互に意見を交換し合い、さらに趣旨に賛同していただいた宋秀環と田中雅一の両氏に参加してもらい骨格が出来上がっていった。その意味で、本書に収録した日本の植民地と民族学に関する論考は、サイードの研究から出発したものではない。むしろ、各々のフィールドで直面した、自らの「植民地」体験を出発点にしたものといえるだろう。以下、それぞれの論考の概略を紹介しておく。


「序論 植民地人類学の射程」では、編集担当の中生が近年の植民地に関する論議の理論的な整理を行い、民族誌を歴史的コンテキストに置いて読み直すことで問題点を浮き彫りにする、「植民地人類学の手法」の提起をしている。


田中雅一「大東亜共栄圏のインド──戦中の邦語文献におけるカーストと民衆ヒンドゥー教」は、戦前の日本で形成された「インド観」を、日本の(西欧流)オリエンタリズムの徴候として描き出している。戦前およそ二八年間インドに滞在した仏教学者の木村龍寛などを例としながら、大東亜共栄圏の指導者としての日本、あるいは日本を長兄、その他のアジアの諸国を弟と位置づけることで、日本のみがアジアにおいて、指導者として振る舞うことを正当化した言説を明らかにしている。また、そうした罠に陥りやすい状況は、現在でも大差がなく、いかにポスト大東亜共栄圏の状況を克服するか、その可能性も示唆している。


百瀬響「北進と民族学──河野広道の軌跡を通じて」は、北海道の民族学の創始者である河野広道(一九〇五│一九六三)の研究経歴を詳細に論じたものである。特に一九三五年の治安維持法容疑による逮捕、北海道大学の辞職を契機に、「軍事昆虫学」の専攻から民族学および考古学へ研究領域を移行していく過程を、 旭川市博物館が所蔵する「河野コレクション」や遺族の所蔵するノートなどから復元している。また、河野は「 満州国」の嘱託で大興安嶺総合調査学術班にも参加しており、筆者はこうした先行研究を歴史的文脈に置くことで河野の研究の形成過程を解き明かしている。


宋秀環「日本統治下の青年団政策と台湾原住民──アミ族を中心として」では、台湾アミ族の伝統的な年齢制度が、日本統治下でどのように植民地行政機構の末端に組み込まれていったかを、自らのフィールドワークから分析している。筆者は留学中に、日本社会の研究を通し、以前から継続調査をしていた台湾アミ族の年齢集団がいかに日本的な「青年団」と類似していたかに着目したという。この論文は、彼女の博士論文の一部になっている。


崔吉城「日帝植民地時代と朝鮮民俗学」は、日本支配下の朝鮮で日本人と朝鮮人の学者による民俗調査を、総督府主導の調査と、秋葉隆などによる京城帝大の調査に分けて、その実態を明らかにし、韓国民俗学の系譜を概観している。とくに戦前の植民地期の民俗研究が、戦後に継承されている点を具体的に指摘しているのは重要である。さらに、終戦の混乱で紛失した秋葉隆の未発表原稿を入手し、終戦直前の秋葉隆の朝鮮民俗に対する考え方を示している点など、韓国民俗学の歴史に一石を投じる論考である。


中生勝美「内陸アジア研究と京都学派──西北研究所の組織と活動」は、敗戦直前の一九四四年、中国の張家口に設立された西北研究所の組織と研究活動をまとめたものである。この研究所は今西錦司を所長、石田英一郎を副所長に、戦後、日本の人類学をリードする研究者が多数所属した「幻の研究所」である。筆者は、そこで組織された蒙古草原探検隊の成果が、戦後「遊牧論」として京都大学の生態学を形成する上で重要な役割を果たしたことを指摘する一方、その研究が、当時「第二満州国」とも言われた蒙疆連合自治政府の統治政策といかに関わりがあったのかという点も明らかにしている。

日本の人類学、あるいは民族学にとって、その学問の成立と発展の上で、植民地と戦争は避けて通れない問題である。しかし、従来この問題についてほとんど議論されてこなかったのが実情である。本書は、戦前の日本や日本の民族学者の戦争責任を追及するものではない。ただ、日本政府が、戦争の清算を完全には果たしえていないように、民族学界も学界自身の歴史を正視していなかったのではないだろうか。戦後五〇年たち、当時の研究者が残り少なくなっているなかで、日本の旧植民地をフィールドにする研究者として、その地域で先行研究した先達の足跡を、当時の「時代の雰囲気」と「時代の流れ」の中で捉え直し、どのような仕事を残してきたかを記録し、将来へ継承するために、事実を掘り起こして記憶することが緊急の課題である。日本の人類学・民族学の形成史の中で、植民地や戦争という状況下で発展したプロセスを、いかに位置づけていかねばならないのだろうか。そこには、重くて暗い戦争という「歴史」があり、我々はそれと正面から向き合わねばならない。


戦後の民族学は、欧米流の文化人類学・社会人類学として衣替えをして、さらに戦後の構造主義の影響で新しくスマートな学問として受け入れられていった。そうした状況では戦争中の活動にあえて触れないことが、戦前戦後と学会の指導的役割を担った先輩の学者への「配慮」だったのではないだろうか。さらに今日、民族学は欧米流のオリエンタリズムを輸入し、自己批判と学問的アイデンティティへの懐疑から自縄自縛の状況に陥っているかに見える。はたしてその批判には、現状を再構築する展望があるのであろうか。欧米の植民地主義批判を抽象的に議論するだけでは、ある意味で日本の植民地主義を覆い隠す結果を生み出すことにならないだろうか。


かつての日本の植民地を歩き、さらに戦争の影響を及ぼした地域、はたまた日本軍との戦闘に動員されたアフリカまでも、人類学者がフィールドを歩くと、「大日本帝国の歴史」が人々の記憶に息づいていることが分かる。そして自らの学問的出自をたどっていくと、戦時中の研究活動が重要な働きをしていることが徐々に分かってくる。しかしその活動の全容はいまだ不明な点が多い。


オーラル・ヒストリーと文献史学の橋渡しのとしてフィールドワークを続けながら、過去の民族誌を歴史の文脈に置いたり、また「大日本帝国」の具体像を少しでも明らかにできるのならば、批判と懐疑に揺れる人類学を再生するための試みにつながらないだろうかと考える。抽象論に陥ることなく、いかに日本のオリエンタリズムを克服するかは、これからの課題である。この立場で、本書ではあえてポスト・コロニアリズムやカルチュラル・スタディーズではなく、「植民地人類学」という名称を用いた。そこには日本の民族学そのものから、自省と自画像を示し出したいという意図があるからである。日本における植民地主義と人類学の研究は、やっとスタート地点にたどり着いたのである。


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著者紹介
中生勝美(なかお かつみ)
1956年、広島県生まれ。上智大学文学研究科史学専攻博士課程満期退学。和光大学人文学部助教授。『中国農村の権力構造と社会変化』(アジア政経学会、1989年)、『リン家の人々──台湾農村の家庭生活』(訳書、M・ウルフ著、風響社、1998年 )等。

田中雅一(たなか まさかず)
1955年、和歌山県生まれ。ロンドン大学経済政治学院(LSE)博士課程修了(社会人類学)。Ph.D. 京都大学人文科学研究所助教授。『暴力の文化人類学』(編著、京都大学学術出版会、1998年)、『女神──聖と性の人類学』(編著、平凡社、1998年 )等。

百瀬 響(ももせ ひびき)
1963年、北海道生まれ。立教大学大学院博士後期課程中途退学(文化人類学)。北海道教育大学岩見沢校助教授。『「開拓使文書」アイヌ関連件名目録』(北海道出版企画センター、1999年)、「ロシア先住民の民族籍の選択──ヤクーツクとウラジオストクの事例」『先住民と都市──人類学の新しい地平』(共著、青木書店、1999年 )等。

宋秀環(そう しゅうかん)
1964年、台湾台北市生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士課程修了(文化人類学、日本民俗学専攻)。台湾中央研究院民族学研究所助手。

崔吉城(チェ キルソン)
1940年、京畿道生まれ。筑波大学歴史・人類学系・文学博士(文化人類学)。広島大学総合科学部教授。『日本植民地と文化変容』(御茶の水書房、1994年)、『恨の人類学』(平河出版社、1994年)、『韓国民俗への招待』(風響社、1996年 )等。

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