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生寡婦(グラスウィドウ)

広東からカナダへ、家族の絆を求めて

生寡婦(グラスウィドウ)

中国系カナダ人女性人類学者が、移民法や儒教的束縛に蹂躙され、広東からカナダへ来た女の一生を描く。〔カナダ首相出版賞〕

著者 ユエンフォン・ウーン
吉原 和男
池田 年穂
ジャンル 社会・経済・環境・政治
シリーズ アジア・グローバル文化双書
出版年月日 2003/05/24
ISBN 9784894891036
判型・ページ数 4-6・560ページ
定価 本体3,500円+税
在庫 在庫あり
 

目次

まえがき──日本の読者のために
  序文
  系図

第一部 広東省台山県(一九二九年~一九五二年)

 一 野菜泥棒──一九二九年
 二 婚約──一九三二年
 三 婚礼──一九三三年
 四 山賊の襲撃──一九三三年
 五 生寡婦──一九三四年
 六 羽振りのいい時代──一九三六年
 七 戦争と飢饉──一九三九年十月
 八 陽江県への逃走と帰還──一九四四年十一月
 九 戦後の時期──一九四六年陰暦七月十四日
 十 形勢逆転──一九四九年十月
 十一 階級闘争集会──一九五一年六月
 十二 さようなら、わたしの西廓村──一九五一年秋

第二部 香港(一九五二年~一九五五年)

 十三 人、人、人──一九五二年五月
 十四 災難続き──一九五二年五月
 十五 さようなら、フェイイン──一九五三年十二月

第三部 ヴァンクーヴァーのチャイナタウン(一九五五年~一九八七年)

 十六 家族の再会──一九五五年五月
 十七 独りぼっち──一九五五年五月
 十八 香港の花嫁──一九五八年
 十九 激動の六十年代──一九六〇年
 二十 今は幸せだ……──一九六九年ハロウィン
 二十一 運命の歯車──一九六九年十二月
 二十二 長い家路──一九八七年六月

  訳者あとがき
  解説(吉原和男)
  監修者あとがき

  参考文献
  用語解説 

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内容説明

中国系カナダ人女性人類学者が、移民法や儒教的束縛に閉め出された女の一生を描いた異色の作品。広東での長い別離生活を経て、戦後ヴァンクーヴァーの夫の元へ、やっと得た平安も束の間、彼女が見たカナダや祖国とは。〔カナダ首相出版賞〕


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序文 Y・ウーン


北米大陸の西海岸に最初に中国人が渡ったのは、一八五〇年代のカリフォルニアでのゴールドラッシュと、それに続く一八六〇年代初めのブリティッシュコロンビアのフレーザー川流域でのゴールドラッシュに惹きつけられてのことだった。そのため、彼らのことを、日常の会話では「金山客」と呼んでいた。一八八〇年代から施行されたカナダの移民法は、中国人移民の家族の生活に衝撃を与えた。カナディアン・パシフィック鉄道が、主に中国人労働力を使用して完成してしまうと、カナダ政府は、中国人移民を制限せよというブリティッシュコロンビア州からの圧力に譲歩してしまった。カナダにやってくる中国人全員から人頭税の徴収を始めたのだ。一八八五年には五十ドルだったものが、一九〇〇年には百ドル、一九〇三年には五百ドルとなった。一九二三年には、「中国人移民法」が議会を通過した。一般には「中国人排斥法」として知られるこの法は、ほとんどあらゆる範疇に属する中国人の入国を禁じた。この法は、一九四七年まで廃止されなかった。


たくさんの男たちが息子をもうける目的で妻を娶りに里帰りはしていたが、男子がほとんどのカナダの中国人社会は、この「中国人排斥法」のおかげで、カナダに妻子を呼び寄せるという選択が許されなくなった。 金山客の中には、故国に帰った者もいたし、カナダで生計を立てようと残った者もいた。金山客の中でも成功者は、故郷にいる家族の経済的保証と快適な生活を確かなものにし、自分もいずれは隠居するつもりで、金を送っては「洋楼」(洋館)を建てさせたり、農地や店を買わせた。それほど成功を収めなかった者は、故郷に帰ることは叶わなかった。カナダで客死したが、洗骨された遺骨は中国南部の家族の許に送り返された。


一九二三年から一九四七年にかけて金山客の妻たちは、金山客の故郷の村で、野良仕事に家事という二重の労苦を担っていた。それほど幸運な運命とは言えなかった。幼いと言ってよい年齢で自身の同意も問われぬまま結婚し、女手一つで子供を育て、夫の両親と未婚の義理の弟妹に尽くした。祭壇に向かって不在の夫の四代にわたる先祖に毎日祈りをあげる役割を負っていても、嫁の婚家での地位ははなはだ低いものだった。息子が生まれるまでは、姑に嫁いびりをされたり、金山にいる夫に捨てられたりしないかとびくびくしながら生活していく。生まれた子が息子でない場合も同様である。家族以外にも夫の宗族の者からいびられることはしょっちゅうだし、天災、人災を問わず手に負えない危機に何度も直面した。彼女の受け取った海外からの送金が、下手をすれば一銭残らず第三者に奪われてしまうかも知れない。彼女と子供たちが直面するのはそれだけではない。カナダにいる夫の血と汗で購った堂々とした洋楼や外国通貨を物欲しげに眺める略奪者や侵略者に攻撃されたり、迫害される恐れもある。金山から夫が帰ってくるのを待ち侘びる妻は、日常の会話では「生寡婦」と呼ばれる。英語で言うところの、グラスウィドウ(草を蓐に寝る妻)である。本書では、ウオン・サウペン[黄秀萍]が生寡婦の典型である。もっとも、「中国人排斥法」との関わりから、わたしはサウペンを「閉め出された妻」とも表現してみたが。


中国人排斥法が廃止されてからの二十年間においても、カナダの中国人社会に加わった「閉め出された妻」や「閉め出された子供」は取るに足らない数であった。多数の者がカナダに渡ることは、政治のために不可能になった。つまり中国共産党体制は、一九四九年に政権の座を引き継いでからの三十年間、自国民が国外に移住するのを禁じたのだ。それ故、華僑の扶養家族は、香港に逃れるのが唯一出国する道であった。一方ではカナダが、朝鮮戦争が勃発した一九五〇年に、中国共産党体制との外交関係を断絶してしまった。もっとも、一番影響の大きかったのは、一九四七年の「カナダ移民法」が、扶養家族として呼び寄せできる子供の年齢の上限を十八歳としたことだった(一九五〇年には二十一歳に引き上げられたが)。


一九二三年から一九四七年にかけての二十四年間は、妻と同居ができなかったために、金山客には十八歳未満(後に二十一歳未満)の子を持つ者が少なかった。また、年齢は適していても、娘の場合はカナダまで呼び寄せようとしなかった。その結果、香港では、相当数の出生証明書が売買された。一九五〇年代にカナダに渡った若い男子移民のかなりのパーセンテージが、「書類上の息子」として入国した。それというのも、彼らはカナダという国を、まだまだ経済的好機がいくらでも転がっている「金山」だと見なしていたからだ。


中国人が、両親や配偶者からの呼び寄せでなく、自立した移民としてカナダに入国を許されるには、一九六七年の「新移民法」を待たなければならなかった。この「新移民法」とそれに続く諸法は、教育水準も高ければ、技能も身につけた、裕福で変化に富んだ多数の中国人移民をカナダに惹きつけた。その結果として、とりわけヴァンクーヴァーやトロントなどのような大都会の中国系カナダ人社会に、再生と再構築が見られた。


一九六七年までは、広東省の四邑地方(すなわち、台山、 開平、新会、恩平の四県)の出身者が、カナダにいる中国人の七十パーセント以上を占めていた。わたしは、一九七〇年代の初めに、一九二三年以前にカナダに渡ってきた開平県出身の十七名の金山客に詳細なインタビューを行った。一九八三年から八四年にかけて、私はこの聴き取り調査の対象を広げ、一九四七年に「中国人排斥法」が廃止された後に夫と一緒に暮らすことになった四邑地方出身の十二名の女たちを相手に選んだ。その頃からわたしは、開平県、台山県でも、大規模な家族調査を数次にわたって行ってきた。要するに、一九八六年から一九九四年にかけて、中国南部広東省のこの地方を九度訪れ、民家や華僑大厦に泊まりながら、移民送出村に住むたくさんの下級幹部や農民と話をした。本書は、一人の「閉め出された妻」の一代記の体裁を取っているが、実際には、たくさんの調査対象や知り合いの経験に肉付けしたものである。ウオン・サウペンは、多くの女たちが犠牲となって呑み込まれてきた社会構造の中で、辛うじて生き延びた女たちを代表させた登場人物なのだ。


本書を貫く主要なテーマは、中国およびカナダの国内の事件や政治によってはもちろんのこと、中国の国際的地位や中加の外交関係といった外的要因によっても、カナダの中国人家族と中国人社会が、どれほどひどく振りまわされてきたのかということである。本書の読者は、こうした様々な要因が、中国系カナダ人のアイデンティティやイメージにどれほど影響を与えたか、家族の中の世代間の関係の変化や、中国系カナダ人社会の社会経済的構造・文化面・人間関係にもどれほど影響を与えたかについて、感じ取って下さると思う。本書のテーマには、そうした要因が、カナダ在住の中国人と中国南部の故郷の村との関係のみならず、中国人とカナダ社会の主流派との関係にどれほど強い衝撃を与えたかも含まれている。さらには、中国人女性の地位が、いかに変わらなかったか、あるいは変わったのかという対照も重要なテーマである。また、本書で扱っている時期(一九二九年~一九八七年)には、台山県、香港、ヴァンクーヴァーのチャイナタウンという三つの地域が、根本的な社会変化を経験している。


読者が読みやすくなればと願い、本書で用いられているたくさんの見慣れない中国語の単語については、定義を記した「用語解説」として付録につけた。読者は、こうした単語だけでなく、この小説に出てくる中国生まれの男たちの命名法を紛らわしく思うかも知れない。ここで、詳しく説明しておきたい。


本書で用いた命名法は、中国南部の田園部に固有の文化的な枠組みに則っている。一九四九年までは、台山のような県では、宗族が幅を利かせていた。同じ村の農民の男たちは、父系によって親戚関係にあった。宗族の長が音頭をとり、宗族の共有地から資金が出される中で、農民の男たちは毎年春と秋とに集うて、村の祠堂で直接の祖先を崇拝した。親族の紐帯を示すために、それぞれの世代の農民の男たちは、名前の真ん中の文字を共有するのである。その文字は、宗族の長老たちにより受け継がれてくる詩の中の一語から選ばれる。祖先の名を使うことは、不敬だと見なされていた。そんな事情だから、ウオン・サウペンの舅が「國」(コク)という真ん中の文字を持っているとなると、その弟も「國」を付けられる。西廓村では、リオン[梁]一族の長も含め、同じ世代の者たちにはみんな「國」が付く。それに続く二世代も、故郷の村でも、ヴァンクーヴァーでも、同じ命名法を取り入れていた。例えば、ウオン・サウペンの夫の世代は「益」(イク)がつき、息子の世代には「建」(キン)がつけられた。もっとも、こうした命名法は、ヴァンクーヴァー生まれの世代が好んでクリスチャンネームを付けたために、ヴァンクーヴァーのチャイナタウンでは継承されなくなった。


本文においても、地図上でも、私は一貫して固有名には標準広東語を用いている。中国生まれの登場人物、地名や組織名などひっくるめての話である。音訳は、マイヤー=ウェンプ式に則っている。また、本文中や、「用語解説」の中で、括弧中に対応する標準語(ピンインによって表記)が記してある場合がある。


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〈著者紹介〉
ウーン、ユエンフォン(Yuen-fong Woon、温婉芳)
現在、カナダ、ビクトリア大学太平洋・アジア研究学部教授。
1966年、香港大学歴史・社会学部卒業。1968年、香港大学の大学院にて修士号取得(哲学)。1975年、カナダ、ブリティシュ・コロンビア大学にて博士号取得(社会学)。
主な論文に、 メLabour Migration in the 1990s: Homeward Orientation of Migrants in the Pearl River Delta Region and Its Implications for Interior Chinaモ Modern China, Vol.25, No.3, July, pp.475-512, 1999, メFilial or Rebellious Daughters? Dagongmei in the Pearl River Delta Region, South China, in the 1990sモ Asian and Pacific Migration Journal, Vol.9, No.2, pp.137-169, 2000.

〈監修者紹介〉
吉原和男(よしはら かずお)
現在、慶應義塾大学文学部教授。
主な編著に、『<血縁>の再構築 東アジアにおける父系出自と同姓結合』(鈴木正崇・末成道男と共編、風響社、2000年)、『アジア移民のエスニシティと宗教』(クネヒト・ペトロと共編、風響社、2001年)、『拡大する中国世界と文化創造 アジア太平洋の底流』(鈴木正崇と共編、弘文堂、2002年)。

〈訳者紹介〉
池田年穂(いけだ としほ)
現在、共立薬科大学薬学部教授。
訳書に、『リロケーション──日系米人強制収容の証言』(西北出版、1991年)ほか多数。論文に、『福原有信と揺籃期の近代薬事制度』(「共立薬科大学研究年報」四二号所収、1997年)ほか多数。

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