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01 ペストと村

七三一部隊の細菌戦と被害者のトラウマ

01 ペストと村

資料や証言から掬い上げた「真実」を出発点として描く、歴史と民衆との齟齬。法の壁を叩く人びとの声を伝える静寂のドキュメント。

著者 上田 信
ジャンル 歴史・考古・言語
シリーズ 風響社あじあ選書
出版年月日 2009/09/20
ISBN 9784894891357
判型・ページ数 4-6・244ページ
定価 本体1,800円+税
在庫 在庫あり
 

目次

序章 裁判の結果

第一章 疫病に関する記録と記憶

  一 村の悲劇に関する記録
  二 村の悲劇に関する記憶

第二章 因果関係の立証

  一 細菌兵器の開発と実地使用
  二 ペスト流行の歴史

第三章 細菌戦が破壊したもの

  一 同姓村の絆
  二 姻戚のネットワーク

第四章 被害者・遺族にとっての細菌戦訴訟

  一 起訴の動機
  二 裁判の意義

終章 敗訴からの出発

  一 判決文を読む
  二 敗訴後の崇山村

あとがき
参考文献
細菌戦関連年表
東京地方裁判所判決文抜粋

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内容説明

国家間の枠組み、ナショナリズムの連鎖から離れ、ペスト菌をまかれた村人の立場を歴史家として追跡。資料や証言から掬い上げた「真実」を出発点として描く、歴史と民衆との根本的齟齬。法の壁を叩く人びとの声を伝える、静寂のドキュメント。

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あとがき


細菌戦の国家賠償請求裁判で原告側に立つ一瀬敬一郎弁護士と原告のまとめ役となっていた王選さんが私の研究室を訪ねてきたときから、本書を書き上げるまで、ちょうど一○年の歳月を要することとなった。この一○年のあいだに、崇山村で調査を行い、意見陳述書をまとめ上げ、東京地方裁判所一○三法廷の証言台に立って原告側の陳述を行い、その後に崇山村に関する数編の論考を発表することができた。こうした形で自分自身が生きる時代と接点を持てたこの一○年は、多くの歴史研究者が自分の営為はいったい何の役に立つのか、という問いに悩んでいるなかで、私の人生のなかで、至福の一時代を画していると言うことができる。


この一○年のあいだに、細菌戦に関して中国のメディアから二回、日本の新聞から一回の取材を受けた。中国におけるインタビューは、王選さんが手配してくれたもので、いずれもインターネットに掲載された。中国人の記者に自分の思索を伝えることは、きわめて困難であった。しかし、何とか伝えようと乏しい中国語のボキャブラリーを頭からひねり出そうとしているうちに、自分自身の考えていることが次第に自分にも分かるような言語となっていったのである。


二○○六年三月に取材を受けた『南方周末』記者の南香紅さんとは、上海の衡山賓館のロビーで、中断を挟みながら、六時間あまり話をした。中国人の記者は、中国という国家と日本という国家との関係のなかで、ものごとを整理しようとする。南さんはすでに王選さんと交流があったために、発想は柔軟ではあったが、それでも加害国の日本と被害国の中国という枠組みを前提にして、私が中国のために努力をしている、という文脈で質問を立ててくる。私は確かに一般の日本人に比べて中国との付き合いは深いものの、けっして友好人士でも親中派知識人でもない。その立場を伝えることは難しく、同じ事をさまざまな事柄を取り上げながら、繰り返し述べることで、ようやく理解してもらった。


記事の冒頭で私を紹介する。「戦争を知らないひとりの子ども、上田信は一九五七年に生まれ、戦後日本の高度経済成長とともに育った世代に属する。背は低く、一見すると素朴な〈娃娃臉〉(ベビーフェイス)ではあるが、霜の降りた髪が中年になっていることを伝えていた」とある。もう、勝手にしてくれ、といった紹介文ではある。私が崇山村の調査に至る経緯を述べた文章に続いて、私が数時間を費やして、ようやく理解してもらった言葉が登場する。


崇山村は上田信に戦争を認識する新しい視点を提供した。この角度は被害者の立場から日本、そして戦争を見るというものであり、文化の深層から中国を理解しようとするものである。


「これは中国という国家と日本という国家のあいだの問題というだけでなく、一人の中国の〈老百姓〉(権力から疎外された人々)と日本の庶民の戦争体験の違いということです。戦争は個々人の人生に根ざしているので、国家や民族といった大きな概念によって個人の心に刻まれたトラウマを拭い去ることはできないのです」。

取材のなかで私が伝えたいことは、戦争責任を考えるときに、国と国との関係ではなく、加害国に生まれ育った「私」という個人と、被害を受けた中国に生まれ育った個人との関係が、全ての起点となるのだ、という私なりの崇山村を介して得た結論である。


教科書問題がアジアで吹き荒れた直後に南京に留学し、そこで中国人学生と語り合うなかで、どうしてもすっきりと説明できなかったことが、ようやく説明できるようになったということになるのだろう。説明を単純化するならば、日本が中国に対して負っている戦争責任という難問は、日本と中国という軸と国家と個人という軸から構成される問題群のマトリックスで解かなければならない、ということである。中国という国と日本という国という枠組みだけでは、それぞれのナショナリズムが煽られるだけで、問題解決の糸口すらも熱狂のなかで見失われる。個人という軸を置くことで、はじめて、難問を解く道筋が見えてくる。


難問を解く糸口は、他者に対する共感にある。通り魔殺人などの理不尽な事件に巻き込まれて殺された被害者の遺族は、なぜ自分はこうした苦悩に投げ込まれなければならなかったのか、と自問することが多い。そのために、被害者・遺族は、自分自身を追い詰め、精神の均衡が崩れてゆく。七三一部隊が開発した細菌兵器は、崇山村に住む人々の心に傷を負わせた。崇山村に向かい合うためには、個々の被害者・遺族の心の傷、トラウマに目を向けるところから始める必要があるのである。


二○○八年正月に『日本経済新聞社』の取材を受け、崇山村のことを語った。その一節に次のようにある。「崇山村には細菌戦資料の展示館が開設され、南側の壁一面には、村民と日本人が一緒に写った約五○枚の写真パネルが飾られていた。東京・霞ヶ関の東京地裁前などで撮影された記念写真だった。裁判での日本の支援を記録として残すため、村民が設置したという」。このコラムの最後に、「北京五輪開催を控えた今年、調査結果をまとめた著書の発行準備を本格化させる」とある。この約束を果たすため、本書を上梓する。……

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