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阿爾寨(アルジャイ)石窟(中文版)

成吉思汗的佛教紀念堂興衰史

阿爾寨(アルジャイ)石窟(中文版)

敦煌と比肩される仏教遺跡であり、チンギス・ハーン埋葬の謎を解く鍵。多くの図録を添えてその歴史を究明した貴重な記録である。

著者 巴図吉日拉
楊 海英
ジャンル 歴史・考古・言語
書誌・資料・写真
シリーズ モンゴル学研究基礎資料
出版年月日 2005/07/01
ISBN 9784894898707
判型・ページ数 A4・224ページ
定価 本体4,800円+税
在庫 在庫あり
 

目次

第一部 阿爾寨石窟的歴史変遷

第一章 阿爾寨石窟概况及其環境

 一 阿爾寨石窟概况
 二 石窟周囲的社会歴史環境
 三 伝説中的阿爾寨石窟

第二章 从歴史記憶和歴史資料看阿爾寨石窟

 一 迪魯瓦呼図克図的回憶
 二 那日瓦班沁寺的建立与迪魯瓦呼図克図之北遷
 三 第二世迪魯瓦呼図克図
 四 第三世迪魯瓦呼図克図
 五 第四世迪魯瓦呼図克図与六世達頼喇嘛
 六 其他迪魯瓦呼図克図們

第三章 当代阿爾寨石窟寺与班沁召的関係

 一 曾名為伴沁召的阿爾寨石窟
 二 当代阿爾寨石窟寺的僧侶与班沁召的関係

第四章 《蒙古秘史》中的阿爾寨石窟

 一 成吉思汗与阿爾寨石窟
 二?翁渾―答蘭―忽都黒?与百眼井
 三 夏遼駅道中的?陌井駅?
 四 考古学家眼中的阿爾寨石窟

第五章 阿爾寨石窟内回鶻蒙古文榜題和其他出土文字資料

 一 榜題等文字資料概况
 二 懺悔三十五佛之賛歌
 三 聖救度佛母二十一種礼賛経
 四 十六羅漢頌
 五 男居士達磨達拉賛歌和四天王賛歌
 六 出土文字資料概况
 七 阿爾寨石窟各種文字資料的重大意義

第六章 阿爾寨石窟的興衰

 一 藏伝佛教●挙派与元代蒙古
 二 明人継承的元版
 三 林丹汗没有破坏阿爾寨石窟
 四 清朝的?批林丹汗?運動
 五 ●瑪●挙派与格魯派的斗争

第七章 阿爾寨石窟―成吉思汗的佛教紀念堂

 一 薩満教国俗与佛教的統合
 二 阿爾寨石窟内的成吉思汗御容
 三 成吉思汗上升為多聞天王

 第二部 主要佛塔、壁画及出土品

 佛塔及種字
 一号窟
 二二号窟
 二六号窟
 二八号窟
 三一号窟
 三二号窟
 三三号窟
 出土品類

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内容説明

中国内モンゴル自治区アルブス山腹のアルジャイ石窟は敦煌と比肩される仏教遺跡であり、チンギス・ハーン埋葬の謎を解く鍵とも目され、今後の調査を待っている。本書は多くの図録を添えてその歴史を究明した貴重な記録である。図版338(カラー32)。


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本書の概要


アルジャイ石窟
チンギス・ハーンの仏教記念堂―


一 チンギス・ハーンの最期の舞台


中華人民共和国内モンゴル自治区の西部、黄河の南にオルドスという高原がある。オルドス高原の西北部にアルブスという広大な山地が広がり、そのなかから大規模な石窟群が一九八〇年代末に発見された。二〇〇三年三月、中国の国家重点文物(重要文化財)に指定された。


石窟群を現地のモンゴル人はアルジャイ(阿爾塞)と呼び、中国語では百眼窟(ペイイェンクー)という。現在確認されている洞窟は六五で、岩壁に彫った仏塔は二十二を数える。約千点以上の豪華絢爛な壁画が残っており、二〇〇〇年春には大量のモンゴル語とチベット語の文書が出土した。


アルジャイ石窟のなかで、もっとも古い窟は長方形の造りで、奥に方形の柱を彫り出した形式となっている。この種の石窟は四世紀ころの北魏時代に開造された、と中国の考古学者たちはみている。インドのチャイティア窟やアフガニスタンのバーミヤーンの仏龕窟の影響を受けている可能性も指摘されている。


石窟のあるアルブス山周辺は、十一世紀ころに勃興した西夏(せいか)王国の領土に入っていた。西夏王国は当時の新興勢力であるモンゴルになかなか帰順しようとしなかった。そこで、チンギス・ハーンは一二二五年の秋に西夏征服のためモンゴル高原を出発した。


チンギス・ハーンは黄河を南に渡って、今日のオルドス高原に進軍した。十三世紀に書かれた『元朝秘史』に、チンギス・ハーンはアルブス山で巻狩の最中に馬から落ちて、「多数の洞窟」に入って駐営したとある。「多数の洞窟」とは今のアルジャイ石窟である。西夏王国は敬虔な仏教国で、「多数の洞窟」は石窟寺院だった。仏教についてほとんど知識をもたなかったモンゴル人たちは単純に「多数の洞窟」と呼んだ。


西夏滅亡を目前にして、チンギス・ハーンは落馬の怪我がもとで死去する。西夏が滅んで元朝時代になっても西夏の僧侶たちは厚遇され、アルジャイ石窟寺院は繁栄し続けた。十四世紀末にモンゴルが中国から撤退し明朝が成立するが、アルジャイ石窟はモンゴルの勢力下にあった。そして十七世紀半ばに明朝が滅び、満洲清朝に移行していく混乱のなかで、石窟寺院は没落の一途をたどっていった。


二 モンゴル帝国時代の仏教資料


モンゴルはユーラシアに跨る大帝国を建立した。帝国の東方を成す元朝はチベット仏教を国教としていた。アルジャイ石窟の壁画の大半は西夏やモンゴル帝国時代以降に製作されたものである。また、一部の壁画の四方には回鶻(ウイグル)文字モンゴル語とチベット語、それに古代インドで使われたサンスクリットで題字が書いてある。いずれも仏教の神々を称賛する内容であるが、多言語の同時運用は帝国の権威と多様性を演出している。


仏教が中国や朝鮮半島そして日本に伝わったもっとも古いルートのひとつがシルク・ロードである。バーミヤーンや敦煌をはじめ、多数の石窟が東伝のルート上に造営された。石窟は造営当時の最先端の建築技術や美術の精粋を集めて造られた。東西の文明が融合して創出された文化の宝庫である。


北アジアの草原地帯に仏教がいつ、どのようにして伝わり、どんな形で開花したのか。また、元朝時代の仏教信仰の実態はどのようなものだったのか。これらの問題を解明するためには、アルジャイ石窟内の壁画や題字、それに出土文書が大きな手がかりとなる。チンギス・ハーンとその後継者たちが残した文化遺産は人類の大きな財産となっている。



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著者紹介
巴図吉日拉(バトジャラガル)
オトク旗文物管理所長。
楊海英(Yang Haiying)
1964年、中国内モンゴル自治区オルドス地域生まれ。モンゴル族。
1987年、北京第二外国語学院大学アジア・アフリカ語学部日本語科卒業。同大学助手を経て1989年春来日。1995年、総合研究大学院大学博士課程修了、文学博士。
現在、静岡大学人文学部助教授。
主な著書: 『草原と馬とモンゴル人』(2001年、日本放送出版協会)、『オルドス・ モンゴル族オーノス氏の写本コレクション』(2002年、国立民族学博物館・地域研究企画交流センター)

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