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モンゴルのアルジャイ石窟

その興亡の歴史と出土文書

モンゴルのアルジャイ石窟

アルジャイ石窟はモンゴル史・北アジア史の鍵を握る遺跡の歴史を詳細にたどり、出土したウイグル・モンゴル文書群の全容を解説、

著者 楊 海英
ジャンル 書誌・資料・写真
シリーズ モンゴル学研究基礎資料
出版年月日 2008/06/22
ISBN 9784894898738
判型・ページ数 B5・363ページ
定価 本体5,000円+税
在庫 在庫あり
 

目次

第1章 故郷アルジャイ

 1. アルジャイ石窟周辺
 2. 『モンゴル秘史』とアルジャイ石窟
 3. アルジャイ石窟の概要

第2章 伝説と記憶のアルジャイ

 1. アルジャイ石窟に関する諸伝説
 2. 記憶のアルジャイ
 3. ナルバンチン寺領の成立とディルワの北遷
 4. カギュ派の系統を汲む歴世ディルワ・ホトクトたち
 5. 歴世ナルバンチン・ホトクト

第3章 現代におけるアルジャイ石窟とその継承寺バンチン・ジョー寺との関係

 1. バンチン・ジョー寺と呼ばれていたアルジャイ石窟
 2. 継承寺バンチン・ジョーの僧は語る
 3. 現在のアルジャイ石窟とバンチン・ジョー寺

第4章 アルジャイ石窟のウイグル文字資料群

 1. ウイグル文字モンゴル語榜題資料の概要
 2.  「聖救度佛母二十一種禮讃経」再読

第5章 アルジャイ石窟出土モンゴル語写本

 1. 出土文書の概要
 2. 手写本類の転写
 3. アルジャイ石窟出土文書の意義

第6章 アルジャイ石窟からの展望

 1. カギュ派とモンゴル
 2. アルジャイ石窟を破壊したのはリクダン・ハーンか
 3. 清朝によるリクダン・ハーン批判の画策
 4. アルジャイ春秋

参考文献

付録
1 アルジャイ石窟の主な壁画
2 北京版「聖救度佛母二十一種禮讃経」
3 アルジャイ石窟出土文書

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内容説明

アルジャイ石窟はモンゴル史・北アジア史の鍵を握る遺跡として、発掘・研究が進められている。本書は、その歴史を詳細にたどり、また出土したウイグル・モンゴル文書群の全容を解説、今後の研究を展望するものである。(付録・図版多数)モンゴル学研究基礎資料3。


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3. アルジャイ石窟の概要

何故、人々は辺鄙なところに石窟を開いたかについて、東山健吾氏は次のように説明している。石窟はもともと修行の為に選ばれた閑静な場所に造られるが、このような場所は阿(あ)蘭(らん)若(にゃ)といい、漢語では遠離処という。大同の雲岡石窟、洛陽の龍門石窟、そして敦煌石窟などすべて都市や村落から離れたところにある。都市から離れているだけでなく、河や泉があり、観像する佛像を彫刻できることも条件になる。河や泉は佛前に供える聖水と修行僧の生活に必要な水を提供する。佛像や壁画は断崖に穿たれる。かくして、石窟は環境や地勢の独特なところで造営される。石窟は最初、修行の為に開造されるが、やがて在俗の寄進者も参画し、有力者の意思が具現されるようになる。有力者は石窟を寄進することによって、自分と一族の解脱を願い、功徳を後世に伝えようとする。そして、為政者にとって、石窟はまた祖先を祭る宗教儀礼の場所となっていく(東山 1996:32-34)。


アルジャイ石窟もその周辺環境から見れば、ほぼ東山氏の指摘と合致する場所に位置している。しかし、アルジャイ石窟の周りには、僧侶たちが徒歩で2?3日かけて行けるような村落や町はまったくない。


3.1 現在のアルジャイ石窟
厳密にいえば、アルジャイと呼ばれる地域は以下のような三つの箇所からなっている。


1 スゥメト・アルジャイ(S?met? Arjai): 「寺のあるアルジャイ」の意
2 イケ・アルジャイ(Yeke Arjai): 「大きいアルジャイ」の意
3 バガ・アルジャイ(Baγ-a Arjai): 「小さいアルジャイ」の意


三つのアルジャイのうち、スゥメト・アルジャイが一番南、イケ・アルジャイはその北約2kmのところに位置し、バガ・アルジャイはスゥメト・アルジャイの東約1km離れたところにある。空からも見た場合(写真8アルジャイ石窟俯瞰。前方に立つのがスゥメト・アルジャイで、その左がバガ・アルジャイである。)、三つのアルジャイは三つ巴のかたちをしていることが分かる。


現在「アルジャイ石窟」と表現した時、だいたいスゥメト・アルジャイにある石窟群を指す。今までに発表されてきたさまざまな研究報告や内モンゴル自治区文化庁がアルジャイ石窟を全国重点文物に推薦する為に2002年11月20日に書いた申請書にも、もっぱらスゥメト・アルジャイにある石窟群を紹介している(内蒙古自治区文化庁 2002)。実際にはバガ・アルジャイにも石窟と佛塔が存在する(写真9バガ・アルジャイの石窟、写真10バガ・アルジャイの佛塔)。イケ・アルジャイの方は、まだ現段階で石窟があるかどうか完全に確認できていないが、私の初歩的な調査の結果、近現代以前の遊牧民の残した遺跡が若干存在していることが分かった。また、イケ・アルジャイの上にはチャハル人の聖地オボーがある。陰暦5月13日には盛大な祭祀が行われる。この祭祀には地元のチャハル人だけでなく、遠くのアラシャン地域に住むチャハル人も参加するという。チャハル人たちはオルドスに定住してすでに300年以上経つが、今でもオルドス・モンゴル人が祭祀に加わることを禁止しているという。


今後、同地域の遺跡群に対する総合研究が行われることを考えると、私は「アルジャイ石窟」と表現する場合、上記三つのアルジャイをすべて含めるべきだと考えている。当然、本研究においても、三つのアルジャイをまとめて「アルジャイ石窟」と呼んでいることをあらかじめことわっておきたい。


スゥメト・アルジャイは高さ約40m、東西約300m、南北約50mの砂岩からなる山である。石窟は山の四方に分布している。現在確認されている石窟は66に達する。なかでも特に南側の岩壁に石窟が最も集中し、上・中・下三層からなっている(図1アルジャイ石窟地形図)。東と北側には石窟が少なく、例えば56号窟と57号窟とのあいだの約53mの空間内にはまったく窟を開造していない(図2アルジャイ石窟各窟の立体分布図)。比較的保存状態が良い窟は43で、残りの窟は沙に埋もれるか、倒壊した状態にある。


石窟群には中心柱式のものもあれば、平面方形や長方形のものもある。窟内部は直壁平頂、つまり壁面はまっすぐで、天井も平らな形式をとっている。壁には佛龕や須弥座、天井には網状の方格か蓮花状の藻井が開削されている(写真11蓮華状の藻井)。


スゥメト・アルジャイの岩壁には合計26の塔が彫ってある。そのうちのひとつは密檐式塔(写真12,CD 4043,no22岩壁に彫られた密檐式塔)で、他はすべて覆鉢式の塔(写真13,14,15,16,17,18,19,20,21,22,23,24,覆鉢式の塔)である。約6mもの高さの塔もあれば、わずか10cmの小さい塔もある。


すでに述べたように、今までの報告や研究はバガ・アルジャイの遺跡にあまり関心がなかったようである。私の初歩的な調査で、バガ・アルジャイには少なくとも石窟がひとつ、浮き彫りの塔が三つあることを確認できた。塔の中腹部の龕にはチベット文字が書かれた肩甲骨がいくつか置いてあった。


スゥメト・アルジャイのスゥメ(寺)の跡は山頂にある(写真25 CD4043,No.15アルジャイ山頂の建築物の跡)。合計6つの建物の跡がある。現在、付近のモンゴル人たちが建てたオボーがひとつ加わったかたちとなっている。
注目すべき遺跡はもうひとつある。……


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著者紹介
楊海英(Yang Haiying)
静岡大学人文学部教授。専攻、文化人類学。著書に『草原と馬とモンゴル人』(日本放送出版協会、2001年)、『チンギス・ハーン祭祀?試みとしての歴史人類学的再構成』(風響社、2004年)、『モンゴル草原の文人たち?手写本が語る民族誌』(平凡社、2005年)、『モンゴルとイスラーム的中国?民族形成をたどる歴史人類学紀行』(風響社、2007年)などがある。

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