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モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 1

滕海清将軍の講話を中心に

モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料 1
著者 楊 海英
ジャンル 書誌・資料・写真
出版年月日 2009/01/30
ISBN 9784894898813
判型・ページ数 A4・930ページ
定価 本体20,000円+税
在庫 在庫僅少
 

目次

第一部 ジェノサイドとしての文化大革命とその資料

1 隠され続けている大虐殺=モンゴル人ジェノサイド
2 モンゴル人ジェノサイドの原因=内モンゴル人民革命党の歴史
  ―アルタンデレヘイ氏の研究から・その一
 2.1 アルタンデレヘイ氏の作品
 2.2 内モンゴル人民革命党の歴史
3 中国共産党中央委員会と同時進行した運動=内モンゴル自治区の文化大革命
  ―アルタンデレヘイ氏の研究から・その二
4 ジェノサイドの確証
  ―アルタンデレヘイ氏の研究から・その三
 4.1 シリンゴル盟の事例
 4.2 イケ・ジョー盟(現オルドス市)の事例
 4.3 ウラーンチャブ盟の実例
 4.4 バヤンノール盟の事例
 4.5 ジェリム盟の事例
 4.6 フルンバイル盟の実態
 4.7 ジョーウダ盟(現赤峰市)の状況
 4.8 アラシャン地域の事例
 4.9 フフホト市と包頭市の事例
5 ジェノサイドを煽動した資料とその解題
 5.1 流氓政治
 5.2 流氓の誕生
  5.3 出陣の狙い
5.4 優秀な流氓の発声
 5.5 滕海清批判の資料
6 流氓言語の政治的な性質
 6.1 虐殺者にも舐犢の情
 6.2 政治言語の邪悪性と歴史の投影

 参考文献
 本書所収テキストの出典

第二部 滕海清将軍の講話・指示・検査等

1,呼市無産階級革命派在歓呼北京市革命委員会成立大会上滕海青(清)代司令員的講話
  (1967年4月24日)
2,滕海清代司令員的講話
  (1967年4月29日)
3,滕海清代司令員在団以上幹部座談会上的講話
  (1967年4月22日)
4,学習中国人民解放軍突出政治的光栄伝統、為把内蒙革命造反派建設成為一支非常革命化非常戦闘化的隊伍而闘争(1967年6月9日)

(中略)
95,滕海清在自治区直属机?干部大会上的第一次?査(摘要)
  (1969年6月23日)
96,滕海清在唐山学習班的第二次?査(要点)
  (1970年12月16日)..
97,一九八〇年滕海清向中央作的第三次?査
  (1980年4月16日)

第三部 滕海清将軍を批判した資料

1,滕海清同志背着中央幹了些什??
  (1968年12月1日)
2,関於徹底批判滕海清同志形“左”實右的資本階級反動路線的厳正声明
  (1969年4月30日)
3,最最強烈的要求
  (1969年5月8日)
4,内蒙古自治区革命委員会政治部批判滕海清同志形“左”實右的反動路線聨絡站緊急声明 (1969年5月12日)
5,呼和浩特市革命委員会革命群衆関於成立批判滕海清同志形“左”實右的反動路線聨絡站厳正声明 (1969年5月14日)
6,批不批滕海清形“左”實右的反動路線是忠不忠毛主席革命路線的大問題
  (1969年5月15日)
7, 呼和浩特市革命委員会革命群衆“批滕聨絡站”第一号通告
  (1969年5月16日)
8,全区無産階級革命造反派及革命群衆召開落實毛主席5.22批示徹底批判滕海清同志“左”傾機会主義路線大会通電 (1969年5月28日)
9,徹底批判滕氏“左”傾路線、堅決?平馬氏小山頭
  (1969年5月29日)
10,初掲馬伯岩一手策劃的11.23事件的内幕
  (1969年6月4日)
11,関於目前形勢和“新内人党”問題座談会重点発言
  (1969年6月12日)
12,馬伯岩個人野心的一次大暴露
  (1969年6月25日)
13,驚人的陰謀、罪悪的計劃
  (1969年6月29日)
14,五十個問題―兼批滕海清同志六月二十四日的検査
  (1969年7月1日)
15,内蒙古日報社革命造反派、革命群衆、新聞連隊関於当前形勢的戦闘口号
  (1969年7月1日)
16,対内蒙当前局勢的幾点看法―兼評『五十個為什??』
  (1969年7月5日)
17,呼和浩特工代会厳正声明
  (1969年7月15日)
18,呼和浩特地区無産階級革命造反派関於目前形勢的戦闘口号
  (1969年7月19日)
19,烏達保滕武闘隊践踏五・二二批示、悪化内蒙局勢的罪証
  (1969年7月28日)
20,滕海清反毛澤東思想言論輯録
  (1969年5月)..
21,高挙毛澤東思想偉大紅旗徹底批判滕海清“左”傾機会主義路線和反動的“多中心論”資料?編 (1969年5月)
22,滕海清反毛澤東思想言論集
  (1969年6月1日)
23,批滕戦線―滕海清有関?“新内人党”方面的言論専輯
  (1969年6月22日)
24,趙玉温大反毛澤東思想言論集
  (1969年7月16日)...
25,内蒙古党委第二書記廷懋致信黄克誠追究滕海清法律責任
  (1981年8月1日)

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内容説明

本書は内モンゴル自治区でおこなわれた中国文化大革命に関する第一次資料を解説し、影印したもので、1967年から1970年にかけて、大規模なモンゴル人虐殺を指揮した中国共産党の指導者、首長と呼ばれる滕海清将軍の講話と指示などを収録。
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第一部より
本書は内モンゴル自治区でおこなわれた中国文化大革命に関する第一次資料を解説し、影印したものである。具体的には1967年から1970年にかけて、大規模なモンゴル人虐殺を指揮した中国共産党の指導者、首長と呼ばれる滕海清将軍の講話と指示などを収録している。
モンゴル人たちは、文化大革命中のモンゴル人大量殺戮をジェノサイドだと理解している。モンゴル人大虐殺は、近年に旧ユーゴスラビアで発生した諸民族同士が血で血を洗う「民族浄化」とは性質を異にしている。内モンゴル自治区の場合は、すべてが国家側、大民族の漢族側からの一方的な殺戮だった。これが、モンゴル人・ジェノサイドの特徴である[楊 2008a:419-453]。
私のような内モンゴル自治区のモンゴル人たちは、「中国内モンゴル自治区の文化大革命」という表現を使わないで、「内モンゴル自治区でおこなわれた中国文化大革命」という立場を取っている。というのは、内モンゴルは確かに今や中華人民共和国の領土となっているが、それは1949年からのことに過ぎない。仮に、内モンゴルが中華世界とは異なる国家を樹立していたら、中国の過酷な政治運動がこの地のモンゴル族全体を呑み込むようなことはなかったにちがいない。換言すれば、内モンゴルのモンゴル人たちは、中国に編入され、国籍上でやむを得ず「中国人」とされたがゆえに、大量殺戮の対象とされたわけである。モンゴル族はジェノサイドの犠牲者になる代償を払って、中華人民共和国の「人民」の一員にカウントされたのである。この点を研究者たちは認識しなければならない。
以下、私はまず内モンゴルがどのように中国文化大革命に巻き込まれていったかを従前の研究を援用してまとめる。そして、ジェノサイドの実態について報告する。その上で、ジェノサイドの指揮官たる中国共産党の滕海清将軍が残した第一次資料 について解説する。私がこのような手法を取るのは、中国政府が少数民族虐殺の歴史をひたすら隠蔽しつづけているからである。隠蔽工作を暴き、ジェノサイドの実態を世界に発信する必要があるからである。
1 隠されつづけている大虐殺=モンゴル人ジェノサイド
1966年5月16日から、「偉大な領袖」毛澤東自らが発令し、「偉大で、光栄で、正しい」中国共産党主導の文化大革命が勃発した。
その一年後の1967年末から1970年夏にかけて、中国領とされた内モンゴル自治区では多くのモンゴル人たちが逮捕、粛清された。彼らに冠された「罪」は、「内モンゴル人民革命党員」だった。この「内モンゴル人民革命党」は「偉大な祖国中国からその固有の領土である内モンゴルを分裂させようとした歴史がある」、と断罪された。いざ、「罪」が確定すると、血腥い殺戮が直ちに全域で開始された。
犠牲者の数については、諸説がある。滕海清自身は1969年4月19日に計38万人を「えぐり出した」と、発言している(本書「第二部、No.89の講話」)。内モンゴル大学の教授でモンゴル人の?維民は、凡そ346,000人が「内モンゴル人民革命党員」として疑われ、27,900人が殺害されたとしている[?維民 1991:313-314)]。内モンゴル自治区の紅衛兵の著名なリーダーだった高樹華とマカオ大学の程?潔(程鉄軍)教授らは2007年に香港から出した著書『内蒙文革風雷』のなかで、約50万人が逮捕され、2~3万人が虐殺されたと計算している[高樹華 程鉄軍 2007:378]。程鉄軍こと程?潔は文化大革命中に『内モンゴル日報』の記者だったので、当時の経験に基づいて研究している。一方、モンゴル人のニスレ(尼斯勒)は最近、逮捕者の数は約100万人に上り、死者の数は5万人に達するとの見方を示している 。
中国文化大革命が内モンゴル自治区でおこなわれた時に、モンゴル族の人口は約150万人だった。?維民教授のきわめて控えめな数字で計算しても、ほとんどの家庭から一人の「民族分裂主義者」を出していたことになる。客観的に見て、モンゴル族全体が疑われていたのは否定できない事実であろう。この点は、後に紹介する滕海清将軍の講話のなかからも読み取れる。
虐殺されたモンゴル人の本当の数は、不明のままである。再度強調しておきたいのは、この「内モンゴル人民革命党員を粛清する」事件たるものは、モンゴル人のみを対象とした大量虐殺である、という歴史である。言い換えれば、モンゴル人だから、という唯一の理由で殺害されたのである。
犠牲者の数を正確に確認する作業は、今の中国政府が情報開示するまで待つしか方法がないかもしれない。しかし、それ以前にも、世界の研究者や良識的な市民たちに対してやっておかなければならない仕事がある。それは、この事件を少しずつ世界に知らしめることである。
世界はまだ、モンゴル人ジェノサイドの実態を知らない。日本を含む世界各国の「進歩的な知識人」たちはかつて文化大革命を絶賛していた。はたして、数々のジェノサイドを推進してきた文化大革命が謳歌の対象であってよいのであろうか。
では、ジェノサイドとは如何なる行為を指しているのだろうか。1948年12月9日、国連総会は「ジェノサイドの防止及び処罰に関する条約」(略してジェノサイド条約)を採択した。「ジェノサイド条約」の第二条の規定は以下の通りである(クーパー 1986:14-15)。
この条約において集団殺害とは、国民的、人種的、民族的又は宗教的な集団の全部又は一部を破壊する意図をもって行われる次の行為をいう。
a)集団の構成員を殺すこと
b)当該集団の構成員の肉体又は精神に重大な危害を加えること
c)集団の全部又は一部の肉体的破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に故意に課すること。
d)集団内における出生を妨げることを意図する措置を課すること。
e)集団の児童を他の集団に強制的に移すこと。
内モンゴル自治区の場合だと、大量虐殺が発動されただけではない。1969年5月に内モンゴル自治区東部の三盟と西部の三旗がそれぞれ隣接する漢人とムスリムの省(自治区)に分け与えられた[?維民 1991:321-323]。「夷狄たるモンゴル人」たちを「分けて統治する」政策の導入である。モンゴル人の古くからの領土が再び自治区に返還されるのには、1979年まで待たなければならなかった。地図1(地図1,中国政府によって分割されていた1970年代の内モンゴル自治区。内蒙古自治区革命委員会測絵局『中華人民共和国内蒙古地図集』1973年より)と地図2(地図2,固有の領土の一部を取り戻した現在の内モンゴル自治区。『内蒙古大辞典』編纂委員会『内蒙古大辞典』1991年より)は、それぞれ分割されていた当時の内モンゴル自治区と、現在の内モンゴル自治区を描いたものである。
モンゴル人たちはまた殺戮のなかで、父祖の代から住み慣れた故郷を失ったのである。同胞たちの国であるモンゴル人民共和国との国境地帯に住んでいたモンゴル人たちは、強制移住を強いられた。彼らはある日突然、着の身着のままで劣悪な環境への移動を命じられた。そして、その移住の過程でまた虐殺の対象とされていたのである。
民族文化も深刻な打撃を受けた。自治区全域で寺院などが破壊し尽くされた(楊 2000:27-77,2004,2006)。モンゴル語の使用も否定され、モンゴル語で授業をおこなう学校が閉鎖に追い込まれた。モンゴル人たちは中国人と同じような名前を使用しなければならなかった。私事で恐縮であるが、本書の編者はモンゴル人であるが、中国人風の名前を付けなければ生きていけなかった過去を経験していることを付け加えておきたい。
植民地統治や民族浄化[伊藤 1996; 多谷 2005]といった国家暴力がある社会に襲いかかった際に、性的支配が伴われると指摘されている(宮地 2008)。内モンゴル自治区のモンゴル人女性たちは中国文化大革命の嵐に襲撃された時にも、漢族の人たちから性的暴力を繰り返し受けた。これは、北・中央アジアの遊牧民の女性たちが有史以来に初めて嘗めた辛酸であろう。
このように、大量殺戮をはじめ、強制移住、民族文化の破壊、そして性的な支配など、中国共産党が発動したモンゴル人ジェノサイドの実態は、上で示した国連による「ジェノサイド条約」の規定と完全に合致している。中国におけるモンゴル人ジェノサイドの実態について考えることは、我々人類が歩んできた「20世紀史」について振り替えることを意味している。
人類は、この屈辱と悲惨な歴史を忘れてはいけない。

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編者紹介
楊海英(Yang Haiying)
日本国静岡大学人文学部教授。専攻、文化人類学。
主な著書
『草原と馬とモンゴル人』日本放送出版協会、2001年。
『チンギス・ハーン祭祀―試みとしての歴史人類学的再構成』風響社、2004年。
『モンゴル草原の文人たち―手写本が語る民族誌』平凡社、2005年。
『モンゴルとイスラーム的中国―民族形成をたどる歴史人類学紀行』風響社、2007年。
『モンゴルのアルジャイ石窟―その興亡の歴史と出土文書』風響社、2008年。
主な編著書
『《金書》研究への序説』国立民族学博物館、1998年。
Manuscripts from Private Collections in Ordus, Mongolia I, Mongolian Culture Studies I, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2000, Ko¨ln, Germany.
Manuscripts from Private Collections in Ordus,Mongolia II, Mongolian Culture Studies II, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2001, Ko¨ln, Germany.
『オルドス・モンゴル族オーノス氏の写本コレクション』国立民族学博物館、2002年。
『ランタブ―チベット・モンゴル医学古典名著』大学教育出版、2002年。
Subud Erike: A Mongolian Chronicle of 1835. Mongolian Culture Studies VI, International Society for the Study of the Culture and Economy of the Ordos Mongols (OMS e.V.), 2003, Ko¨ln, Germany.
『内モンゴル自治区フフホト市シレート・ジョー寺の古文書』風響社、2006年。
『蒙古源流―内モンゴル自治区オルドス市档案館所蔵の二種類の写本』風響社、2007年。

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